NOVEL

光の当たる場所2 緋色の妄執 -7-

 米崎邦雄が俺と久本にホットチョコレートなるものを持ってきたのは、それから十数分後のことだった。生クリームがどっぷりかかった──しかも、ところどころ黒い点々が見え、茶色いココアの粉がふりかけられている──マグカップを見て、一瞬ぎょっとした俺を見て、米崎は苦笑し、久本はにっこり笑った。
「言っておくけど、その生クリームとココアパウダーは甘くないよ。砂糖は入ってないから」
「……え?」
「僕の好みなんだ。で、その黒い粒々はバニラ・ビーンズを刻んだものだから。胡椒じゃないから安心して」
「……バニラ・ビーンズって何?」
「バニラはラン科バニラ属の植物で、それになる実の種だよ。実と言っても豆科植物みたいな実で、『さや』なんだよね。生の状態では匂いはしないんだけど、発酵と乾燥を繰り返すことによって、バニラアイスなどに特有のあの甘い匂いになるんだ。バニラってのはね、匂いは甘ったるいけど、味は全く甘くないんだよ。甘味は砂糖なんだ。科学的に似たような香りを合成する事も可能で、安い量産品はそういったものだけど、やっぱり本物のバニラ・ビーンズは、そんなものとは比べ物にならない程、香りが強くて複雑なんだ。無論、一度にたくさん使うと、かえって気持ち悪くなっちゃうけどね。……人間の味覚というやつは、結構いい加減だから、匂いが甘いと、味も甘いと錯覚してしまうんだ。実際は匂いと味が必ずしも連動するとは限らない。でも、面白いことに匂いが甘いと、実際の甘さ以上に甘く感じられるんだよ。人間は、口にした飲食物を、味覚以外に、嗅覚や触覚でも、味わっているんだ」
「…………」
「無論、その感覚は人によって多少の差があって、好みも異なる。だから、全ての人間が同じ物を同じように感じるとは限らないけど、共通項みたいなものはある。そういった結果を調べ、統計を取って分析し、それを反映させ、新たな発想へと繋げて行くのは、とても楽しい。自分の予想や発想がドンピシャだったりすると、すごく嬉しいとは思わない?」
「……いや、俺は別に。そんなこと考えたこともないし」
「そうか。まあ、君はそういう子だよね。それはともかく、これ、飲んでみて」
「……どういう脈絡だ?」
「後で教えてあげるから。とりあえず一口飲んでみて」
 何か期待してる顔で、久本は俺にマグカップの一方を差し出す。一体何を考えてるんだとか、俺は何を期待されてるんだとか、少々不安になりつつ、それを受け取り、渋々ながら口に含んだ。
「……!」
 うまい。普通にうまい──だけど、俺はこんなものは飲んだ事は一度も無い。ほんの少し洋酒が入ってる。苦くはない。でも甘ったるくもなかった。温かい牛乳の香りがする適度に甘く柔らかな味と食感の香りの良いチョコレートが、柔らかで甘味の含まれていない上質でちょっぴり冷たいバニラの香りの生クリームと溶け合いながら、喉を伝い降りていく。
「リキュールが入ってるみたいだね。微かにオレンジの香りがする……コアントロー?」
「そうです。コニャックとどちらが良いか悩みましたが、コアントローの方が飲みやすいかと思いまして」
「そうなんだ? だってさ、龍也君。感想は?」
「え?」
 思わず虚を突かれてぽかんとすると、久本はにやにやと笑った。
「僕は君の顔の微妙な変化で、君が何を考えたかおおよそ見当がついたけど、やっぱりこういうのは言葉で感想を言わなくちゃね。というわけだから、正直な感想を言いなさい。作ってくれた人への礼儀でしょ?」
