NOVEL

天使の歌声 -1-

 涙が溢れ落ちる。……理由? そんなものあればまだ良いさ。無いから困ってるんだよ。そんな顔、知り合いなんかにはとても見せられないから凄く間抜けな事に、トイレの個室なんか篭もって泣いてたりして。本当情けない。何で俺、こんな涙腺緩くなったんだ? 冗談じゃねぇよ。俺、そんな軟弱な人間なつもり毛頭無いのに。
川崎[かわさき]! いるかい?」
 ……おいおい、トイレにまで探しに来んじゃねーよ。このどアホ。俺に喧嘩売ってんのか?
「いないのかい? 川崎〜? いないんなら言っても良いかい? 君のこの前の数学の点数は確か……」
 思わず動揺してガタッと音を立ててドアにぶつかった。畜生! 四条[しじょう]!! 貴様一体何考えてんだ!? ここは公共の場だぞ!! 誰が何を聞いてるかも判んねーっつうのに!!
 ぶつけた額さすりながら、それでもいつの間にか止まった涙袖で拭って、ドアを開けた。
「……てめぇ……っ!! 四条!! 何を突然……っ!!」
「あ、やっぱりいた」
 にっこり笑う美少年。
「やっぱりいた、じゃねぇよ!! 今の一体何だよ!! てめぇ人に何の恨みがあって……!!」
「気にするな。細かい事は」
「細かい訳あるかっっ!! 貴様は友人の恥を曝して何か楽しいのかっ!? お前俺のいない場所でいつもそんな事やってんのかよ!!」
「……やだなぁ。僕をそんな風に思ってるのかい? 川崎。それは酷いよ。誤解も良いところだよ」
「じゃあ今のは一体何だ!!」
「川崎がいなかったら言わないよ。安心してよ」
「……俺がいたら言うんかい!! 貴様はっっ!!」
 するとけろりとした顔で四条貴明[しじょうたかあき]は可愛らしい顔でにこりと笑った。
「君がいたら、何がどうあっても僕を阻止しようとするだろう?」
 げんなりした。がっくりと肩の力が抜ける。
「……ああ、そうだ。用件なんだけどね」
 俺はちらりと横目で見た。奴はまるで動じない。
小倉[おぐら]先生が呼んでるよ。すぐ行った方が良いね。それじゃ僕はこれで」
 と言って歩き去ろうとする。
「ちょっと待て」
「はい?」
 四条は不思議そうに俺を見る。
「それだけの用事か?」
「大切な用事でしょう?」
 にっこりとエンジェル・スマイルで答える。奴はこの微笑みだけで上級生や同級生達の──恐ろしい事に男女問わず──心臓を鷲掴みにして一年生にして生徒会長に成り上がったような男だ。中味の方は……まあ見ての通り。一筋縄じゃ行かない極悪魔人。
「親切にこんなところまで呼びに来てあげたんだから、感謝しなよ。友達甲斐のない男だね」
「てめぇにだきゃぁ言われたくないっっ!!」
 怒鳴りつけると、四条はひょいと肩をすくめた。
「やだなあ、ブルーデイかい? 川崎」
「誰がブルーデイだ!! 俺は女かっっ!?」
「川崎みたいなゴツイ女は見たくないなぁ。想像しただけでちょっと身震いするかも。やっぱり僕は自分より背が低くて綺麗な女の子が好みだし」
「貴様の好みなんぞ誰も聞いとらんわっっ!! ボケっっ!!」
「……とにかく僕は忙しいんだ。その忙しい時間を割いて探しに来てあげたんだから、感謝して欲しいものだね。用件は済んだから行くよ、じゃあね」
 言うと、迷い無い足取りで歩き去る。……どうもな、あいつに感謝の言葉が言い難いのはどう考えても二言三言言葉が多すぎる所為だと思う。しかし奴が実際忙しいのは間違いない事で、その忙しい時間を割いて俺を捜しに来たってのも間違いない真実だと思う。ただ、普通はそれを当人に言ったりしないだけで。
「四条!!」
 四条は顔だけこちらを振り向いた。
「……悪かったな」
 そう言うと、四条は魅力的な笑顔でにやりと笑った。……たぶん性格物凄く悪いのに、憎みきれないのはこの笑顔のせいだろう。自覚してるかどうか判らないが、奴は自分の笑顔の使い方をひどく心得ている。
  俺は職員室へ戻った。川崎勇治[かわさきゆうじ]、高一の夏。

 小倉浩文[おぐらひろふみ]──俺のクラス担任で担当科目は日本史──は湯飲みで緑茶を啜りながら、何かプリントの草案みたいな物に目を通していた。
「おっ、来たか。川崎」
 俺は無言で頭だけ下げた。
「ま、座れ」
 小倉は隣の席を指し示した。記憶通りならそれは手厳しい性格の現国教師の席だ。俺は多少の躊躇を覚えつつ、言われるがままに座った。
「悪いな、貴重な休み時間に呼び出したりして」
「……いえ」
 俺は首を振った。どんな用件かは知らないけれど。俺の方は結局、休み時間だろうが授業中だろうが、大した違いはない。私立名門である葉ヶ山[はがやま]学院高等部。小中高一貫教育、文武両道を謳うこの学校で、俺は学業は下から数えた方が早く、運動の方は……三ヶ月前、事故で右足を故障してから何もしてない。俺はどうせ毎日無為にぼんやりとただ無駄に時間潰してる状態だったから、まあ多少はかったりぃなとか思わないじゃないが、別段そう面倒にも思わない。
