Cufflinks

第一話・焔 第一章・2


 春樹は新田の両腕を握って言った。
「本当は、あのまま抱き合っていたかった。体にも触れたかった。でも、怖くなったんだ。あの先に進むのがじゃなくて、僕でいいのかなって。僕は男らしくないし、成績もぱっとしないし……修一に、ふさわしいとは思えない」
「ばか。ふさわしいと思わない奴とキスなんてするか」
「で……も……」
 春樹の唇に、親しみのある唇が重なった。
 高岡などとは違う、心があたたかくなる感触。

 (高岡の────キス)

 高岡とのキスを、唐突に体が思い出した。
 春樹の奥底にある芯に、火がつく音がした。
「うっ、は、るき」
 気がつくと、離れようとした新田の唇を追っていた。
 新田の顔を両手で押さえ、舌が欲しいと要求する。突然の深いキスにたじろぎ、新田の口がひらく。ひらいた新田の口に舌を深く差し入れた。新田の口中をむさぼり、一度顔を離す。
「熱い……欲し、い……!」
 何を言ったかわからないまま、また唇を奪った。
 高岡に翻弄された一夜は、炎に包まれていた。
 頭の中から高岡との夜を消し去りたい。そう思えば思うほど、体の疼きは強くなる。
 強い力で押しやられた。
 新田の短い黒髪が、春樹によって掻き乱されていた。
「ごめんなさいっ」
 春樹は顔を覆い、転がるように新田から離れた。鞄をつかんで戸口に向かう。
「俺と話したくないなら出ていけ!」
 初めて聞く、新田の怒鳴り声だった。春樹の足がとまる。
「いい加減な気持ちじゃないと伝えたかった」
 新田が居住まいを正す気配がする。
 春樹は新田に背を向けているため、何も見えない。
「お前、手が汚れるのも構わずに、花の手入れを手伝ってくれたよな。正式にクラブ活動が始まる前から。校庭の掃除だってそうだ。クラスで掃除当番に当てられてもサボる奴が多いのに、お前は違った」
 あれは新田といたかったからだ。
 言おうとした唇が震え、声にならない。
「花木の図鑑、図書室で借りたろ」
 振り返る。鞄が床に落ちた。
「お前を初めて見たときから、髪に触りたい、頬にも触りたい、そう思った。そう思って、お前の図書カードをこっそり見た。話のきっかけがほしかったんだ。園芸のことだと、俺がしゃべるばかりになるし。お前の興味は何か、知りたかった」
 新田に駆け寄る。
 春樹が伸ばした手は、新田にがっちりとつかまれた。
「花木の図鑑借りてるの知って、心臓が踊った。俺が好きなものに興味を持ってくれて、心の底から嬉しかった」
「修一……!」
「いい加減な気持ちじゃない。ちゃんと話したいんだ」
 新田が春樹の手を握りしめる。ひたいにキスをされた。
「話したいときは、逃げないでほしい」
 手の甲にもキスを受ける。
 春樹は何度もうなずき、新田の顔を見た。
「僕は……おかしいんだ。修一のことになると、訳がわからなくなる」
 新田も、何も言わずにうなずいた。
 新田には知る由もない。高岡との一夜など。卑劣で、ああいった行為に慣れた男によって引き出された炎など。
「これからはちゃんと話します。逃げないし、びっくりさせるようなことはしない。だから許して」
「わかった。送ろうか」
 立ち上がった新田を見上げる。新田は、いたずらっぽく笑った。
「安心しろよ。送りオオカミになんてならないから」
 新田の声は思いやりにあふれる、あたたかいものだった。
「きょうはいいよ。二年生のホームルームがあるんでしょ? 遅れちゃうよ」
「そうだっけ。俺、忘れてた」
 この学校では月に一度の特別なホームルームがある。
 参加は強制されないとのことだが、清掃活動などの地域ボランティアに関する議題が多く、参加すれば推薦入試用の調査書評価が上がるとの噂だった。きょうの放課後に二年生の特別ホームルームがあると、校内放送で言っていた。
 毎朝進んで校庭掃除をする新田だ。調査書云々はともかく、忘れるはずがない。
 春樹を気遣うために嘘をついてくれた。
 それだけで、いやなことを忘れられる気がした。
「先輩、ハンバーガー好きだよね。駅ビルにできた新しいお店がおいしいらしいから、今度、一緒に行きましょう」
「いいな。そうしよう」
 別れ際、髪をくしゃりと撫でられた。
 新田がおどけた調子で、自分の黒髪を指差す。
 お前にくしゃくしゃにされたからお返しだ、というテレパシーが届いた。
 春樹は校庭で一番の大木を見上げた。樹齢百年以上の桜の木だ。
 初めて校庭掃除を手伝った日、新田は「この木で決めたんだ」と言った。電車の車窓から沿線にあるこの大木を見て、この学校に進もうと決めた、と。
 人づてに聞いた話だが、新田は一般入試での過去最高得点で合格した。もっと上の学校にも行けたのだ。かろうじて合格した春樹とは違う。
「切ろうと思えば切れたんだぜ? 切れば、校庭をもっと広く使える。それをちゃんと残しておくって、いい学校ってことだろう?」
 あの日、桜を見て話す新田の笑顔は、朝の太陽と同じくらいに輝いていた。
 春樹の手に、残り少なくなった花弁が落ちた。
 淡いピンクのカケラが乗った手の甲に、そっと唇を寄せる。
 炎の気配などしない、確かな愛情が確認できた。


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