NOVEL

天使の歌声 -3-

『川崎。人の気力を最大限引き出す感情って何か知ってる?』
『……え?』
『怒り、だよ。あれは人間の感情の中では一番激しい感情なんだ。生きていくために一番大切な感情だよ』

 四条にとって、『怒り』は無くてはならない感情なんだろう。四条の生きる原動力はきっと『怒り』にある。だからそんな台詞が出てくるんだろう――けど、一番大切な感情が『愛』だと言えない四条は、俺は痛々しいと感じてしまう。口に出しては言わないけれど。
  だから、四条が人を怒らせようとするのは、あいつなりの慰め方で、あいつなりのいたわりなんだろう――人迷惑なことこの上無いが。
「ユウちゃん」
 母親の声で我に返った。
「何?」
「四条君からお電話よ。……具合でも悪いの?」
 不安そうな顔で顔をのぞき込まれて、大きく首を振った。
「ぼーっとしてただけ。四条から?」
 三ヶ月前の事故以来、俺は腫れ物に触れるかのように扱われてる。まあ、当然だ。あの頃の俺ときたら、ひどく落ち込んで絶望してたから。……四条のおかげで立ち直らざるを得なかったけど。あいつは落ち込んでいる俺に、傷口に塩を喜んで擦り込むようなサドだから、おちおち落ち込んでなどいられなかった。
〔……川崎?〕
「うん、俺」
〔例の件だけど、良いってさ、久人。その代わり──〕
「え? 何だ?」
〔手土産忘れるなってさ。今、戻ってるんだ。久人〕
 それはつまり。
「行くよ。……マンションで良いんだな?」
〔既に出来上がってるから気をつけないと駄目だよ、川崎〕
 ……それは一体どういう意味で?
「判った」
〔あ……酒は日本酒よりブランデーが良いってさ〕
 ……手土産に注文付けないように、とか思ったけど、まあ。
「了解。じゃあ、今すぐそっち行く」
 答えて受話器を切った。
「……母さん、いらないブランデーってある? 封の開いてないやつ」
「なあに? どうしたの?」
「四条の家行くんだけどさ、久人さんに手土産。どうせ一本くらい良いだろ?」
「そう。じゃあ、先日いただいたこれなんかどうかしら? まだ箱から出してもないんだけど」
「一応熨斗とか包装破いて持って行くよ。無地なら良いけど、名前入ってたら、なんかヤだし。ま、久人さんはそういう事気にしないだろうけど」
 どちらかと言うと、四条の方がその辺うるさい。ビリビリと包装破くと、レミーマルタンだった。ひゅう、と口笛吹くと、母親に軽く睨まれた。肩をすくめ、適当な紙袋に放り込むと、自転車の鍵と財布(小遣い追加請求&補充済み)を取って、ジーンズのポケットに突っ込んだ。
「何か上に羽織った方が良いわよ」
「大丈夫。近くだし」
「どうせまた遅くなるんでしょう? 悪いこと言わないから着て行きなさい」
「はぁい」
 ま、いいか。適当にジャンパーを引っ掴む。
「じゃ、行ってきます」
「車には気を付けるのよ?」
 やけに深刻な顔で言う母に、俺は苦笑した。……まあ、そう言われるのも仕方ないか。
「大丈夫。そんなドジ二度と踏まないさ。息子を信じろよ、母さん」
 それに、今度もし、事故に遭ったとしても、失うものは何も無いから。仮に失くすものがあるとしたら、自分の命くらいのものだし。今の暇を持て余してる俺にとっては、それすらも軽いものだ。別に好んで死のうとは思わないけど。今、死んでも、きっと後悔することなんて、何一つ無い。……いや、一つだけあったな。佐伯のこと。──それは、本当にただの気まぐれ。俺が暇じゃなかったら、夢中になれるものが何一つ無い今の状況でなかったら、たぶんきっと関わろうとも思わなかった。俺は短距離選手だった。早朝の軽いジョギングが日課で──そのために、三ヶ月前、前方不注意の、酒酔い運転の乗用車に撥ねられ、全治二ヶ月の怪我を負った。怪我は治ったし、リハビリして、足は普通に動かせるようになった。でも、選手生命は断たれた。病院のベッドの上で何度も泣いた。絶望したし、世を儚んだし、自暴自棄にもなった。そんな俺に四条は言った。
