NOVEL

光の影 -1-

「金山」
 夕日が、教室を紅く染め上げていた。
「はい、先生」
「……お前は……とても可愛いよ……」
「……嬉しい……先生……」
 社会科資料室。僕は先生の腕に抱かれて、顔を胸に埋めて呟いた。先生は僕の頬に、瞼にキスを落とす。僕は目を閉じて、身を委ねる。身体の中の熱いモノ。僕の内部を満たすモノ。
 好き。凄く好き。僕を離さないで。僕を一人にしないで。僕をあなたでどうか満たして。好き。大好き。僕の全てを、あなたで満たして。僕の内部を浸食していく、熱い脈動。何度もキスを交わしながら、僕の内部を支配していくモノ。僕を熱く満たして埋め尽くしていく、あなたの熱い鼓動。僕は喘ぎながら、更に求める。もっと、もっと、もっと、もっと、もっとあなたで。……あなたで僕を満たして。あなたの全てで僕を満たして。僕をあなたで一杯にして。他の全て全部消え失せて、何も考えられなくなるくらい、僕をあなたで満たして。僕を貫いて、僕を激しく揺さぶって、僕の全てをあなたで満たして。
 腰を上下に振りながら、あなたの肉に打ち付けられながら、僕を天国へと連れて行って。救われないこの世界から、僕を昇華して導いて。あなたで僕を満たして。
「……好き……っ!!」
「……金山……綺麗だ……っ!!」
 僕を頂点へと上り詰めて。
「ああっ……ぁああっ……!!」
 先生の背中に、爪を立てた。
「……せんせっ……ぇっ……!!」
 その瞬間だった。
「何やってるんです!!」
 ぴたり、と先生が止まった。……僕は何が起こったのか判らなかった。先生の身体が、不意に冷たくなった気がした。
 僕はゆっくりと出入り口の扉を振り返る。そこにいたのは、国語の年増の女教師。僕達を見つめて、ふるふると震えていた。恐ろしい形相をして。
「高橋先生!! あなた、一体何を考えてらっしゃるんです!!」
 金切り声で、彼女は叫んだ。
「何て事をしてるんですか!! 破廉恥な!!」

 先生は、高橋先生は『先生』を辞めた。僕の前から姿を消した。周りの大人達は『可哀相に』と言った。……小学三年生の時。あれからもう三年が経つ。僕は何故先生が僕の前から姿を消したのか、判らなかった。とにかく悲しくて、淋しくて、泣く事しか出来なかった。先生は僕を満たしてくれたのに。誰も埋めてくれない僕の空虚を、僕の淋しさを、僕の哀しみを埋めてくれる唯一人の人だったのに。
 僕は一人は厭なんだ。僕はとても淋しいんだ。誰か、どうか僕を満たして。僕をあなたで一杯にして。僕をあなたで満たして。僕の空虚を、僕の淋しさを、どうか満たして。僕は一人は厭なんだ。一人でいるのはとても淋しい。淋しくて淋しくて、たまらないんだ。
 お願いだから、僕を一人にしないで。僕を見捨てないで。僕は何だってするから。お願いだから僕を一人にしないで。僕を満たして。心の空虚で、壊れてしまう。壊されてしまう。誰か僕を助けて。僕を見つめて。僕を愛して。僕を滅茶苦茶に抱きしめて離さないで。僕の全てをあなたで満たして。あなたで全部一杯にして。僕をあなたで支配して。
 僕を、僕だけを何より誰より愛してくれるたった一人。僕を、僕だけを見つめて抱きしめてくれるたった一人。たった一人がいたら、僕はもう死んでも良い。僕はその瞬間の為に、きっと生きてる。僕はただのがらくた。僕はただの入れ物。僕は空っぽの器。僕の空虚を埋めてくれたら、僕の全てを捧げても良い。たった一人の為になら、僕はいつだって死んで良い。僕を、僕だけを見つめてくれるなら。一瞬だけでも良い。その一瞬の為だったら、何もかもを引き替えに出来る。
僕を誰かどうか満たして。……僕はとても淋しいんだ。

