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第一話・焔 第一章・2
春樹は早退扱いになった。
森本が鞄を通用門まで持ってきてくれた。
養護教諭からは、安静にしたのち、早目に受診をしろと釘を刺された。
『一年の丹羽か』
一度も授業を受けたことのない、名前も知らない教師が春樹の名を知っていた。
生徒は名札をつけていない。春樹の家庭環境の特殊さから、注視するように言われているのかもしれない。
春樹は自宅に帰り着くと、ベランダの窓を全開にしてソファに横たわった。
竹下には、帰宅途中で電話をして帰ってもらった。早退したと告げたら竹下は帰りを待つと言ったが、ひとりで静かに眠りたいのでと無理を通した。
窓の外の桜は、すっかり葉桜になっていた。
一週間で変わってしまったのだ。桜も、春樹も。
ネクタイをゆるめ、ひたいに手をやる。
吐くだけ吐いたら、憑き物が落ちたようにすっきりした。
廊下を見る。きのうの、無様に打ち据えられた自分の残像があった。
『客は全員、悪意を持っていると思え』
高岡の声が頭の中で再生された。
春樹のブレザーに忍ばせた一万円札を、高岡は回収しなかった。
『ポケットにあったものが現金なら、まだ救いがある。これが違法薬物だったら? 生涯脅されても文句は言えないぞ。そのような客とは社も関わり合いにならない。よく考えて行動しろ。密室にいるお前を助ける者はいない』
これから踏み込む世界に怯え、平静さをなくした。
その世界の醜悪さに、鞭で打たれた自分を重ねた。
そんな世界の住人になる自分に、学校はまぶしすぎた。
春樹は背中の傷を触った。痛みはだいぶひいている。血もほとんどとまっていた。シャツの上からは何も見えない。
だれも春樹を男娼の卵などとは思わない。
(修一は……?)
表向きには自分の生活を維持し、竹下の生活を支えるための売春だ。
楽をしたいために体を売ると思われても、何も言えない。
(許してくれなくてもいい。もう、修一のいない世界なんて考えられない)
春樹は目をとじた。
体が必要としていたのか、一分とかからず睡魔に陥落した。
どれくらい眠ったのだろう。
窓からの風が冷たくなっていた。時計を見る。
(五時半……?)
起きたとたんにくしゃみが出た。これでは本当に体調を崩す。
窓をしめようと起き上がった春樹は、玄関を凝視した。
呼び鈴が鳴っている。身構えたが、高岡なら鍵を使って入ってくる。
(びくつくな)
インターフォンの応答ボタンを押す。
「……どなたですか」
「新田です」
春樹はドアスコープも見ずに玄関のドアをあけた。
「修一!」
新田にしがみつく。だが、新田は春樹を抱きしめようとしない。
「はる、丹羽くん。ご親戚の方も、いるんだけど」
新田が困惑した声を出す。何度か嗅いだ香りがした。
「高岡……! さん?!」
高岡が、玄関ドアをしめずに支えていた。
薄い笑みを浮かべている。先週の金曜と似た感じのスーツを着ていた。
「下で会ったんだ。駐車場抜けようとしたら、ぶつかって。プリント落としたら拾ってくれて。俺たちの学校名を知ってる様子だったから、もしかして丹羽くんのご親戚の方かなと思って聞いたら、そうだって言うから」
新田の手には校名の入ったプリント用紙と、ほかにも数枚の紙があった。
無言で突っ立っている春樹に高岡が声をかける。
「早退したと聞いた。大丈夫か」
「……大丈夫です。ただ、あまり長くは話せません」
「わかってる。ほんとにひどい顔色だったもんな。だいぶよくなったみたいだな」
新田が春樹の顔を見て言う。
渡すものがあるだけだからここでいいと言う新田を、なかば強引にリビングに押し込んだ。
次に高岡を睨みつける。
お前と話したくないのだ、という念を、はっきりと高岡に送った。
高岡が目を伏せて笑った。念は伝わったらしい。
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