『バカじゃないの?』
 容赦が無かった。
『そんなに死にたかったら、僕が殺してやるよ。ほら』
 果物ナイフを手にして俺の首元に突きつけ、目を細めて笑った四条の顔は──悪魔のように、美しく、恐ろしかった。恐怖の悲鳴を上げた俺に対し、四条はあっさりナイフを手放した。
『……死んだ方がマシなんて台詞は、君には百年早いよ。それが間違いだと言うなら、自分で自分の喉を突いてみなよ? 僕は見ていてやるからさ』
 出来なかった。そんなことが出来るはずなど無かった。
『そう。そりゃ良かった。僕もまだ犯罪者にはなりたくないからね』
 何処まで本気か判らなかった。もしかして、全部演技だったのか、それとも掛け値なしの本気だったのか──想像はあまりしたくない。四条は、俺以外の同級生達には人当たりが良い。そういう風に振る舞っている。本音を見せるのは、俺と久人さんに対してだけだ。それでも、四条は、全てを見せない。思っていることの大半を押し隠している。久人さんはともかく何故、俺だったのか──理由は良く判らない。小学一年生の頃からずっと、同じクラスになる事が多かった。席が近くなる事が多かった。……それだけじゃないと思う。俺は、初めて見た時から、四条を不思議な存在だと感じていた。見てくれには騙されなかった。俺は初めて四条に声をかけた時、『泣いているのか?』と問いかけた。勿論四条は泣いてなどいなかった。同年代とは思えないくらい落ち着き、穏やかに微笑んでいた。だが、俺がそう言った時、一瞬──ほんの一瞬だけ──顔を歪ませた。そして、それだけあれば、十分だった。俺は休み時間になった途端、四条に無理矢理男子トイレに連れ込まれ、脅された。曰く、『他言無用だぞ』と。ちなみに、俺は『他言無用』の意味が判らず問い返した。それ以来の付き合いだ。……普通、脅すのは俺であって、四条じゃないよな、とは思うが。四条に常識などは通用しない。俺の知る限り最強だ、と思う。
 自転車の前かごにブランデー入りの紙袋とジャンパーを放り込み、鍵を差し込んで回し、道路まで引き出した。それから軽く助走を付けて、地面を蹴り上げ、サドルに跨ると軽快にこぎ出した。四条と久人さんが住むマンションまで、自転車で五分の距離だ。かっ飛ばせば、三分で行ける。信号に捕まらなければ、という条件付きで。勿論、そう上手くは行かず、案の定信号は赤だった。苛々しながら待ち、信号が変わると同時に、飛び出した。ほんの少しの距離なのに、この交差点が恨めしい。駐輪場に適当にとめて、鍵を抜く。エントランスで四条を呼び出す。解錠されたエントランスを抜けて、エレベーターに飛び乗った。四条と久人さんが住むのは七階だ。
「お待たせ! 手土産付きです。こんにちは」
「人の家の玄関で騒ぐな、川崎」
 うるさそうに四条は言って、ドアを開ける。
「……ちはー、勇治くん」
 とろんとした目で、久人さんが言った。
「え? ちょっ……四条?」
 四条の肩を引き掴み、その耳元で、こそっと囁く。
「……いつから飲んでるの?」
「知らないよ。帰ってきたらこうだった」
「…………」
「だから気を付けろって言っただろ」
「この状態で、この土産出しても大丈夫?」
「それは僕の知ったことじゃないよ。とにかく、早く中に入れよ。久人、お前のこと待ってたんだから」
「……それはどういう意味で?」
