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第一話・焔 第一章・2


 夜も更け、見たいテレビもなくなった。
 食べたくもなかったが、高岡が用意した白米と味噌汁を、竹下の手料理に足して食べる。
 春樹の夕食はいつも遅かった。早い時間に食べてしまうと、空腹で夜中に目が覚めることがあるからだ。だれもいない部屋の真夜中は、あまり好きではない。
 きょうの昼間、春樹は学生食堂で新田を避けた。聡明な瞳で、正面きって見つめられるのが怖かった。昼食の箸は進まず、大半を残すことになった。
 その反動のためだろう、夕食は呆れるくらいによく入った。

 『箸使いがなっていない』

 バチッと音をたてて、箸を置く。竹下の料理だけを口に放り込み、飯と味噌汁は捨てた。
 乱雑に食器を洗い、浴室に入る。高岡の言葉を思い出しただけで体が汚れる。
 春樹は、食器以上に乱雑に体を洗った。


 ボストンバッグの中に入れたものを、元に戻しているときだった。
 ベッドの上の携帯電話が鳴った。見たことのない番号だ。
「……はい?」
「何をしていた? 仔犬ちゃん」
 通話ボタンを押したことを後悔した。
「何ですか」
「仔犬ちゃんはいい度胸だな。質問に即答しないうえに、問い返しか」
 高岡の含み笑いがする。T大受かったか何だか知らないが、所詮おかしな経歴の男だ。電話を通しているだけなのに、支配しているような気でいるらしい。
「ボストンバッグの中身を戻していました」
 春樹は心の中で死ね死ねと念じながら、ベッドにもたれて返答した。
「ベッドか何かにもたれたか。ますますいい度胸だ」
「えっ」
 電話口を手でふさぎ、あたりを見回す。
(まさか。カメラがある、とか)
 天井やベッドの下、ミニキャビネットの隅、学習机などに目を走らせる。
「仔犬ちゃん。俺もその部屋で裸で仕事だ。カメラがあったら引き受けやしない」
 たまりかねたという様子で、高岡が笑い出す。
「え、エスパー……」
 高岡が吹き出した。
 何なんだ。
 どこかの飲食店にでもいるのか、高岡の周囲は騒がしい。アキラ、どうしたの、という女の声が聞こえる。食器の音もしていた。この喧騒の中、春樹の様子を言い当てたと?
「高岡さん。どこにいるんですか」
「仔犬ちゃんに言う必要はない」
 そうですか、などと言ったら、鍵をあけて入ってきそうな気がする。
 春樹は次の言葉に備えながら玄関に向かった。二重にロックをかける。
「施錠したか。いいことだ」
「…………」
 絶句するしかなかった。
「俺はお前よりは長く生きている。色々な仔犬を見てきた。行動パターンのバリエーションは、そう多くはない。エスパーと言われたのは初めてだがな」
 思い出しておかしくなったのか、高岡はまた声をたてて笑った。
 酒に酔っているのかもしれない。リビングの時計を見る。直に終電を迎える時間だった。

  車の運転をするのだろうか。

 春樹はリビングの中央で足をとめた。運転すればいい。車でも何でも。
(死ねと思ったじゃないか)
 電話の向こうの喧騒は変わらない。十中八九、アルコールの出る店だろう。
 平日の朝からカーチェイス一歩手前の運転をする男だ。自業自得だ。
 自業自得、なのだが────
「あ、あの」
「悪いが仔犬ちゃん。俺はまだ仕事がある。切るぞ」
「あのっ! う、運転! しないでください!」
 無音になった。電話が切れたのかと思い、もしもしと大声を出す。
「そんなに吠えなくても聞こえる」
 高岡の声は、機嫌がいいのか悪いのかさっぱりわからない。
「お酒飲むなら、運転はだめです」
「ほう。どうしてだ」
 やはり常識のない男には通じないらしい。
 そもそも何のためにかけてきたのだ、この男は。
「僕に仕事を教えてくれる人がころころ変わるのは、いやです」
 ふたたび無音になった。怒っているのだろうか。
「お仕事あるんですよね。もう切り」
「いいだろう。今夜は乗らないでおく」
 靴音のような音がしている。喧騒も小さくなった。
(階段を使って……店外に出る……?)
 高岡の周囲が静かになり、煙草に火をつけるライターの音がした。
 ジジ、と、紙と葉が燃える音がする。
「仔犬ちゃん。それをなくすな」
「え?」
「その気性だ。お前を助けることになる」
 何を言っているのだろう。
 まったくもってわからないが、適当にはいと言った。
「適当に相槌か。まあいいだろう。お前の番号が合っているか確認するために電話をした。今後この番号から電話があったら、すぐに出られなくても必ず折り返すように。この電話は留守番電話にはならない。鳴らして出なければ適当に切れ。わかったか?」
「は、はい。僕の番号って、書類に書いてあるんですか?」
 あの金曜日、春樹は自分に関しての書類を見ることはなかった。見たのは高岡彰──今、電話の向こうにいる妙な男の経歴書のみだった。
「お前の携帯電話を拝見したろう」
 電話がプツリといった。高岡が切ったのだ。
「携帯電話を拝見……」
 忘れもしない先週の金曜日、父の会社の会議室。
 春樹の尻ポケットから、高岡が携帯電話を抜き取った。あの短い時間に春樹をあしらいながら、番号を覚えたのか。
(さすがT大合格者。無駄に記憶力がいいんだ)
 春樹は着信履歴の一番新しい、忌々しい番号を登録した。
 名前は「T」とだけにした。


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