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第一話・焔 第一章・2
最悪な誕生日から、ちょうど一週間後の金曜だった。
春樹の箸はとまったままだ。学生食堂の壁際で、どこを見るでもない。
「丹羽。いつもの席じゃないから探したぞ」
新田が春樹の隣に腰を下ろした。春樹の下唇にできた血豆に気づく。
「唇、どうした?」
「夜中にトイレに起きて、転んじゃった」
春樹の前には、半分も食べていないうどんがある。薄味で口に合うのでよく選ぶメニューだったが、今は重荷だった。
「ばかだな。しかもうどんなんか選んで。熱かっただろう」
春樹はうなずくだけだった。
きょうは朝からこんな調子だ。授業にも集中できない。今まで同席していた森本たちの話にも、ついていけなかった。
「ひとりで食べてたのか?」
今度は首を横に振る。
新田は黙って、自分のおろしハンバーグをひと口大に切り分けていく。
「森本……同じクラスの連中と食べてたけど、僕が遅いから先に行っちゃった」
「よく冷まして、少しでも食べろ」
うどんの丼は脇に追いやられ、ハンバーグの皿が置かれた。
春樹はふうふうと息を吹きかけ、口に運んだ。噛むごとに、新田の愛情が押し迫ってくるようだった。やっとの思いで飲み下す。
「食べたくないか」
春樹はやはり、うなずくだけだ。
「お節介だろうが言わせてもらう」新田が椅子を寄せてきた。
「通いの家政婦さんが来てるんだよな? 平日、午後の数時間。学校に登校してたら、あんまり顔を合わさないだろう」
春樹は新田を見た。
新田は、この実直な男は、春樹の健康状態を心配しているらしい。
「昔からいる家政婦さんでも、よく見ていないと変調には気付かないんじゃないか? 入学前の健康診断では問題なくても、もっと詳しいのやったほうが……」
「僕のこれは、病気じゃないんです。本当に」
「春樹」
「この季節って、おかしいんです。母の命日とか、自分の誕生日とか。先輩にはまだ言ってないけど、やっぱり僕の家、少し変わってるみたいで。でも大丈夫。もう高一だし。体は、どこも悪くないです」
春樹はハンバーグの皿を新田の前に置き直した。
「修一、少し待って……話せるときがきたら、必ず話すから」
「俺でいいのか? 待つの」
「え……?」
新田の瞳に、以前見た影がある。
「きのうのバーガー屋でかかってきた電話、だれからだ?」
背中の傷に冷たい汗がしみる。
「あれ……あれは、親戚の人」
「前もそう言ってたよな。先週の金曜、急に遠い親戚の人がきたから休んだって。本当に親戚の人だとして、その人はいい人なのか?」
即答できない。新田の頭がフル回転を始めている。
「本当ってどういう意味? いい人だよ。僕の進路を気にしてるんだ」
反吐が出そうだった。
とっさにつく嘘だとしても最低だ。何が楽しくて、あの狂犬をいい人などと言わなくてはならない。
春樹は立ち上がった。椅子を強く引く。雑な音が周囲の視線を集めた。
「本当に、ちゃんと言うから。信じて。きょうはひとりになりたいんだ」
「待てよ」
新田が春樹の腕をつかもうとした。
春樹は新田に半身を向け、背中を見せる形になった。
新田の手が、春樹の背中に触れた。
「── ッ!」
恐ろしいほどの悪寒がした。床にしゃがみ込む。
しゃがんだ姿に、鞭で打たれた自分が重なるのが見えた。
奴隷のような姿を衆目に晒している。
吐きそうになった。
「春樹?! 大丈夫か!」
新田が背をさすろうとしたので、春樹は這って逃れた。
いよいよ周囲の者が奇異な目を向ける。
視界の隅に教師の姿が見えた。こちらに向かってくる。
「一年の丹羽か。どうしたんだ」
「わかりません。ここ数日、気分が優れないみたいで」新田が答える。
早くここから出たい。吐き出したい。何もかも。
春樹は口を押さえ、名前も知らない教師に懇願した。
「先生、気持ち悪い。トイレに行かせてください」
教師に支えられ、春樹は食堂を出た。
食堂から一番近いトイレに駆け込む。
春樹の体内からは、見たこともないほど大量の吐しゃ物が撒き散らされた。
(しっかりするんだ。このままでは、高岡に殺される)
涙も一緒に便器に流し、顔を洗った。
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