「今飲んでる酒が切れかけてる以外に、どういう理由があると思う?」
「……それってまずくないか?」
「僕だけ被害に遭うのはイヤだからね。連帯責任ということで」
「……四条、キサマ」
「川崎はつまみも作れるからね。期待してるよ、御曹司」
「うう、くそ。最初からそのつもりだったのか?」
「酒が抜けたら、話できるだろ? 僕だって、酔っぱらった久人の相手するのは結構キツイんだよ。そりゃまあ、慣れたけど」
「……判った。今日は泊まりだな」
「そういうこと。頑張って、川崎」
「他人事のように言うな、四条。連帯責任なんだろ?」
「でも川崎は、僕よりもっと頑張って」
「……良い性格してるよ」
「お〜い、勇治く〜ん!」
 久人さんが大声で俺の名を呼んだ。
「ほら、呼んでるよ。頑張れ、川崎」
「くっ……お前ってやつは」
「じゃ、僕は自分と川崎の分のお茶を出すから」
「入れられるのか?」
「大丈夫。世の中には、ティーバッグという心強い味方があるから。というか水出しで、既に仕込んで冷蔵庫にあるから、グラスに入れるだけ」
「……そうか。頑張れ、四条」
「そっちこそね」
 謀られた、という気もしないではない。が、実際用事というか、下心があるのは俺の方で。まあ、このくらいは覚悟すべきだったのだろう。
「すみません。本当、お久しぶりです、久人さん」
「勇治くん、大きくなったね〜」
「いや、俺の身長は前会った時と、そう変わってませんて。ていうか、先日会ったの、二週間前じゃないですか」
「あー、そうだっけ? あれ、でも、その頃はまだ松葉杖ついてたよねぇ?」
「あ、そうか。そうですね。あれじゃないですか? 今ほら、自力で歩いてるから、背が高く見えるとか」
「あー、そうか。悪い、失言! 失言しちゃった。勘弁して。というかゴメン! 勇治くん〜。ところで手土産……」
「はい、これですけど」
「おぉ〜! レミーマルタン・ルイ13世! 財閥はやっぱり持ち物が違うよなぁ!」
「何言ってるんですか、久人さん。久人さんも立派に金持ちでしょう?」
「つうかコレ高いんだぞ? ただでポンとくれるとは太っ腹だなぁ」
「いや、うち、どうでも良い客から色々貰うんですよ。で、たまたま封を開けたらコレで」
「くっそー、カッコイイなぁ! 一度で良いから俺も言ってみたいぜ。くぅ!」
「あははっ、久人はその前に賞取らなくちゃね。はい、川崎、お茶とお茶菓子」
「ありがとう、四条」
 受け取ったお茶を一口飲んで。
「ぶっ! なっ、何これ!?」
「それは、たぶんそうめんつゆの間違いじゃないかなぁ?と、俺は思うよ〜。色からして」
「……し、四条……っ!!」
「わざとじゃない!! わざとじゃないって!! 今、入れ直す!!」
 その表情を見れば本当だと判るのだが。
「……良いよ、自分で入れる。ほら、貸せよ」
 自分のグラスと四条のグラスを持って立ち上がる。四条は真っ赤になって、俯いている。
「いや、俺は別に慣れてるから、あんまり気にしてないって」
「……単に僕が気にしてるだけだから、下手な慰め方はするな」
 四条は呟き、舌打ちする。
「大体、久人が似たような入れ物に入れるから悪いんだぞ? 僕に区別が付くわけないじゃないか」
「あっはははは。いーじゃん、気にするなって! 貴明〜。そんなこと気にしてるようじゃ、大きい器の男になれないぞ〜?」
「久人がおおらかなのは、酒飲んで酔っぱらってる時だけじゃないか。そういうのって見苦しいよ」
「見苦しい? やだなぁ、貴明。そんな俺のことが好きで好きでたまらないくせしてさぁ、なぁ? 勇治くん」
 俺は苦笑する。
「とにかくお茶入れて来ますよ」
