Cufflinks
第一話・焔 第一章・1
テレビの音がした。
春樹は枕に顔をうずめた。
(うるさいな、消せよ。あのばか男)
がば、と、跳ねるように起きた。
体を見る。下半身も、外からわかるところは傷ついていない。
跳ね起きても強い痛みはなかった。ただ、気持ち悪さだけがある。
「つ……」
ベッドから下りて歩くと、さすがに体の中が痛んだ。耐えられない痛みではない。クローゼットをあける。バスローブが見当たらない以上、何か着る必要があった。
本当は一刻も早くシャワーを使いたかったのだが。
スウェットパンツとTシャツを着る。少し肌寒いかと思ったら、そうでもない。
ファンヒーターがつけられていた。朝晩は冷えるので、例年四月中は置いている。
高岡がつけたのだろうか。
竹下の出勤は基本的に午後の数時間だ。カーテンをあけるまでもなく、朝の気配がはっきりとわかる。時刻も六時前だった。
(勝手なことしやがって)
春樹はリビングに出た。
リビングは朝の陽光でまぶしくきらめいていた。
ベランダ近くのソファにあの男さえいなければ、美しい朝だった。
「新聞は?」
高岡はこちらを見もしないで言った。テレビのニュースと窓の外とを、ぼんやりと眺めている。
「とってません」
「とるように。経済紙もだ」
春樹は口を覆った。胃の中のものが逆流してくる。
トイレに駆け込もうとした春樹の足もとに、雑誌が投げつけられた。
「返事をしろ」
「……はい」
「よろしい」
トイレに飛び込み、便座を上げた。吐き出されたものは胃液ばかりだった。
理不尽な現実に、全身が喰い荒らされていく。
(修一、修一、助けて)
洗面所に移って顔を洗う。鏡の中に高岡がいた。
「それが済んだら朝食だ。ただしその格好で食卓につくことは許さん」
許さない? だれの家だと思っている。
タオルを取ろうとした手を叩かれた。振り返りざま、髪をわしづかみにされた。斜め後方に強く引かれる。首が折れそうな力だった。
「いたい、痛い! やめてくださ」
「お前が本当の犬なら保健所行きだぞ。返事もできないのか」
「い、た……! ごめんなさい、着替えます」
敬語など使いたくもないが、勝手に出てくる。
乱暴に突き放される。鏡に映る高岡は、もう廊下に出るところだった。
「待ってください。シャワーを使ってもいいですか」
高岡が片方の眉を上げた。
「登校時刻から逆算して、間に合うと思うなら好きにすればいい。お前は今までいちいち承諾を得て身支度をしていたのか? ここはお前の部屋だろう」
すぐに朝食だという口ぶりだったではないか。
春樹はリビングに向かう高岡の後ろ姿を、呪い殺す気持ちで睨んだ。
(やっぱりあいつは普通じゃない)
制服を用意して浴室に入る。高岡に触れられたところをすべて洗った。
シャワーを浴びてわかったことだが、春樹の体は起きたときにはすでに拭かれていた。
汚れているところはなかったのだ。
制服を取りにいったときに見たベッドは、きれいに整えられていた。
トイレで吐いていた間に整えたのだろうか。
思えば、昨夜土足で歩いた廊下もきれいだった。
トイレもそうだ。口を押さえて駆け込んだとき、汚れてはいなかった。便器の中も。
バスローブは洗濯カゴの中にあった。竹下が不審に思うような汚れはないかくまなく見たが、特にこれといってなかった。
春樹は自分の顔を見た。憔悴しているかと思ったが、やや元気がないという程度だ。おかしなアザなどもない。これなら新田に会っても大丈夫そうだ。
あのSMクラブ経営者は、後処理もぬかりなくするということだろう。
(T大受かったのに、ご立派な仕事だ)
高岡の前で奇妙な笑みを作らないように気をつけながら、食卓に向かった。
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