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第一話・焔 第一章・1


 必需品を選ぶのにこんなに時間がかかるとは思わなかった。
 春樹はリビングの中央で、持てるものはもうないか見渡した。
「母さんの写真も入れたし。お金、もうないよね」
 思い当たる引き出しをもう一度あける。食器棚の端に竹下の湯呑みを認めた。
「竹下さん……ごめんね」
 メモを書いていこうか。何度もそう思った。
 竹下も父の会社に雇われている身だ。何も書かないほうが、彼女のためになる気がした。
 ベランダのカーテンをわずかにあけて表を見る。
 だれもいない。
 何も物騒なことは起きそうにない。
 外が暗いため、ベランダの窓は鏡のようになっていた。
 春樹はそこに映る自分の顔に目がとまった。
 高校生になっても間違えられたので立腹したが、この顔を女の子と勘違いする人間は少なからずいた。卵型の顔は青白くはない。薄い小麦色だ。いつも口角が上がっている唇と、丸い目がどうしても好きになれない。からかわれることも多かった。唇に触れる。
 新田と交わしたキスのために、少し腫れている。
 キスをして電気が流れたのは、きょうが初めてだった。
 いや、違う。
 きょうじゃない。金曜だ。
 平日の昼間の、企業の会議室の中央でされた、かすめ取るようなキス。
 足もとから、ぞくりとするものが立ち上がった。
 初めてキスを怖いと思った。
(当たり前じゃないか。あの男は頭がおかしいんだ。気圧(けお)されて普通だ)
 高岡彰。
 T大を中退してSMクラブの経営をしている、おかしな男。
 あの男も、横領の末に息子を捨てる父も、だれも正常ではない。戸籍も住民票もある十六歳の日本人に売春をさせましょうと、会議室で軽く話すなんて普通じゃない。
 春樹はカーテンをしめ、リビングの灯りを消した。すべての部屋の灯りを確認して、最後に火の元を確認した。
 奨学金の申請が通らず退学したとして、一生新田に会えなくなるわけではない。
 経済面で窮しても、汚れた体になるよりずっといい。
(最悪、警察に駆け込んだっていい)
 そうだ。高岡のキスなんて犯罪じゃないか。十六歳の少年に、白昼堂々と人前で──
 高岡のキス、という言葉に、膝が震えた。
(余計なことは考えるな。とにかく逃げるんだ)
 中学の修学旅行で使ったボストンバッグを持ち、廊下の灯りも消す。
「竹下さん、ごめんなさい。落ち着いたら必ず連絡するから」
 玄関の灯りをつけずに飛び出したので、まともにぶつかった。

  ぶつかった。

「ほう。逃げようとする知恵はあったか」
 高岡──彰。
「なん、何で」
 金曜とは違う、ラフなスーツを着ている。襟の高い、少し光沢のある生地のシャツが、やはり夜の仕事をしているのだろうと思わせた。
 春樹は高岡の右手を見た。鍵を持っている。
「俺からの条件だ。高校生を好きに呼びつけることは難しい。俺の都合で自由にここへ出入りできるように、とな」
 春樹はバッグを振り回した。
 至近距離で、大きなボストンバッグだ。振れば必ず当たると信じていた。
 しかし空を切るばかりで、高岡をかすめもしない。
 振り幅が小さくなったバッグを軽々と取り上げられた。
「仕事を覚える前に体力を使うこともなかろう」
 高岡の顔を見上げる。マンションの廊下の蛍光灯の下、動物みたいな目が光っている。
「い、やだ。だれか……!」
 口を手でふさがれる。あごから支えるように覆われているため、噛むこともできない。
「見られたいのか。自分から今の生活を壊すとは、変わった趣味だな」
 さあっ、と、耳の中が鳴った。
 血の気が引く音とは、これなのか。
 春樹の一瞬の隙を、頭のおかしな男は見逃さなかった。


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