 礼儀なのかよ。思ったけど、無視したらいじめられるのは目に見えているから、視線を久本から米崎へと移した。相変わらず無表情な男で、何を考えているかさっぱり読めない。しかも、久本以上に体格が良く、そんな男が真顔で、瞬きもしないで──無論、当然しているのだろうが、そんな事を微塵も感じさせない表情で──俺をじっと注視しているのだ。一瞬、俺が言葉に詰まったのは無理はないと思う。が、久本は容赦なく畳みかけるように言った。
「ほら、早く言いなよ?」
「……う、うまかった」
 冷や汗をかきながら言うと、久本はつまらなさそうに、顔をしかめた。米崎の無表情はぴくりとも動かない。俺はますます冷や汗が吹き出すのを感じた。背中がじっとりと冷たく濡れ、厭な汗が伝うのを感じた。
「なんだよ、それ。それじゃまるで僕が強要したみたいじゃないか。そんなつまんない感想しか言えないわけ? 君はそんなにボキャブラリーが貧困なの? それとも、いままでの生活環境が劣悪すぎて、比較ができない? それじゃ邦雄が可哀想じゃないか。ねぇ、邦雄?」
 久本が不満そうに言うと、米崎は首をゆっくり横に振った。
「……いえ、お構いなく。それでは、私はこれで失礼いたします」
 米崎はそう言って、背を向けた。
「あっ、あのっ!!」
 思わず俺はその背中に声をかけた。米崎はぴたりと足を止めて、ゆっくりとこちらを振り返った。その顔はやはり真顔で無表情で恐かった。恐くて、ちょっと身体がすくみ上がりそうだったが、意を決して口を開く。
「……その、有り難う。俺、こんなうまいもの飲んだの、初めてだ」
「…………」
 米崎は無言で俺を見下ろした。
「……だ、だからそのっ……に、睨むのやめてくれないか?」
 声がわずかに掠れてしまった。
「……睨む?」
 米崎は俺の言葉を、真顔で問い返した。思わずびくりとしてしまう。けど、とにかく続ける。
「……恐いんだよ、あんたの真顔。……目は無理でも、せめて、口元ぐらいは笑ってくれないと。あんた、体格良いし、目つき悪いし、年上だし。そんなヤツに真顔でじっと見つめられたら、誰だってビビるだろう!?」
「…………」
「いや、悪口じゃねぇよ! 見たまんまのこと言ってるだけだし!! 感謝はしてるよ!! こんなうまいもの飲んだの本当初めてだしさ!! けどな!! あんたが恐い顔してるのは、ただの事実だし、あんたがそれ自覚してるんなら、ちょっとは改善してくれないかなって!! 久本みたいに、必要ない時までけらけら笑えとは言わないけどさ!! せめて自分より体格小さい人間見る時くらいは、目を細めて見るとか、口の端を上げて見るとかさ!! そ、そういうの、できないか!? お、俺も人のこと言えた義理じゃないけどさ!! その格闘技やってそうな体格で、じろりと睨まれるのは、どうも落ち着かないんだよ!!」
 たぶん、昔の──広香が生きてて、兄貴が傍にいた頃の──俺なら、きっと、後先考えずに恐怖など微塵も感じずに、相手を殴りつけていた。でも、今の俺には無理だ。身を支える手摺りも、背中を支え保護してくれる背後の壁も失くしてしまった俺には、よりどころとする地面すらない。不安定で、脅えていて、恐がりで、臆病で。……また、赤い血を見てしまったら、今度こそ、狂ってしまう気がした。それ以前に、俺ははっきりと自覚していた。俺は、今も、これまでも、ずっと、他人に、何かに、脅えていたのだ。脅え続けて、それを認める前に、相手を殴り、蹴りつけて来たのだ。ただの一度も、弱い自分と向き合うことなしに。実の父の死体を見て、恐怖と嫌悪のあまり嘔吐した記憶すら、心の奥底に封印して。怒ってキレている時は、気付かずにいられる、忘れていられる。
