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第一話・焔 第一章・1


 苛立ったような短いノックの音と同時に、背後の扉がひらいた。
 春樹の脇を長身の男が足早に通る。香水のような香りが一瞬だけした。
「仕事に関する資料は、前日までに送っていただくはずでしたよね」
 春樹に背を向ける格好の男が、中央の男の前に立って言った。
 顔を見なくてもわかる。あの男は、この書類の男だ。
 と、そう思ったのだが。
「織田沼さん、いつも時間どおりですな」中央の男が返した。
 オダヌマ? タカオカじゃないのか。
「仕事でその名を使うことはありませんが。ご存知のはずでしょう」
「いや失礼。父君とは旧知の仲だから、ついね」
「お約束は守っていただかないと困ります。人を扱う仕事です」
 男は一見細身に見えたが、スーツ姿は頑健そうで均整がとれていた。
 広い肩や張りのある背中から、仕事をなめるな、自分をなめるなというオーラが発散されている。
 対して、中央の男は微笑みを絶やさない。
「悪かった、高岡さん。きみなら多少の不備があっても満足のいく仕事をしてくれると、私たちも知っているものだから。今後は気をつけるよ」
 上背のある男が微笑む男を見据えている、そんな雰囲気だった。もしかしたら睨んでいるのかもしれない。笑顔があるのは中央の男だけで、他は押し黙って下を向いている。
「改めて紹介しよう。あの子が丹羽春樹くんだ。きみの資料はすでに渡してある」
 男が振り向いた。
 あきらかに機嫌の悪そうな顔は、書類の写真と同じものだった。
 目が──やはり目が怖い。
 春樹は無意識に腰を浮かした。
「立ちなさい。そのほうが僕も楽だ」高岡が言う。
 従うつもりなどないのに、体が勝手に動く。
 高岡の手が直立不動の春樹の顔をつかむまで、数秒とかからなかった。
「目をとじろ」
 その言葉には従えなかった。
 とじるのを待たずに、春樹の唇に高岡の唇が重ねられたからだ。
 軽く触れ、かすめるように上に移動する。
 上唇から離れる少し前に、一度だけ動きがとまった。
 香水と煙草の香りを認めたのは、唇も手も離れてからのことだった。
「初めてではないな」
 高岡が平然と言い放った。
 春樹は後ずさり、手の甲で口を拭った。
「冗談じゃない! 今後の生活なら母方の親戚でも何でも頼ります。売春なんて犯罪だ!」
「親戚?」
 高岡が少し高いトーンの声で言った。小ばかにしているような声だった。
「失礼」
 高岡は下座の机上から書類を取り上げた。ほんの数秒間だけ目を通すと、元にあった位置に書類を置いた。
「どこに母君方のご親戚が? いたとして、このご時世だ。のんびりと私学に通う高校生を預かってくれる奇特な方だと思うのか」
「そんなことあんたに言われる理由はない! あんただって、のんびり私学組じゃないか」
 偏差値は比ぶべくもないけれど。
「春樹くん。お母さんは天涯孤独だ。生家もない。ご親類はだれひとり、いないんだよ」
 中央に座る男が言った。相変わらず微笑んだままの顔だった。
「う……そ」
 春樹は椅子の背を両手でつかんだ。
 突如、尻に手がかけられた。
 T大合格経験のあるSMクラブ経営者の手だ。
 恐怖した春樹が振り返ると、高岡の手には春樹の携帯電話があった。
 尻ポケットから抜かれたのか。
「返せ! 返せよ!」
 高岡は春樹の動きを先読みしたように動いた。一六〇センチに満たない春樹が懸命に手を伸ばすたびにかわされる。身長差はゆうに二〇センチはあるだろう。
 高岡がひらひらと身をひるがえす。携帯電話を持ち替えたり、上にかかげたりすることもない。片手でボタンを操作しながら、顔には笑みを浮かべている。
 そうして気がつくと、高岡は春樹が座っていた椅子に腰を下ろしていた。
 長い脚を組み、春樹に向かってある画面を見せる。
「これがファーストキスの相手か」
 ひらかれている画面には、新田の顔があった。
 写真付メールのやり方がわからないと嘘を言って、撮らせてもらったものだ。
 新田は春樹が持っていないものを持っていた。日焼けしたベース型の顔に、短い黒髪がよく似合う。茶色の瞳は覗き込むと聡明そうで、長く見てはいられない。
 白い歯を覆う厚めの唇は、何度か触れたことがある。
 春樹の唇と、舌で。
「返せっていってるだろッ!」
 春樹は携帯電話を奪い取った。憤怒の呼吸で胸が上下する。
「男に対する嫌悪感はないとみえる。好都合だな」
 高岡が、まるで軽口をたたくような口ぶりで言った。
 春樹は扉に向かった。扉の脇にいる下座の男も、春樹の行動をとめはしなかった。
「父に会えると聞いたからきたんだ。帰る!」
 高岡が春樹を見た。形のいい唇の端を上げ、口をひらく。
「賢明な判断だ。自分の値段を聞くのは愉快なものではない」
 春樹は外れそうな勢いで扉をあけた。
 携帯電話を握りしめたまま、エレベーターホールに向かった。


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