ウエイトレスの恋・5

「してみたいか」
「え……」
「何事も経験だ。ガラスと葉では、違いは大きいかもしれないが」
 高岡の指に挟まれた葉が、目の前で数回ゆらめいた。緑の部分が多く、葉脈にも張りがある。
 揺れる葉が唇をふさぐ。風が木の葉を運んだ。灯りが当たると葉が煌き、舞台に降る紙片を思わせた。
「目を閉じろ」
 唇に触れた葉を通して、頼りない体温を感じた。まだ湿り気を残す葉には香りがあり、しっとりした感触が悪くない。葉のうぶ毛でくすぐられ、口もとの皮膚が弛緩した。
 散るには早かった葉が取り除かれる。闇夜が似合う男は、春樹が視界の自由を得ることを許さなかった。
「まだ目を開けるな」
 耳もとでささやく少し低い声に、まぶたが忠実に従う。
 何も間に入らない、体温がはっきりと伝わるキスをされた。
「ん、う」
 唇に残った葉の香りに、いつもの煙草の香りが重なる。おぼろげだった唇の熱も、知っている熱さに戻った。体が覚えている温度と、屋外で応じたという事実が理性を奪う。
 互いの唇を同じように吸い、舐め、舌を絡めた。何度も角度を変えて合わせた口がとろけそうになり、高岡の二の腕をつかんだ。
「あ……っ。んう、く」
 漏れる声に顔が火照る。熱が下に移動しないうちに離れなければ。先に去ったのは、高岡だった。
「可愛い仔犬ちゃん。声に気をつけろ。続きがしたくなる」
「つ、続き……って!」
 抗議の言葉の代わりに、大きなくしゃみが出た。歩き出していた高岡が足をとめる。
 春樹の襟もとに、柔らかいウールが触れた。高岡のマフラーだった。前で軽く結ばれた布が、キスで上昇した体温をさらに高くした。
「貸してやる」
「……いいです。高岡さん、帰り遅いんじゃないですか? もっと冷えますよ」
「黙って借りておけ。ムードが壊れる」
 人を犬呼ばわりして、ムードなどとよく言える。前を行く高岡に邪悪な念を飛ばそうとしたが、マフラーの香りに封じられた。
 いつものオー何とかに加わるのは、煙草の香りと、地下室に似た埃っぽい匂いだ。ブランデーのような香りもする。これが大人の、男の香りなのだろうか。
 春樹は落ち葉を捲き上げながら走った。高岡に追いつきざま、白い息を吐いて質問する。
「高岡さんも、あんな恋したことありますか? 身を引くと決めて、ガラス越しにキスするような。恋人の体温を、我慢するような恋を」
 高岡は立ちどまらなかった。追いついたばかりなのに、小走りを再開しなくてはならない。
「あるかもしれないし、これからするのかもしれない」
 そう言うと、高岡はにやりとした。おかしなスキップに似た歩きかたをする。
「仔犬ちゃんの真似は難しいな」
 言われて、春樹の小走り歩行を模倣しているとわかった。
「やめてください! ムードが壊れます!」
 笑う高岡を追う春樹の靴が、枯れ葉を豪快に蹴る。高岡に遅れないようにしているだけなのだが、人が見たらスキップ競走をしていると思うだろう。これでムードは完全に消えた。公園を彩る木の葉の香りより、マフラーの香りのほうが落ち着くというのも頭にくる。
 街灯に映える大人げない男の笑顔は、目を閉じていなくても若々しく見えた。


< 了 >

maru 様に捧げるキリ番2000のキリリク作品です。甘い高岡と春樹をというリクエストでした。
少しだけ未来の高岡と春樹です。春に出会って初冬になっても、まだこんなふたりのようです。
            

[09年 10月 28日]


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