 と、席を立つ。……久人さんといる時の四条は、俺の知る四条とも、クラスメイト達が知っている四条とも違う、ごく普通の十代の顔をしている。そういう時、なんだかちょっと、得したような、ここに自分がいてはいけないような、そういう気分になる。……ああいう顔、他でもすれば良いんだけどな、とたまに思うこともあるけど、たぶん、それを四条に求めるのは酷なんだろう。お茶は冷蔵庫を開けてすぐに判った。
「なんでこれを間違えるんだ?」
 冷蔵庫に入っていたのは、緑茶とそうめんつゆだ。そうめんつゆは明らかに茶色いし、緑茶は透き通るような薄い緑色だ。こんなもの間違うのは、四条の他には絶対いない。いないはずだ。少々呆れつつも──時折、実はわざとなんじゃないかと思う──グラス二つにそれを注ぎ、氷を落として、居間へと運んだ。
「持ってきたぞ。……って四条は?」
「ん? あぁ、いや、ちょっと。たぶんトイレか自室でおこもりしてる」
「トイレで籠城されるとちょっとキツイですねぇ」
「うん。特に酒入ってるとね。あははっ。でも大丈夫! 呪文があるから」
「呪文ですか?」
「うん。『ここで漏らしても良いの?』って」
「…………」
 時折、返答に困るよなぁ、久人さんって……。
「あー、そりゃコワイですねぇ」
 あはは、と苦笑する。
「うん。幸い、まだ実際やらずに済んでるけどね」
 ええと。……すみません。俺にはちょっとフォロー不可能です、久人さん。
「……ははははははは」
 乾いた笑いになってしまう。
「ところで、貴明が、勇治くんが何かおつまみ作ってくれるって」
 四条、キサマ。……いや、作るよ? 言われなくても作るけどな? それでお前は敵前逃亡かつ籠城かよ?
「久人さん、何が食べたいですか?」
「んー? 何でもい〜よぉ? この際、塩の塊出されてもOK!な感じ」
「ははは、塩って。まぁ、いいや。冷蔵庫の中見て適当に作って良いですか?」
「いつも悪いねぇ、勇治くん。あははははっ」
「っていうか、一体いつから飲んでるんですか?」
「んー、午後二時くらいからかなぁ。ようやく原稿上がってさぁ。で、ずっと一人で飲んでた」
「あー、原稿終わったんですか。それは、嬉しいですね」
「んー。これで暫く暇ができるよー。ちょびっとだけどね」
「じゃあ、今度ゆっくり三人で出掛けません? 旅行でもピクニックでも良いですし」
「俺は別に良いよぉ。貴明が何て言うか知らないけど〜」
「ご機嫌ですね、久人さん」
「そりゃ機嫌も良くなるよ。三週間も缶詰だったんだもん。俺死ぬかと思った」
「じゃあ、何かうまいもの食いたい気分ですよね」
「何? 食わせてくれるの? 勇治くん」
「俺、手の込んだまともな料理はそれほどじゃないですけど、軽食の類は得意なんです。和洋中何でもイケますよ」
「貴明に爪の垢煎じてやりたいなー、それ」
「あーこれ、うちの母親の方針なんですよ。男児で唯一の跡取りと言えど、最低限の家事は出来なきゃダメだとかって。簡単に言うとですね、親父が全然なんですよ。でも、うち、外では父を立てていますけど、家の中じゃ母親が強いんですよね。で、息子はあんな役立たずには育てたくないと。週に一度は俺がメシ作らされるんですよ。うち、成金だから、四条家や九頭竜家と違って、家に雇い人とか家政婦とか入れてないんですよね。庭だけはどうしようもないから外に頼んでますけど。まあ、家族三人しかいない家を、母親一人で掃除させるってのは、無理あるんですけどね。たまに業者頼みますけど、普段は家族の協力無いとまず無理ですし」
「家政婦さんいないんだ。そりゃぁ大変だ」