「足は大分楽になったかい?」
「ああ、まあ。松葉杖使わなくて良くなるくらいには」
 選手としては全く使い物にならないけれど。
「そりゃ良かった」
 小倉は脳天気な顔で笑った。俺は曖昧に笑みを返した。
「ところでな、川崎」
「はい?」
「お前、合唱部入らないか?」
「は!?」
 俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。一瞬、聞き間違いかと思った。小倉は人の好さそうな顔でにこにこ笑っている。
「大声出すと気持ち良いぞ? 俺が保証してやる」
「……は……あの……」
「まあすぐ答えは出さなくて良い。返事が決まったら、俺か合唱部顧問の黒河[くろかわ]先生まで言ってくれ。焦らなくて良いぞ。じゃあな。……悪かったな、本当」
 俺は狐につままれたような気持ちになりながら、職員室を出た。
「やあ、川崎」
 そこで出くわしたのは四条だった。何か大量の荷物を抱えていて、殆ど顔が見えないくらいだ。大量の資料(?)か何かの山。
「……持ってやるよ」
 この場合、大概の良心的な人間が言う台詞を口にして、俺は相手の返事も聞かずに、上半分を奪い取った。
「有り難う、川崎。生徒会室まで頼めるかい?」
 生徒会室は職員室を通り過ぎた歴史資料室の隣にある。
「ああ、良いぜ」
 俺達は並んで歩き始めた。四条がくすりと笑った。
「……何だ?」
 四条はくすくすと笑った。
「さっき、変な顔してた」
「!?」
 思わず顔に血の気が昇った。
「……いや川崎の顔は男前だけど。何て言うかな、『困ってる』顔だった」
「…………」
「川崎を困らせるどんな難題をあの見るからに人の好さげな小倉先生が提供したのかな、と思ったら何だか笑えてね。失敬」
「……性格悪いな、お前。本当つくづく」
「それでもこんな僕が良いって言ってくれる人が多いってのは、僕の強みだよ? じゃなきゃ僕は今頃こんな処にはいられないから」
 にやりと笑って見せるその顔が、ひどく年齢不詳。俺は舌打ちした。時折こいつはこういう顔をする。『お前には判らないだろ?』って顔に俺は見える。被害者意識かも知れないけど。
「それで?」
 促されるから、嘆息して答える。嘘ついてもこいつには通じない。初等部からの付き合いで良く判ってる。もっとも、こいつはプライベートを極端に隠す奴だから、学院を一歩外に出たら何してるかなんて知らない。俺もわざわざ聞かないし。それがこいつと友人するための暗黙のルールだった。
「……合唱部に入らないかってさ」
「へえ?」
 四条は興味深そうな声を上げた。
「川崎を合唱部に。確かに音痴ではないし、声は必要以上に大きいし、質も悪くないけど、よりによって川崎を。博打だね。じゃなきゃ『策略』か」
 がっくりと来た。
「……お前、どうしてそういう考え方する?」
 憮然として隣の男を見た。四条は相も変わらずのにこにこ顔。
「君知らないでしょう? 合唱部の事情」
「……『事情』って……何かあるのか?」
 途端に警戒して強張る俺をちらりと横目で見て、四条は薄く笑った。
「知りたい?」
「そこでやめられたら凶悪だぜ?」
 生徒会室前に辿り着いた。四条は器用に、両手で荷物抱えたままノブを回して扉を開けた。四条に続いて俺も部屋へ入る。
「そこへ置いて」
 テーブルに自分の荷物を置いて言った。俺はその通りにした。四条はコーヒーメーカーから珈琲を注いで俺に差し出す。喉が乾いてたから素直に飲んだ。四条も自分の分を入れて椅子に腰掛け一口飲んだ。
「まあ大した話でも無いけれどね。佐伯亮輔[さえきりょうすけ]って男子部員がいるんだ。僕らと同じ一年で。合唱部には他に男子部員がいないんだね。だから男子パートが構成できない。けど気の毒に……結構才能あったりするんだ、これが。独唱コンクールで全国大会にまで行っちゃうような。だったらこんな学校にいないで専門行けば良い話なんだけど、親が猛反対していて音楽学校や芸能学校なんてとても行けやしないって事らしくてね。まあ本人は高校在学中に何らかの実績を積んで、親を説得するつもりらしいんだけど」
「……実績って……全国行っただけで十分じゃないのか? 普通」
「たった一回行ってもね。声楽ってのは本当厳しい世界だよ? 本当にやる気あるなら、専門の高校行かないとね。勿論幼い頃から専門の教師についてソルフェージュとかきっちりやらないと。彼、独学らしいからね。ボイストレーニングなんかも受けた事無いらしい。まあ結構な美声だとは思うけど、だからってプロになれるかどうかなんてものは博打だよ。芸能なんてものは水物だしね。感性なんてものはさ、物差しで測れるものじゃないし、結局実力どうこうとかより、出身学校とか、就いてた声楽家がどのくらいの実力……まあこの場合コネだけど、それを持ってるかって事でしょう? 大学入る時は」