 でも、今の俺ははっきりと自覚していた。俺は──他人に見つめられることが恐いのだ。自分を注視されることが、耐えられないほど恐いのだと。だから、俺は、自分をじっと見つめる人間を、排除してきた。俺を見つめても良いのは、俺を無条件に愛してくれる──そうだと俺が思い込んでいた──家族だけだった。
「……頼むから、そういう目で、俺を見るのは、やめてくれよ……」
 じっと注がれる視線にとうとう耐えきれなくなって、俺は視線を逸らした。でも、相手の視線はそのままだった。堪えきれなくなって、顔を上げると、米崎は真顔のまま、唇の端を不気味につり上げていた。
「っ!?」
 その形相に驚いた俺が、思わず飛び退くと、それを見ていた久本が、もう耐えきれないといった表情で弾けるように大爆笑した。
「あはははっ……あーははははははっ!! ぷっくくくっ……!! 邦雄が……く、邦雄が……ぶっ……ふははっ……あははっ……はっ……はははははっ……そ、それに、た、龍也君の顔ったら……っ!! ああ、もう!! 二人して、僕をあんまり笑わせないでよ!! おっかし……っ……は、腹がよじれてっ……も、もう、ダメ、死にそう!! わ、笑い死にする!! やだ、もう……くっ……うぷぷっ……ぷふっ……あーはははははははっ!!」
 場の、しんと静まり返った、これ以上ないというくらい気まずい雰囲気の中、一人笑い転げる久本を、俺は呆然と見つめた。米崎はそんな久本と俺とを、無言のまま交互に見つめ、何度目かに久本を見た時に、深い溜息をついた。
「…………」
「……申し訳ありません、貴明様」
「ふははっ……ははっ……あははっ……」
 まだしつこく笑い続けている。
「その、そろそろ私は戻らなくてはならないので」
「……あははっ……ははっ……ああ、そ、そうだったね。ご、ごめん、ちょっと……止まらない……どうしよう、どうやったら止まるかな?」
「怪談話でもしますか?」
「……そ、それは別の意味でウケないかな? って言うか、それ、冗談? 邦雄」
「いえ、本気です」
「……ふふっ……ははっ……はあ、ああ、でも。なんか、そろそろやっと止まってきたかな。……ああ、本気で死ぬかと思った」
 そう言って、久本は大きく息を吐いた。俺の冷たい視線にはまるで気付かずに、久本は続けた。
「……ところで、怒ってる? 邦雄」
「いえ」
 米崎は真顔で無表情に、短く答える。が、それは嘘だ、と俺は思った。返事をする時、一瞬腕に変に力が入って拳が握りしめられたのを見た。
「…………」
「では、失礼いたします」
「うん。お仕事頑張って」
 脳天気に久本が言った。米崎は軽く会釈して、くるりと背を向け、そのまま部屋を出て行った。
「…………」
「ああ、滅多に見られない面白いものを見た」
 こ、この男は。
「……おい、久本」
「ん? 何?」
「……あれ、怒ってたぞ。何かフォロー入れておけよ。仮にも『幼馴染み』なんだろ? 大体、あんなにバカみたいに笑い転げることか? 場の雰囲気とか空気読めよ。気まずいだろ?」
「ふふっ」
「ふふじゃねぇだろっ!?」
「いや、でも、これでちょっぴり期待通りだよね」
「……どういう意味だよ?」
「半分仲良くて、でも、残り半分気まずい関係」
「…………」
 おい?