「本当は無駄に家が広いんですよね。けどまあ、それも節税対策らしくって。税金に取られるとイヤだからとかって、時折必要でもない改築とか増築とかを、親父がするもんだから。一応計算して使ってるらしいですけど、やっぱり無駄は無駄です。しかも、妙なところでケチで小市民ですし。人件費かかるから、使用人とかは雇わないって腹らしいです。貧乏性はいくら金稼いでも、いつまで経っても抜けませんよ」
「べっつにいーんじゃない? 自分で稼いだ金をどう使おうと。俺も大体そうだもん」
「とりあえず、何か作って来ます。一人で大丈夫ですか? 久人さん」
「大丈夫だよ〜。俺はいつでも大丈夫」
 そうじゃないから、心配してるのだが。まぁ、いいや。四条に声をかけてから台所へ行こう。
「じゃあ、とりあえずまず冷蔵庫見て来ます」
 そう言って席を立つ。まず最初に四条の自室をノックする。応答は無い。恐る恐るドアを開こうとすると、
「開くな」
 と、四条の声が室内から響いた。
「……悪い。あのさ、俺、今から台所行くから、久人さんのこと……」
「……久人がお前に、そう言った?」
「いや。俺の判断」
「……久人は今、僕の顔見たくないと思うよ」
「どういう意味だ?」
「久人が飲んでる理由、聞いた?」
「原稿が終わったからって……」
「……違うよ」
 四条は言った。
「どういう意味だ?」
「……子供が、さ」
 子供?
「子供が出来たから……いや、もう既に生まれてるらしいから、結婚することになったんだとさ」
「……え?」
 思わず、固まった。
「誰が?」
「……久人が」
 結婚?
「……僕はこのままこの部屋に住んでいても良いらしいけど、結婚したら、別の部屋にその相手と子供と一緒に住むからって」
「……ちょっと待て。それじゃ……お前、一人暮らしになるって、そういうことか!?」
「……たぶん、隆兄に知られたら、連れ戻されると思う」
 暗く、沈んだ声で、四条が言った。
「言わなきゃバレないって、久人は言うけどさ……そんなの、すぐバレるだろ? だからたぶん、早々に、ここを引き払わなきゃならないと思う。久人の代わりの『保護者』が見つからなければ、な」
「おい、四条。お前、バカなこと考えてないよな? 俺、俺さ、事情話して……」
「川崎の家に転がりこめって? ダメだろ、そんなの。隆兄が絶対許さない。四条家の恥だって言うさ。あの男が法的に引き渡し求めたら、お前の家に迷惑かける。久人は正樹伯父の名を借りて、僕をここに置いてくれたけど……正樹伯父は、僕の世話する気なんか無い。あの人は、隆兄に何か言われる前に、僕を差し出しかねない。これまでは久人が守ってくれたけど……」
「久人さんは、お前とは住めないって言ったのか?」
「……お前さ、考えてもみろよ。女とその子供と暮らすのに、年の離れた従弟なんてコブ付き、許されると思うか? 俺はだから、また捜さなきゃならない。佑兄は当てにならないからな。他の誰か……見つかるかどうか、判らないけど」
「俺じゃ、役に立てないって言うんだな」
「当たり前だ。……あの男は、僕を飼い殺しにするためだったら、何だってやるよ。自分の妻の不始末を、その死の責任を、全部僕のせいだと思ってるからな。僕を殺さないのは、ただ殺したんじゃ面白くないからさ。あのサディストのクソジジイをこの世から消してやれるなら、どんな悪魔とだって契約できる。あいつを黙らせられるような人間だったら、誰だって良い。……僕に今、その力があるなら、すぐにでも殺してやりたい気分だ」
「……四条」
「さすがに今の自分を、人の目に曝す気にはなれないからさ。悪いけど、僕はいないものだと思ってくれないか? 笑えるようになったら、部屋を出るから」
「……悪い、四条」
「お前に謝られる筋合いなんかないよ、川崎。これは僕個人の問題だ」
「……お前は、さ」
 四条を見てると時折、ひどく泣きたくなる。
