「ありがとう! 守屋くんの悪戯、やめさせてくれて!」
大きな体が立ちどまる。生駒は春樹に背を向けているため、どんな表情なのか見当もつかない。
「守屋くんを殴らないでくれて、ありがとう」
小さな舌打ちがした。振り返った生駒の顔に激しい怒りはない。
「あんなキモオタ、ぶっ飛ばす価値もねえだろ」
「でも、生駒くんが叱られるようなことになったら、いやだから」
生駒の目が吊り上ったように見えた。ちぢこまる春樹の脇を通った生駒は、拝殿へ歩きだした。
「……初詣でしようぜ」
そばを通りすぎるときに、生駒がぼそっと言った。財布を開ける生駒に春樹がついていく。
「なんで今なの? まだ十二月だよ」
「いいから黙ってお参りしろよ」
堂々と学校をサボる人が「お参り」と言うのが不似合いで隣を見る。賽銭箱に小銭を入れた生駒が両手を合わせた。知らず、春樹は息をのむ。
生駒の横顔には、性別や年齢を超越する美しさがあった。
しっかりした骨格は無骨ではなく、唇の山が観音様に似ている。鼻からも口からも白い息が出ていないのは、呼吸をとめて一生懸命に念じている証拠だろう。
春樹も賽銭を投げ入れた。息をとめて何かを祈ったことがないため、動かない時間をやり過ごすだけになった。長く手を合わせていた生駒が静かに姿勢を正す。
生駒を真似て下ろした春樹の右手を、生駒の左手が握った。すぐに手が離れる。
「靴を隠される前から、おまえを見てた」
生駒は拝殿の奥を見たまましゃべった。春樹に触れた手はダウンジャケットのポケットに入れられている。逃げようと思えば逃げられそうだし、なんだかおかしなことを聞かされる予感もする。
にもかかわらず、生駒の話を聞きたいと思う自分がいた。
「靴を隠されるようになって、帰り道におまえがだれかに殴られたりするかと思って、あとをつけた。この神社も、猫も、つけたからわかった」
ぶっきらぼうな声がしなくなると、木の葉を散らせる風音だけになった。言葉が見つからないのは右手に残る熱のためだと気づいたときには、生駒は石畳を歩き始めていた。
「寒いだろって言葉、忘れない!」
歩みをゆるめた生駒が振り返りかける。右手を開いたら大切なものが逃げそうで、春樹は左手を大きく振った。
「年が明けたら、またここでお参りしようね!」
生駒が片手を上げた。上げた手を振ることなく、表の通りに面した鳥居をくぐっていった。
翌日も、その次の日も、生駒は登校しなかった。守屋も欠席が続いている。
あと一日で冬休みになってしまう。春樹は放課後に生駒のクラスを訪ねた。生駒と親しくしていた生徒は少なく、トイレから出てきた煙草臭い男子生徒を仰ぐことになった。
「生駒ぁ? とっくに引っ越したぜ?」
喫煙を中断されて腹立たしいのだろう、生徒は不愉快そうだった。頭をかいて壁にもたれる。
「親が離婚すんだと。埼玉だか、千葉だっけかな。関東のどっかに行ったんじゃね。親父につくとか言ってたから」
「どっかって。お父さんと一緒なのに、引っ越す必要があるの?」
「知るかよ。親の都合だろ。都内だと家賃も高くつくだろうし、生駒も高校行かないだろうし」
「高校に行かない……?」
生駒と友達だったはずの生徒がにやりと笑う。
「行けない、つったほうが正解か。ヤクザの、舎弟の舎弟が噛んでるケンカに駆り出されんだぜ? 成績よくたって、無理、無理」
じゃーなと言った生徒がトイレに入っていった。奥の個室を中心にたむろしていた何人かの男子生徒と、ばか笑いしながら会話を始める。
春樹の足は下駄箱に向かわず、職員室を目指した。
それからの行動は徒労に終わった。
本当に生駒と親しかった生徒は退学して連絡がとれず、人づてに知った生駒の自宅は空き家になっていた。学校に引越し先を訊ねても個人情報だからと取り合ってもらえないばかりか、生駒とかかわるなと強く言われた。
大晦日を数日後に控えた日、春樹は生駒に手を握られた神社に入った。
派手な喧嘩をしても、学校をサボっても、生駒は春樹を割れた瓶から守った。守屋を殴ったりもしなかった。乱暴者ではなかった。
雪を落としそうな雲の下、春樹は境内をばたばたと走った。手水の水は身を切りそうに冷たい。手を洗って口をすすぎ、拝殿前で両手を合わせる。
生駒が高校に進学しますように。これからも大切な人を傷つけませんように。
最後に礼をするとき、少し息苦しかった。初めて呼吸を忘れるほど祈ったためだ。
冷えた手に息をかけて拝殿をあとにする。どこかから、猫の鳴き声が聞こえた。
< 了 >