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第一話・焔 第一章・1
窓の外の桜も、かなりの部分が緑色になっている。
ローテーブルの上に置かれた母の遺影は、午前の明るい光を浴びていた。
写真立てを手に取る。母の、髪の部分を指でなぞる。昔はもっと色が濃かった。十六年の月日で色あせたのだ。
春樹は母譲りの濃い栗色の髪を、この春まで好きではなかった。
入学して間もなく、この髪をきれいだと言われた。
指を差し入れられ、そっと引き寄せられた。
そのときから春樹にとって、髪は一番好きなところになった。
遺影を窓に向ける。さらに色あせてしまうと思うが、春の陽射しを母にも見せてやりたかった。
家政婦の竹下が春樹の前にケーキと紅茶を置いた。
「チーズケーキにしましたよ。これならどうです?」
ブレザータイプの制服を着た春樹が顔を上げる。
「ありがとう、竹下さん。じゃあ、少しだけ」
「ええ、ええ。召し上がってください」
すでにセロファンがはがされているケーキを、ひと口だけ口に入れる。
脂と甘さと塩味が混じる、それだけの食べものだと思う。紅茶で飲み下す。
生きた姿を一度も見たことのない母を前に、喪服代わりの制服姿で食べる、食べもの。
おいしいと思える要素がない。
春樹は竹下をあまり見ないようにした。竹下の二の句は毎年同じだ。
「お母様のご命日が春樹ちゃんのお誕生日なんて……本当に、なんて……」
竹下の鼻声は、やはり今年も同じだった。春樹が竹下の背中をさする。
「泣かないで。母さんが天国で困ってるよ」
春樹が竹下にかける言葉も、やはり毎年代わり映えがしない。
母は出産時の事故で死んだ。
これ以外のことは何ひとつ聞いていない。母の人となりや好きだった食べもの、趣味。それらは父なら知っているのかもしれない。だが、父とは会ったことがなかった。
春樹は壁時計を見た。直に十一時になろうとしている。時計の横にかかるカレンダーは、きょうが金曜だと示していた。
春樹はもう十六歳になるのだ。
墓参もしないし、だれが来訪するということもない。母の命日であろうと自分の生まれた日であろうと、学校を休んでまで母と相対する必要があるとは思えない。
「迎えの人、まだだよね」
廊下の向こうの玄関を見る。都内のマンションにしては広い間取りだ。竹下もそう言っていた。
亡くなった母が経済力のある男の愛人であったのだと、改めて思う。
目尻を拭った竹下がサロンエプロンを握る。
「遅すぎますよ。お父様にお引き合わせするのに、十六年もかかるなんて」
春樹は窓の外を見た。散っていく桜を、彼はきょうも掃き清めるのだろうか。
(新田先輩……)
玄関の呼び鈴が鳴った。竹下がドアをあける。春樹は立ち上がり、深く一礼をした。
「遅くなりまして申し訳ありません。道が混んでいましてね」
灰色のスーツを着た四十がらみの男が言った。
「丹羽春樹くんだね。行こうか」
紺のスーツの男が言う。こちらの男は三十代半ばか。
「何か飲んでいかれては」
竹下が、あからさまにその気がない言葉を口にした。それは男たちにもわかるのだろう、笑顔で断る。春樹が玄関に向かう。
「行ってきます。竹下さん、ケーキありがとう」
春樹はふたりの男と共に、部屋をあとにした。
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