「泣いても、いいんだ」
「……どういう脈絡だ?」
 扉の向こうで、冷笑が返る。それは、判っていた。俺は、四条貴明がそういうやつだと、知っている。
「お前は何があっても泣かないけど、こういう時は、泣いても良いんだよ」
「……冗談言うな。泣いても何の解決にもならない。そうと知ってるのに、何故泣かなきゃならないんだ? それくらいなら、完全犯罪のやり方を考える方がまだマシだ。……憎悪で、人が殺せたらと時折思うよ」
「……四条」
「安心しろよ、川崎。お前に迷惑はかけない。一時間もすれば、自己制御できるよ。……心配するな」
 俺は、お前がそういうやつだと知っているからこそ、心配するし、不安にもなるのだと──言ってもたぶん、理解しない、判ってくれない──それは知っているけれど。
「……お前は自制しすぎだ。人間は弱音吐いても良いんだよ。二十四時間三百六十五日、強い人間でいる事は不可能だ。そんなの、人間じゃない」
「そんな事は知ってるよ。お前に言われなくても」
 だけど、四条の声は、『拒否』だ。
「でも、弱さは『罪』だ」
「……俺は、お前のおかげで助かってるとこ、あるよ。俺は弱さは罪だと思わない。お前は、久人さんにさえ、甘えられないのか?」
「……甘えてるのは、久人の方だよ。僕はずっと知っていた。久人にとって、僕はずっと『代わり』だったんだ。あいつがずっと、『家族』を欲しがってることを知っていた。僕は、自分があいつの家族になれないことは知っていた。知ってたのに、忘れてたんだ。……まあ、僕も久人に甘えてたんだと思うけどね」
「……それ、久人さんに言えよ。言ってみろよ?」
「久人がようやく、欲しいものを手に入れようとしてるのに? それを僕に邪魔しろっていうのか?」
「久人さんはお前に何て言った? どういう風に言ったんだ?」
「もういいんだ。これ以上構うな。……頼むから」
 『懇願』。それを四条がすることは、ほとんど無いと知っているから。
「……やれる事があったら、俺、なんだってやるぜ? 四条」
 四条の冷たい笑い声が聞こえた。
「……『殺人』でも?」
 それは無理だと、知っている声で。
「…………」
「……本当にさ、『殺す』だけなら簡単なんだよ。自分の命も未来も、どうだって良いと思えるならさ。判ってるんだ。判ってるから……わざわざ殺したりしないよ、『今』は」
「……四条」
「僕のことより、久人のこと、見ててくれる? 川崎」
「……お前はそれで良いのか?」
「久人は、『脆い』人間なんだよ。でも、今はちょっと、久人の面倒見てやれるほど余裕ないから」
「……判った」
「……悪いな、川崎。巻き込んだりして」
「いいよ、別に。慣れっこだし。……でもな、四条。無理するなよ?」
「……心配するな。それこそ……慣れてるんだ」
「もし良かったら、うちに泊まりに来いよ」
「……気が向いたらな」
 こっそり溜息をついた。
「一時間経っても来なかったら様子見に来るからな」
「……心配するな」
 とりあえず、すぐに、居間へ戻った。
「あれぇ? 勇治くん? 料理はどうしたの?」
 とろんとした目で言った、久人さんの目は、俺の方を見てはいたが、俺を見てはいなかった。
「……四条に今、話を聞きました。結婚するって」
 ああ、と久人さんは呟いた。
「……覚えてないんだよね」
「え?」
 久人さんの言葉に、一瞬きょとんとしてしまった。
「俺、覚えてないんだよ、全然。……相手のこと」
 ……それって。
「……本当に、久人さんの子なんですか?」
「さぁね。……判らないけど、相手が俺の子だって言うからさ」
「……なのに、結婚するんですか?」
