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第一話・焔 第一章・2


 春樹は自宅マンションの駐車場に入った。
 ゲスト用と書かれたスペースに、火曜の朝に乗った高岡の車がある。
 エレベーターが上昇する間、新田の笑顔が何度も浮かんだ。
「お前の食べかけなら、喜んで食うよ」
 ハンバーガーショップに戻り、急用ができたから帰らなくてはならなくなった、と告げたとき、自分の皿には食べかけのプレーンバーガーがあった。
 新田は何も聞かず、春樹の食べたところに口を重ねたのだ。
(こんなのいやだ。また汚される)
 できるだけゆっくりと部屋に向かう。
 ドアをあけた春樹は、回れ右をしたくなった。
 廊下の壁にもたれた高岡が、手に何かを持っている。
 長さ七十センチほどはあろうか。
 高岡が下を向いたまま退屈そうにしならせているそれは、どう見ても鞭であった。
「服を脱いで壁に手をつきなさい。俺に背中が見えるように」
「……は、い」
 廊下の床にブレザーを置こうとした手を、鞭でひょいとすくわれた。
「しわになる」
「え……?」
 ヒュン! という風を切る音がして、パーン! という破裂音がした。
 高岡が鞭で壁を打った音だった。
「仔犬ちゃんのために、可愛い鞭にした。音も可愛いな」
 可愛い音。
 耳のすぐ横で鳴った音は、春樹の身をすくませるのに充分だ。
「こんなに可愛い鞭は久方ぶりなので、加減を間違えそうだ」
「ご、ご、ごめんなさい。すぐに電話しなくて、あの」
「電話の件もあるが、お前は自分で問題を大きくしている」
「え、あっ、あの、どうい、う」
 春樹の唇に、鞭の先端が触れた。
 細い鞭の先に、幅の広くないヘラ状のものが付いている。そのヘラで、唇の輪郭をゆっくりと撫で回された。
「可愛い仔犬ちゃんは、相変わらずオツムが弱い。お前が上着を床に置こうとしたとき、俺は何と言った?」
「しわになる、って」
「そうだな。お前は男娼が服を脱ぎ散らかしたら、どう思う?」
「行儀が……悪い、と」
 鞭の先が、喉の真ん中あたりでぴたりととまった。
「お前は本当に……おめでたいな」
 高岡の声が、腹の底から響くような声に変わった。
 顔を平手で叩かれる。廊下の壁に左肩が強く当たった。許しを請おうとしたところに、さらに平手打ちをくらう。
 衝撃と理由のわからなさに、頭が煮えたようになった。
「説明するのも飽き飽きする。上半身だけ裸になり壁に手をつけ!」
 汗でシャツのボタンが滑る。いざとなったら、通報されるような大声で叫ぶしかない。
「歯を喰いしばれ」
 最初の一撃が背中を襲った。
 風切り音の直後に、焼けるような痛みが走った。
 痛い、などと叫ぶ余裕はなかった。うめき声すら漏れない。立っているだけで必死だった。
 通報を、助けを、などと、いつ考えたかと思うくらい、長い間打たれた。
 ように思ったのだが──
「イミテーションの乗馬鞭で二分。仔犬にしてはまずまずか」
 二分? 二分間しか打たれていなかったのか?
 髪を引かれた。高岡のほうに顔を向けさせられる。高岡の目は、体を割られた夜よりも強い光を帯びていた。
「ここは廊下だ。この鞭は全長六十八センチ。俺のリーチも入れると、そうそう振り回せるものではない。広いリビングで、体重をかけて打ち据えたらどうなるか考えろ」
「は、い……は……い」
「返事は一度だ」
「はい……!」
 髪をつかまれたまま浴室に引きずられていく。
 浴室に突き飛ばされると思って身構えたら、蹴り倒された。脱衣所の床を滑るように転がる。
「だれが防御をしていいと言った」
「う……いた、い」
「加重された鞭の味を知ってみるか。オモチャでもそれなりの作りだ。どうする」
「いや、いやです。許して」
 背中は火がついたみたいだった。皮膚の表面が燃えて、皮膚の下の組織がずきずきしている。
 泣いてしまいたかった。子どものように泣けば、いくらこの男でも仕事だ。保身はともかく、報酬面での損失くらいは考えるだろう。
 だが、こんなときに限って涙が出ない。
「俺の服を脱がせろ」
「はい……」
「早くしろ。前にも言ったはずだ。グズはアレルギーが出るほど苦手だと」
「はい」
 グズアレルギーなど聞いたこともない。どんな症状が出るのか知らないが、それで死ねと思ったときだった。
 ヒョ! の風切り音に、体が自然と丸まっていた。
「いた……いいッ!」
 やっと言葉になった悲鳴は、すぐに喉の奥に戻っていった。息がつまる。
「乗馬鞭の傷は面倒だ。お前の明日の時間割を確認したが、体育はないようだった。明日までに傷を消すのは無理だ。俺の勘違いだったとしても、恨むなら自分を恨め」
「は、い」
 春樹は何も考えず、高岡のシャツに手をかけた。
 これは罰だ。罰を受けるときによそごとを考えると、さらなる怒りをかうとわかった。経験したくもないことだが、今はこの窮地を乗り切るしかない。
「仔犬。俺の服はしわにするな」
「はい……ハンガーを持ってきてもいいですか?」
「いいだろう」
 高岡のシャツの前をあけた時点で、寝室のクローゼットにハンガーを取りにいった。この隙に玄関から飛び出して助けを呼ぼうという考えはなくなった。蹴り倒されたのも鞭をふるわれたのも生まれて初めてだったが、高岡がどこか手加減をしているのは、何となく理解できる。
 これ以上逆鱗に触れたら本当に何をされるかわからない。
「遅くなりました」
 脱衣所に入ると同時に、勝手にそう言っていた。
 奴隷にでもなった気分だった。
「もう一度聞く。わからないならわからないと言え、いいな」
「はい」
「何故服がしわになるとまずいと思う。それがたとえお前の服でもだ」
 春樹は即答できないことへの罰も怖かったが、高岡がこの質問に固執する理由がわからなかった。床にひざまずき、わかりません、と答えた。
「お前の服に触れさせる機会と口実を与えるからだ」
 答えを聞いて、なお意味がわからなくなった。
「来い。俺は今夜も別口の仕事がある。やりながら教える」
「はい……」
 下の服も脱いだ春樹は、用心深く浴室に入った。


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