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第一話・焔 第一章・1


「あ……ふっ」
 春樹は女の子のような声に赤面した。自分の口から出た声だった。
「かわいい声、だな」
 唇を離した新田が言った。春樹を見つめ、息をつめて顔を近づける。
 上唇の裏側を、舐めるように丁寧に吸われた。今の声を再現させたいのだ。
 春樹は懸命に声を殺した。
「丹羽……!」
 声を聞くことがかなわなかった新田が、春樹を床に押し倒した。
 春樹の寝室の床は天然木のフローリングだ。ラグマットに伸ばした手を握りしめられる。ベッド脇のミニキャビネットの上で、マグカップが音をたてた。
「せん……先輩、名前で呼んで」
 何度も重ねられるキスに、ふたりとも息があがっていた。
 新田が春樹の顔の横で肘をつき、春樹の前髪をかき上げる。きょうの新田は性急だった。
 初めて用具倉庫でキスをしたときから、きょうで約二週間。
 出会ったときから三週間は経っていた。土嚢につまずきながらしたキスは、ふたりともぎこちなかった。
 新田が一線を越えたがっているのは、春樹にもわかる。少なくとも、次の段階に進みたがっているのは間違いない。
「春樹。お前を始めて見たとき、男女共学になったかと思った」
 今までに何度か聞いた言葉が繰り返される。
「俺、石灰の袋とか土嚢とか、色々持ってただろ。お前の上半身しか見えなくてさ。用具倉庫、薄暗かったし」
「先輩、ご父兄席は第一体育館で、女性用お手洗いは一階ですよって言ったんだよね」
「そうそう。春樹、お前も名前で呼んでくれよ」
 春樹は髪を触る新田の手を取り、修一、とささやいた。
 また唇が重なる。ふわりとした、一瞬のものだった。
「あの薄暗いとこでお前の髪や顔を見たら、女の子だって思うさ。なのにお前、怒って。僕は男で生徒ですって、食ってかかるからびっくりした」
 微笑む新田の顔はいつもまぶしい。
 春樹は新田の頬に触れた。新田が春樹の手を握り、甲にキスをする。
「何でお前、入学前のオリエンテーションの日に、用具倉庫なんかにいたんだ?」
「竹下さんが緊張してお腹痛いってトイレに何度か行くから、無理に父兄席にいてもらうこともないと思ったんだ。先生に聞いたら、ついててあげていいって……。竹下さんと一緒に外の空気吸うために校庭に出たら、花があんまりきれいで」
 春樹は一度目をとじた。新田の優しい唇が、言葉の続きを催促するように手の甲を滑る。
「こんなにきれいな花、どんな人が手入れするのかなって……。用具倉庫に、手入れする人がいるかと思ったから」
 幼稚園も小学校も中学校も、父兄参加必須の行事は、すべて家政婦が出席した。中学での進路指導のときだけは、父の会社の者が同行した。
 校庭の周囲を飾る花々は、本当に美しかった。
 用具倉庫の戸口からかけられた、自分より低い、溌剌とした声に胸をつかまれた。
 振り返って目にした新田の姿は逆光だったが、今も焼きついて離れない。
(先輩も……修一も、僕との出会いを忘れていない)
 忘れるも何も、三週間と少し前のことだ。覚えているほうが自然なのだろう。
 だが、春樹には新田に関わるすべてのことが特別だった。
 ふたりの間の空気が、濃く、熱いものになった。
「春樹、体に触れたい。いやだと言ったらやめる」
 新田が春樹のネクタイをゆるめる。もどかしそうにシャツのボタンを外す。
 下半身に集まりかけていた血が、脳天めがけて逆流した。
「修一、だめ、ここじゃだめ」
「わかってほしい。もうだめなんだ。俺、お前がいないと」
「ベッド、ベッドで……修、一」
 唇を奪われる。唇が離れるたびに体を起こし、互いの制服の胸をあけ、ベッドにずり上がるようにして移動した。短距離走をしたような呼吸になった。
「あ、だめっ」
 春樹の首や胸の上部を、新田が強く吸った。抱きしめられ、腹や太腿に新田の股間が当たる。張りつめているところが、春樹の体にこすりつけられる。
 男の自分で勃ってくれた。
 涙が駆け上ってくる。
「はる、春樹、好きだ」
 新田と同じようになっているところが、新田の大きな手で包み込まれた。
「僕も、す……」

 『男性を相手にした売春だよ』

「いや! いやだっ!」
 春樹は自分の意思とは真逆の行動をとっていた。
 新田の顔を押しのけ、シャツの前を合わせる。横に向けた顔からは涙がこぼれた。
「春樹……」
 新田が春樹の上から身を引いた。静かにベッドから下りる。
「ごめん。やっぱり、急すぎたな」
「ちが」
「無理するな。チャンスはきょうだけじゃない。なんてな」
 乱れた制服を整える新田が、カーテン越しの夕陽で縁取られた。
 横顔が下を向く。興奮を静め、散った感情を拾い集めているようだった。

 『男に対する嫌悪感はないとみえる』

 ちがう、違う、違う──!
 違う、何もかもが違う。男相手なんていやだ。新田だからいいのだ。
 新田しかいやなのだ。
「修一、僕は」
 ベッドの宮にすがりながら体を起こした。声がまた出なくなる。
 言いたいことと言ってはならないことが、喉の奥でせめぎあっていた。
「本当に無理するな。俺はお前が好きだ。お前も嫌わないでくれると嬉しい」
「しゅう、いち」
「何か食べて、元気出せ。あした会おうぜ」
 陽が落ちる。肩を落とした新田の後姿が、春樹の前から消えた。


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