「するよ。だって、髪の生え方とか、鼻の形とか、俺の子供の頃の写真そっくりだし。たぶん、俺の子だよ」
「それ、四条には……?」
「言った。バカだって言われたけど……できちゃったもんは仕方ないし。子供に罪は無いよ」
「……四条とは、住めないって……」
「住みたかったけどね。相手も、貴明も嫌がってるんじゃ、話にならない」
「あの、四条は……」
「……判ってるよ。でもさぁ、あいつを説得できる? 勇治くん」
「…………」
「まあ、俺の不行状がいけないんだけどさ。俺、セックスする時に避妊したこと一度も無いし」
「……久人さん」
「……俺は、貴明のこと、好きだよ。けどさぁ、この同居だって、半分以上、俺の我が儘だったんだよ。貴明は本当は、俺のところへなんか来たくなかったんだ。俺はそれを知ってて、無理矢理連れ出した」
「それは違いますよ! 久人さん!! あいつは、あなたの事が好きだし、感謝してるんです!!」
「本当は俺じゃなくても良かったんだよ。……あいつが本当に待ってたのは、佑だったんだ。でも、佑は行方知れずだからさ。……俺は、貴明につけ込んだんだ」
「久人さん、聞いてください。四条は、あなた以外に、素の顔なんて見せないんですよ!? それに、あいつ、久人さんのことを思って身を引くみたいな……っ!!」
「……だとしても、さ。あいつに責任取ってやれない俺が、あいつにかけてやれる言葉なんか、何も無いだろ?」
 久人さんは、自嘲の笑みを浮かべた。冷笑にも似たその表情は、四条のそれにも良く似ていた。顔立ちは全く似ていないのに。
「…………」
「何度か思った事があるよ。あいつが、貴明が女だったら、さっさと孕ませて、無理矢理にでも結婚して引き取ってやっただろうって。俺はそのくらいには貴明のことが好きだし、面倒見てやりたいと思ってる。……だけど、あいつがひどく傷付いていることも、恐れていることも知っているのに、そんな事できないし、何よりあいつは男で、女じゃない。……養子にするには、未婚の男じゃダメなんだ。どういう形だろうと、俺は法的にあいつを守ってやれない」
「……久人さん……」
「佑の野郎が今、目の前に現れたら、俺は間違いなくあいつを殴り倒すだろうけど、同時にきっとほっとするんだ。……これで、貴明のことは心配いらないって。俺は……薄情なのかもな」
「そんなことありません! 久人さん!! だって、あなたは……っ!!」
「……恐いんだよ」
「え?」
「……本当は、俺も貴明も、恐かったんだ。たぶんこの生活がいつか終わる事は判っていた。……たぶん、俺は終わらせたかったんだよ。……逃れたかったんだ。俺には、貴明は、救えない」
「……そんなっ……!」
 絶句した。
「……だから、さ、勇治くん。貴明の面倒、見てやってくれないかな?」
「え?」
「……このマンションの契約はしたままにする。だから、ここであいつと一緒に住むっていうのは……無理かな?」
 久人さんは、時折とんでもない無理難題を言う。それは良く知っていた。本当は、四条が必要としているのは久人さんだけど、彼はもう、決めてしまっている。決めてしまったのだと、判ってしまった。久人さんを止められないのならば、俺が代わりに四条と住むのは──色々問題はありそうだったが、四条が心配だという点においては、俺の意見も同じだ。親父を説得するのは大変そうだが、先にお袋に承知させれば問題ない。
「……判りました」
「え?」
「一緒に住みます」
「本当に良いの?」
「俺も、心配ですから」
 そう言ってから、にやりと笑った。
「その代わり、俺もお願いして良いですか? 久人さん」
「え? 何?」
