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第一話・焔 第一章・2
帰宅したころには、すっかり陽が傾いていた。
玄関に家政婦の竹下の靴がある。いつもなら自宅に戻っている時間だ。
「どうしたの。何かあったの?」
ダイニングテーブル用の椅子から竹下が立ち上がる。顔色がよくない。
あの男の痕跡でも見つけたのだろうか。春樹は唾を飲み下した。
「春樹ちゃん、あれは……」
竹下の視線を追う。
廊下に出したままのボストンバッグだった。中を見た形跡がある。今朝、高岡に登校直前に平手打ちをくらい、バッグの存在を忘れていたのだ。
「が、学校で避難訓練の話があって。そういえば何も用意してないって、きのう急に思い立って。適当に詰めたら、着替えばっかりになっちゃった。何か家出する人みたいで変だよね。びっくりしたでしょ、ごめんね」
嘘は意外と、すらすらと出た。竹下の顔が明るくなる。
「ああ、よかった。春樹ちゃんも高校生。お部屋まで掃除されるのいやになって、怒ったのかな、なんて思いました」
「そんな。竹下さんがいなかったら、ゴミ屋敷になっちゃうよ」
笑いながら、竹下がシンクに向かう。春樹はぎくりとした。
確か茶碗を洗ったはずだが……。
記憶がはっきりとしない。高岡に、後ろからいやらしく抱きしめられたからだ。
(あのばか。死ね。交通事故か何かで)
「ごめん。片してなかった、かな」
「洗って戻してありましたよ。お米も炊いて。いい具合に炊けてましたね。お味噌汁の具は、ちょっと大きめでしたけど」
竹下がくすりと笑う。春樹も作り笑いをした。
あのSMクラブ経営者は、春樹が歯を磨いて教科書を用意している間に洗い物をしていたのだ。頬がひくつくのをこらえた。
あえて家出という言葉で関心を逸らせようとした狙いは、悪くなかったらしい。竹下の不安は一掃されたようだった。明るい声で失礼しますと言った。
春樹は、玄関で靴をはく竹下を見た。背中の輪郭が小さくなった気がする。
竹下は片足が悪い。子どものころの事故が原因で、足首が深く曲がらないのだ。寒い日は痛むようで、よくさすっていた。
「竹下さん。変なこと聞くけど、家政婦紹介所には登録してないって、ほんと?」
以前、本人がそう言っていた。足のことで好条件の仕事を回してもらえない、と。加えて、病弱な弟がいる。竹下も弟も独身だ。電車を乗り継いでの見舞いは時間もとられるため、平日の午後数時間のこの職場は、彼女にとって渡りに船のはずだ。
竹下はまた、青白い顔になる。
春樹は両手を広げた。努めて何気ないふうを装う。
「安心して。僕が大学に進めたとして、寮とかに入ったら、どうなるのかなって。竹下さん、父さんの会社に雇われてるんだよね? もしここの仕事がなくなったら、社員寮の寮母さんになるの?」
「いいえ。寮母は、今は派遣の人がするんですよ。お父様の会社と同系列の派遣会社から、派遣されてくるんだそうです」
「クラスで独立心旺盛な奴がいて、そいつと話してると将来の話になるんだ。ほんとにごめんね。まだ竹下さんにいてもらわないと、困るから、ね」
二度目の嘘と作り笑いは通じなかった。
竹下の表情が暗い。背を丸めている。
「わたしは、足もこうですし、春樹ちゃんのお世話がなくなったら、おいとまです」
「竹下さん……」
「春樹ちゃん……春樹さん。わたしはここのお仕事で、破格といっていいお給料をいただいています。独り身ですので、貯えもあります。将来のお話をなさるのは、とてもいいことです。信じる道にお進みください」
深々と頭を下げ、竹下がドアの外に出ていった。
春樹は竹下が座っていた椅子に腰を下ろした。まだ竹下の温もりがある。
(僕が体を売りさえすれば、竹下さんも路頭に迷わずにすむ)
両手でひたいを覆う。
竹下も春樹と同じ、賃貸物件で暮らしている。定年までまだ数年ある。
彼女とは、たくさんの思い出を共有した。母の代わりといってよかった。入学式や卒業式で一緒に写真を撮り、いたずらが過ぎたときには平手で叩かれた。
高岡の平手打ちとは違う。あたたかい手だった。叩くとき、決まって涙ぐんでいた。
体の輪郭が縮んだ竹下に、要らぬ苦労をかけさせる。
それだけの価値が自分にあるとは思えない。
母の代わりをしてくれた人を苦しめる価値が。
「昨夜……逃げなくてよかった」
春樹はつぶやき、そのままテーブルに顔を伏せた。
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