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第一話・焔 第一章・2


 春樹がキッチンに立つのを新田はとめた。
 新田はいつも変わらず優しい。
 それにひきかえ、あの狂犬は。我が物顔でソファに直行し、脚を組んで座っている。新田が全開だった窓をしめても、そしらぬ顔だ。
(やっぱり死ね。死ね死ね、ばか男)
「新聞は?」
 突然、高岡が質問をした。春樹はスローモーションで振り返った。
「まだ、とってません」
「とるように言ったはずだが」
「ごめんなさい」
「……アレルギーが出そうだ」
 出ればいい。
 瓶入りのオレンジジュースをコップに注ぐ。
 高岡用に何を混入しようか考えたが、こんな状況で出されたものを奴が飲むはずもない。何も手を加えずに盆に乗せた。
 仔犬ちゃんなどと言ってみろ。これをお前の頭からかけて、新田と逃亡してやる。
「丹羽くん、新聞とってないのか?」
 新田が言った。春樹はうなずき、ジュースをローテーブルに置く。
 勧めもしないのにコップを取った高岡が勝手に話をする。
「この子はのんびり屋で困る。きみはクラスメイト?」
「いえ、僕は二年です。クラブ活動が同じです。あの……丹羽くんの進路って」
「うちのチビちゃんは、考えることをしない。やることも遅い。前途多難だ。この子といると苛立つこともあるだろう。辛抱強いね、きみは」
 春樹は新田を見た。新田は頬を少し赤らめている。
「丹羽くんはクラブ活動でも真面目ですし、話していて楽しいです。高岡さんはどんなお仕事をされてるんですか?」
 春樹のコップを持つ手がぴくりとした。
「つまらない自営業だよ」
 高岡はにこやかに笑った。ジュースがきれいに飲み干してある。
(やっぱり何か入れておけばよかった)
「それは?」
 新田の横に置かれたプリント用紙を、高岡が指し示した。
 新田が春樹に向き直り、照れくさそうに頭をかいた。
「学級連絡用のプリントと、午後の授業ノートのコピーです」はにかんだまま春樹を見て続ける。
「森本くんだっけ、あの子にコピーしてもらった。彼も心配してたぞ」
「修一……先輩」
 今すぐ新田に抱きついてキスをしたい。邪魔な狂犬さえいなければ。
 二年の新田が、春樹のクラスをわざわざ訪ねてくれたのだ。
 春樹は渡された紙を、穴があくほど見つめた。
「僕は帰るよ」
 待ってと言おうとした春樹に背を向けたのは、高岡だった。
「えっ」春樹の口から、素っ頓狂な声が出る。
「長くは話せないのだろう? そちらの先輩はいい子のようだ。大切にしなさい」
「あの、僕も帰ります」新田が立ち上がる。
「そうか。では送ろう」
 送る? 高岡の車で、高岡の運転で? 新田を?
「待ってっ! 高岡さんに用事あるの忘れてました。高岡さん、もう少しいてください。先輩ごめんなさい。あした、学校で」
「あすは土曜日だよ」
 新田が苦笑いをした。春樹は、それなら月曜に! と言いながら新田を玄関に押していく。高岡が笑いを噛み殺した。
 玄関で靴をはく新田が、一度高岡を見た。春樹に耳打ちする。
「お前の言うとおり、いい人だな。ちょっと厳しそうだけど」
「か、かなりスパルタだけどね」
「日本人には珍しいタイプだ。オードトワレを愛用してる。いい香りだな。あのスーツ、仕立物だって? 車がすごいな。あんなのに乗ってみたいよ」
 狂犬め。何を自慢している。オー何とかの香水など、キザなだけだ。
「一緒に乗るのはやめたほうがいいよ。スピード狂だから」
 高岡の車は左ハンドルの外車だ。スポーツタイプで、外観も洗練されている。
 車に疎い春樹でも相当値が張るものだろうと察しがつく。運転する者が正常なら、ドライブも快適なのであろう。
 新田は高岡に礼をして出ていった。
 春樹が息をつくと、背後にはもう高岡がいた。


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