 FAXが昨夜のうちに吐き出した紙に、父の筆跡を見つけた。
 「律へ
  食事はちゃんとしているか?
  家政婦の水苗さんが、お前の体重が増えないと心配していた。
  あまり心配は懸けないように。
  母さんも心配している。
  公演は順調・おおむね好評だ。
  五日後には一時帰国する。
  次の出発はその一週間後だ。
  だから、正月は家で過ごせる。
  風邪など引かぬように。
                    父」
 僕は溜息をついた。今日は十二月二十三日。従って今年もクリスマスは一人だ。家政婦は五時になったら家へ帰る。こんな事にはもうつくづく慣れているけど、それでも一人で過ごすクリスマスイブなんてあまりにも虚しい。だからたぶん今年も家では過ごさないだろう。去年は見知らぬ人と夜を過ごした。行きずりの会社員。左薬指に、指輪をしていた。朝になる前に、彼は帰ってしまったけれど。僕はラブホテルで一人映画を見て、朝を迎えた。泣きながら、朝を待った。身体を満たしても、心は全く満たされない。一時的に、飢えを凌いでも、何にもならない。僕の身体は空虚が支配している。
 一人は厭だ。……一人は厭。僕は紙に鉛筆で文字を書く。
「父さん 母さんへ
  僕は元気だよ。
  食事はしてる。水苗さんはちょっと心配性なだけ。
  体重は一キロ増えたよ。身長は三cm伸びた。
  大丈夫。風邪は引きそうにないから。
  父さんこそ気を付けて。
  公演成功おめでとう。
  帰国楽しみにしてます。
                    律」
 そしてFAXで送る。……不定期にやり取りする手紙。世界各国、不特定の場所から送られてくる物。今度はフィレンツェのホテル。父はその『世界』では世界的に有名なピアニスト。『天才』と呼ばれてるらしいけど、僕には実は良く判らない。母はバイオリニスト。二人は世界中を飛び回り、演奏活動をし、CDを出す。家にはほとんどいない。たまに帰ってきても数日。僕はサンタクロースという存在を、幼稚園で初めて知った。……だけど、僕の家にはサンタクロースはいない。父母の名義で送られてくる、航空便。それがクリスマス・プレゼント。事務的に仕事をする家政婦の残していくクリスマス料理を一人で食べて、たった一人でプレゼントの包みを開ける。何年も何年も繰り返し。
 父母の顔は、写真の中でしかまともに見てないような気がする。本当に実在するのか、僕の幻想ではないのか。時折、そう思う事がある。勿論そんな筈はないのだけれど。
 僕は満たされない。僕は空虚で埋め尽くされてる。僕はとても淋しい。とても虚しい。友人なんかいない。心を許せる他人なんて、何処にもいない。僕の『家族』は一人もいない。家政婦は家事をしてくれる。彼女はとても有能で、限られた時間内できっちり決められた仕事を完璧にこなす。だけど僕の心までは満たしてくれない。僕自身がそれを望んではいないのだから、たぶんそれで良いのだろう。僕が欲しい物は家には無い。学校にも無い。外にも無い。僕を満たしてくれる物。……僕は探し続けてる。僕は探し求めてる。
 僕だけの、たった一人の人。僕だけ愛してくれて、僕だけ満たしてくれて、僕を幸せにしてくれる人。たった一人で良い。僕を愛して。僕を満たして。僕だけ見つめて。僕だけを聞いて。僕を世界で一番幸せにして。僕の空虚を全部満たして。
 僕だけを見て、僕だけを愛してくれるなら、そのために何を失っても構わない。僕を一人にしないで。僕を満たして。