「狙ったわけでもないけど。……まあ、上出来かな?」
「……ちょっ……ちょっと待て!! そ、そういうのって……!!」
「まあ、済んだ事は気にしない」
「バカ野郎!! 気にするに決まってんだろ!? 大体、お前、一体何を俺に期待してたんだ!? あれか!? 場の雰囲気をしらけさせるためか!? 俺への嫌がらせか!?」
「嫌がらせだなんて。そういう事言わないでよ? 僕は君の喜ぶ顔が見たかっただけだし、ついでに邦雄が笑ってくれると良いなとか思っただけなんだから。いや、でも、ねぇ? いや、あれはちょっとないんじゃないかな。っていうか僕を笑わせようとしてるとしか思えないよね? 本当楽しかったよ。ごちそうさま」
「なっ……てっ……久本……っ!!」
「本当可愛くて楽しくて飽きないよ。これからもその調子で僕を楽しませてくれたまえ。うん、実に良い気分だ」
「……俺は最低最悪だよ」
「そう? そりゃ良かった。そんなに楽しんでもらえるとは至極光栄だよ」
「だぁっ!! 人の話はちゃんと聞け!! 誰も楽しんでねぇよ!!」
「うんうん。君が照れ屋なのはちゃんと知ってるってば。さて、と。……そうだ。あと、佑兄を紹介するって言ったんだっけ。ちょっと待ってて。今呼ぶから」
「……だから、人の話聞けって……」
「ああ、そうだ。最初に言っておくよ。佑兄は人は悪くないんだけど、ちょっとバカでお人好しだから。それ頭に入れておいてくれるかな?」
「……どういう意味だよ?」
「簡単に言うと『騙されやすい』」
「…………」
 そ、それは何となく昨日会った時に、俺もそういったようなことは考えないでもなかったが。
「……そんな言い方するのかよ?」
「まあ、でもやりすぎない程度に騙してあげてね。まあ、君はサービス精神旺盛じゃないから、大丈夫だと思うけど」
「サービス精神って……」
「界くんには会ったんだよね。世良[せら]くんには会った?」
「は? せら? 何、それ。人の名前か?」
「そう。世界は良いと書いて世良くん」
 どういうネーミングだよ。
「世良くんと界くんは、セットでいると、面白いんだよ。特に界くんがね」
「…………」
 もう、何も言わないことにした。
「……ところで、君はまだ[なつめ]には会ってないんだよね?」
「なつめ?」
「うん。まぁ、見た目は割と可愛らしいんだけど、性格ものすごく根暗で根に持つ子だから、あんまり関わり合いにならない方が良いかも。ま、界くんや世良くんと一緒にいれば、近寄って来ないと思うけどね」
「それってお前の他の兄たちよりタチ悪いのかよ」
「種類は別だからね。比較の対象にならないな。まあ、実害の有無よりは『鬱陶しい』ってとこが問題かな」
「…………」
 鬱陶しいとまで言うかよ? 普通。
「たぶんこの点、僕と君の意見はきっと合うと思うよ。まあ、見れば判るけど、わざわざ見に行ったりしないことをお勧めするよ」
「…………」
 返事の代わりに、俺は溜息をついた。

 厭な予感はしていたのだ。最初から、何となく。……呼び出された四条佑が両手一杯に酒瓶を抱えていることに気付いたその瞬間には。
「飲もう!」
 とテーブルにそれらを置きながら、その佑が言い、
「これも」
 と、その長男で金髪(に染めている)長髪のチャラい男、世良がビール瓶一ケースを、高そうな絨毯の上に、置いた。
「有り難う、佑兄。じゃ、みんな座って」
 にっこり笑って久本が言う。
「…………」
 この場合、未成年の俺と界は、『みんな』の範疇に入っているのだろうか?
「ほら! ぼーっとしてないで!! 界も久遠くんも座って、座って!!」
 と、世良がへらへら笑いながら、手をひらひら振った。
 ……やっぱりか。
「あの、俺、未成年……」
 駄目元で言ってみるが、
「無礼講、無礼講!」
 と、返される。久本はと言えば、当然、
「ビールが良い? それとも日本酒の方が良い?」
「…………」
「俺、アルコールは飲まないよ」
 と、界が言った。俺も、と言いかけたが、世良がけらけら笑いながら言った。
「ダメ」
 ……は?
「却下。ぶっ倒れるまで飲ます」
「……それはさすがにマズイんじゃ……」
 言いかけた俺に、世良はにっこり笑って言う。
「心配するな。倒れたヤツは俺が責任持って介抱するから」
 ……絶対イヤだ。
「世良兄、俺は絶対イヤだからね。大体、兄さん下戸なんだから、介抱なんかできるわけないじゃないか」
 ……へ?
「せめて俺より飲めるようになってから言ってよ?」
「…………」
「……というわけだから、久遠君も気を付けて。まあ、いざとなったら先に酔い潰してしまえば済むことだけど」
「…………」
 本当に今更だが、帰りたくなった。

To be continued...
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