「無理だったら良いんですけど、声楽か芸能関係のコネってあります? 声楽やっているヤツで、でも金とか周囲の理解や協力が得られなくて、困っている知り合いがいるんです。ちょっと力になってやりたくて。どうですか?」
 すると、久人さんは頷いた。
「判った。ギブアンドテイクだね。……じゃあ、知り合いを紹介するよ。プロのピアニストでね。声楽関係の知り合いもいる。……ただし、彼のことは、貴明には話さないで欲しいんだ」
「え? どうしてですか?」
「……まあ、たぶん会えば判ると思うんだけど……たぶん、貴明はそれを知ったら、きっと気分を悪くするだろうからさ」
「……変な言い方ですね? で、その人の名前は教えてもらえるんですか?」
「ああ。金山稜[かなやまりょう]という名だよ。俺より五歳年長だ。でも、絶対に、貴明には話さないでくれ」
「どうしてですか?」
 久人さんは苦笑した。
「……勇治くんは、貴明の出生の経緯、知ってるんだっけ?」
「詳しい事は知りませんけど、少しだけ」
「……貴明の、本当の父親だよ」
「え!?」
「一歳年下の異母弟もいる。でも、貴明は知らない。知らないはずだ。四条の家の誰にも教えられてなければの話だけどね」
「…………」
 何も言えず、黙り込んでしまった。すると、久人さんは、小さくごめん、と呟く。
「……俺は無責任な男だから、色々迷惑かけるけど、本当にごめん」
「別に久人さんに謝られたって。俺は、そんな……」
「貴明のこと、よろしく頼む。こんな事言えた義理じゃないけど、他の誰にも頼めないから」
「……久人さん」
「俺はたぶん、あいつから逃げようとしてるんだ。あいつもそれに気付いてる。俺は意気地が無くて、奪うことも、ただ黙って見守ることも、できなかった。これ以上一緒にいても、俺はあいつに何もしてやれない。保護者としても、従兄弟としても、人間としても、男としても、失格だ。これ以上一緒にいたら、あいつを道連れに無理心中でもしかねないから、さ。距離を置いた方が良いんだ。……時間が解決してくれるだろうと思うから」
「……久人さんは」
 思わず、言葉が喉を突いて出る。
「……四条のことを、好きだったんですか?」
 保護者としてではなく、従兄弟としてではなく、人間としてではなく、男として。言葉にしなかったそれを読み取ったのか、久人さんは哀しそうに、苦しそうに笑った。
「……好きだったよ。……とても、好きだったんだ」
 過去形。
「引っ越したら、連絡先教えてください。俺、時折電話しますから」
 そう言うと、久人さんは苦笑した。
「……そうだね。落ち着いたら連絡するよ」
 もう、会えないのかもしれない、と思った。久人さんは、四条から永遠に離れるつもりなのかもしれない、と。四条は、四条の気持ちはどうなんだろう、と思った。だけど四条は、俺なんかには絶対弱みを見せたりしない。弱音どころか愚痴すら言わない。俺は、久人さんの代わりになんてなれない。四条は親友だが、それ以外の何者でもなく、四条の心を救う自信も、全幅の信頼を受ける自信すらも、まるでない。俺が、もし、久人さんが想うように、四条のことを想っていたなら、久人さんのことを不誠実だと思ったかもしれなかったけれど、俺は四条をそういう対象として見たことはなく、そして所詮は他人事だった。
 四条も、久人さんも、救えるものなら救いたい。でも、俺には何の力もなくて。だから無言で頷いた。何も言葉が出て来なかった。それどころか、油断すると、今にも泣き出しそうだった。
「……つまみ、作ってきます」
 それだけ告げ、くるりと背を向け、台所へと向かった。

To be continued...
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