 セーターとジーンズにコートを引っ掛けて、僕は外に出た。街は喧噪に満ち溢れてる。家政婦は合い鍵を持っているから、勝手に入って勝手に仕事して、勝手に帰る。だから僕は自由だ。……正直言うと、家政婦の事はあまり好きじゃない。一緒にいると、気詰まりだ。僕は一人、ぶらぶらと歩いた。店のショーウィンドウを覗いたり、足が疲れたら喫茶店に入ってお茶したり。街は子供連れとカップルで溢れ返っていて、一人で歩いてる僕は埋もれて取り残されて、死んでしまいそうだと思った。僕は、僕と過ごしてくれる人を見つけなくちゃいけない。一人だと寒くて凍え死んでしまう。当てもなくぶらぶらと彷徨う。ふと、看板の前で立ち止まった。
 『椿姫』。歌劇の公演があるらしい。その出演者が、何処かで名前聞いたような気がして、何処で会った人だったかを、思い返していた。……その時。
「何をやってらっしゃるんです!?」
 声が、聞こえた。僕は振り返った。黒いスーツを着た、背の高い人。二mはありそう。綺麗な逆三角形体型。スーツの上からも判る筋肉質で広い肩幅。長い黒髪を、後ろ一つで束ねて。綺麗な顔の男の人だった。二十代半ばから後半くらいの。
 思わず見惚れた。……どうしよう。物凄く、好みだ。どきどきと心臓が高鳴った。彼は僕に近付き、顔を覗き込んで、狼狽の色に染まった。
「……あ……間違えました。失礼いたしました」
 小学六年生相手に、ひどく礼儀正しい人。頭まで下げて。
「いえ、おかまいなく」
 そう言って笑うと、彼は少し変な顔をした。意外な物でも見たといった、困惑と微妙な嬉しさと笑みと、それから淋しさ。
「……すみません」
 そう言って、去ろうとした彼の腕を、僕は思わず掴んだ。
「……あの」
 勇気を振り絞って。顔が、熱くなる。
「……今夜、お暇ですか? ……もしくは、明日」
「……え?」
 彼は、奇妙な表情をした。
「……僕と、夜を過ごしてくれませんか?」
 彼は曖昧な顔をした。
「……君は?」
「……僕は……」
 こういう時、僕は相手に普段本名を言わない。連絡先も教えたりしない。だけど、この人にはもう一度会いたかった。これきりにしたくなかった。
「……金山律、です。金属の金に、富士山の山。それに己を律するの律。……あなたのお名前、聞いても宜しいですか?」
 彼は、くすりと笑った。
「……俺の名前は中原龍也。真ん中の中に、原っぱの原。難しい方の龍に、何円也の也。……君は見たところ小学生みたいだけど?」
「……小学生だと何かいけないんですか?」
 彼は苦笑した。
「……どういう意味で言ってる? おじさんをからかうのが趣味? 意味判って口にしてる?」
 楽しげに、唇を歪めながら、意地悪く言った。……僕は、彼が気を悪くしてないと知った。意地悪い口調だったけれど。
「……単刀直入に言います。僕と、セックスしませんか?」
 声を抑えてそう言った。軽く目を見張り、それでも唇に浮かべた笑みはそのままに、彼は言った。
「……本当、単刀直入だね」
 呆れたように。
「……いけませんか?」
「いや。別に。……それで? 何故俺に?」
「あなたが……あなたが良いと思ったからです」
「一目惚れ? ……俺に?」
 にやにやと彼は笑った。
「……そう……です」
 ちょっぴり、不安になった。彼は、僕をどう思ってるんだろう? もしかしたら、淫売だとか、売春だとか思ってる?
「あの! ……お金取ったりしませんから!!」
 言うと、驚いたみたいな顔をした。
「……その、あなたが好きになったんです」
 彼は苦笑した。
「……俺は人に好きになって貰えるような男じゃないよ」
「そんなの、関係ありません。僕は、あなたのこと、好きです」
「……じゃあ、試してみる?」
 僕の胸は高鳴った。
「はい!」
 大きく、頷いた。彼は曖昧に笑った。
「今は『仕事中』なんだ。……あと五時間から六時間はかかる。何処で待ち合わせれば良い?」
「あなたの都合に合わせます」
「……そうは言われても……な」
 苦笑した。
「まさか、小学生と飲み屋で待ち合わせる訳には。それに、九時過ぎに子供が一人でもいて良い場所なんてそうそう……」
 言い掛けて、ふと思い出したように僕を見た。
「……そうだ。ファミレスだ」
 彼は言った。
「この通りを真っ直ぐ行って右に折れると、ファミリーレストランがある。そこで、待っててくれる?」
「判りました。……待ってます」
 僕が頷くと、彼はしみじみと僕を見つめた。じいっと、何か考え込むような目つきで。
「え? ……あの……何ですか? ……どうかなさったんですか?」
 言うと、苦笑した。
「……いや、不思議だなと……思って」
「……何が……ですか?」
 彼は曖昧に笑った。
「……俺の何処が気に入った?」
「何処がって……何もかも、全部、です」
 彼は失笑した。
「何もかも? 全部? ……俺の事、何一つ知らないクセに?」
 くっくっと、腹を折って、ひどく笑い転げた。僕は狼狽した。そんな変な事を言っただろうか?
「あのっ……そのっ……!!」
「……ろくに会話もしない内に俺の事が判ったって? 全部? そりゃ酔狂だな。……ふははっ……面白すぎるっ……たった数分の会話で俺が判った? ……面白い理屈だ……本当……っ!!」
 お腹を抱えて、彼は涙まで流して大笑いした。
「あのっ!! 中原さんっ!!」
 僕はひどく居たたまれない気持ちになった。不意に、彼は真顔で僕を見た。
「……それじゃあ、後で何が判ったのか確かめさせて貰うよ」
 そう言った口元は笑っていたけど、目は笑っていなかった。僕はどきん、とした。彼を怒らせたんだと思った。
「あのっ!! ごめんなさいっ!!」
 僕は即座に謝った。
「……何?」
「……あのっ、気に触るような事言ってすみません!! 僕っ……そのっ……あなたを怒らせる気、毛頭なくって……!! 本当、すみませんでしたっ!!」
 彼は、呆れたような顔で僕を見た。
「……怒ったって……」
 彼はじいっと真顔で僕を見た。僕はどきり、とした。マジマジと彼は僕を見つめ、それから不意に笑った。優しい、穏やかな笑顔で。
「……判ったんだ? ちゃんと」
「……中原……さん……?」
 これまでの事、全部嘘みたいに、ひどく優しい顔で彼は笑った。
「……なかなか、判る人間いないもんだが……初対面で、数分で判るなんて……それは実に面白い。……そんな簡単に判られるような事はしてないつもり……だけど」
「……あの……?」
 僕は少々不安になった。彼の表情は不意に読みにくくなった。彼は笑ってる。穏やかな表情で。でも、『本当に』笑ってるのかは判らない。彼が何を考えてるのかは、全くちっとも判らない。
 彼は胸元を探って、名刺を一枚取り出した。
「……携帯番号が記してある。仕事中は繋がらないかも知れないが、何かあったら電話してくれ。取れなくても留守電に繋がるから、メッセージでも連絡先でも吹き込んでくれると良い」
「判りました」
 僕は、ひどく嬉しくなった。名刺で連絡先を教えてくれるって事は、信用してくれたって事だ。凄く嬉しくなった。
「僕、待ってます。あなたが来るまで。何時間でも!」
 彼は苦笑した。
「今からじゃ待ちすぎだ。……折角の休日なんだから」
「だって」
 言うと、彼は懐から何か取り出した。
「……今演ってる歌劇のチケットだ。今は入れないが、第二幕からは見られるだろう。……どうする?」
「あなたは良いんですか?」
 彼は笑った。
「俺は『仕事中』なんだ。持ち場を離れられない。これは予備に取っておいた物なんだ。使わなくなったから、君にあげても支障は無い」
「……あなた、警備員さんなんですか? それとも会場の整理係?」
 どちらも、彼には似合わないと思った。彼は苦笑した。
「……違うけど……まあ、似たようなもんだな。それでどうする?」
「……じゃあ、有り難く頂きます。好意に甘えさせて頂きます」
「そう。……じゃあ、楽しんで来てくれ。後で感想を」
「はい。有り難うございます」
 僕は彼から券を受け取った。彼に笑顔で見送られながら、僕は会場内に入った。

 僕はその時、まだ何も知らなかった。全ての始まりは、ここから、その日から始まった。……僕の、苦しみも哀しみも、何もかも。

To be continued...
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