「……お前、本当夢も希望も無い、身も蓋もない言い方するよな」
「事実だと思う事を口にしてるけど?」
「……だから性格悪いって言われるんだよ」
 俺は嘆息した。四条は気にした風もなく珈琲を啜った。こいつはひどく冷めた物の見方をする。何処か相手を突き放すような。別に当人には突き放してるつもりは毛頭無い。だが、情が無いと言われても仕方ない話し方をする奴だ。
「……それに一体どの辺が『策略』なんだよ? 気の毒な話だろ?」
 四条はくすりと笑った。
「本当、川崎は性格良いよね? 育ちが良いのかな? 川崎物産の次期社長様だしね」
「バカ野郎!! それ言ったら自分は四条コンツェルンの四男坊だろうが!!」
 四条は乾いた笑い声を上げた。
「厄介者の四男坊? どうだろうね? それが一体何の肩書きになるだろうね? 少なくとも四条の名は僕のコネクションにはなり得そうもないね」
「……四条……」
 四条の母親は後妻で他の三人とは異腹だ。しかも四条自身の母は幼い頃に失踪と来てる。父親は小学校上がる前に亡くなったって聞いてるし。今の四条コンツェルンの総帥は四条の年の離れた兄だって聞いてる。それから聞きはしないけど、救いがたいくらい仲が悪いって事も知ってる。時折四条が身体に付けてくる傷や痣が、その兄の仕業だって事も。知ってるからって、俺に四条をどうこうしてやる事も出来やしないが。四条の物事を冷めた見方する処ってのもたぶんそういうトコから来てるんだろうけど。
「……悪い……」
「別に? どうして謝る? 川崎」
 意地の悪い笑い方をする。俺は嘆息した。
「……俺が謝りたいからだろ」
「自己満足?」
「……そういう事言うか?」
 溜息が出る。四条は笑った。魅力的な笑顔で。
「……まあ、でもあれだね。良く出来てるよ」
「……は?」
「ひょっとして川崎を仲間に引き入れる事で、僕をも巻き込もうとしたのかな? だとしたら実に良く考えてあるよ。浅薄なのは否めないけど」
「?」
「……つまり川崎に説得されて僕も入部したら、合唱部には他の入部希望者も見込めるよね? 僕目当ての」
 絶句した。けろりとして当然の事のように言ってのけるけど。照れもせずに。四条は魅力的ににっこり笑った。
「もっとも、僕が川崎に説得されるような人間であれば、っていう注釈付きにはなるけど」
「……説得されないんだろ? 俺もわざわざ説得しないけど」
「当然でしょう? 『放課後』は僕の時間だ。僕が何のために生徒会長になったか判るかい? 内申書を良くするためと、僕の都合を最優先させるためだよ?」
 どうだろうな、この男は、とか思わずにはいられないけど。普通は思っても言わないんだ。というか言わないべきだろう。……たぶん、『信頼』って奴なんだと思うけど……こんな信頼要らない…と時折思ってしまう。全く。夢も希望も無いよ、こいつは。
「で、どうする? 乗ってあげるの?」
「……どうだろうな? 俺一人入ってもそんな意味は無いと思うが……」
「まあ、ゆっくり考えるんだね」
 四条は笑った。
「教室へ戻ろうか?」
 俺は頷いた。

 佐伯亮輔、って奴に少々興味を覚えた。のは自然の成り行きだったと思う。少なくとも俺はそう思う。四条ならそれに冷笑で返すのだろうが。
 隣のクラスだった。訪ねて行って差し示されたのは、部屋の隅でぼうっとしてる、何処と言って特徴のないごく普通の奴だった。四条の話聞いて『特別』な奴って印象抱いただけに、俺は正直拍子抜けした。
「何、話って」
 興味なさそうに胡乱げに俺を見る。まあそうだ。何の面識も会話もした事のない奴にいきなり訪ねて来られたら警戒もするわな。
「悪い、俺、隣のクラスの川崎ってんだけど……」
「……知ってる。俺も初等部からだから。四条といつもいる奴だろ?」
 その認識は少し間違ってるぞ、と俺は思った。俺は四六時中四条といる訳じゃない。他の奴と比べると多いってだけだ。まあ、良い。大体そう思われてるのは判ってる事だし。今は四条の話なんかしてる場合じゃない。
「……お前、声楽やってるんだって?」
「声楽に興味あるのか?」
 途端に表情が変わった。別人のように、劇的に。思わずどきりとした。頬を紅潮させ、目をきらきらと輝かせ、表情が和らぎ生き生きとしている。声に生気と興奮が如実に現れている。期待に溢れたその目を見ると、無いとはちょっと言い難い。
「……ああ、その、ちょっと、な。ええとあまり知らないんだが」
 慌てて言うが、奴のキラキラな目は変化無かった。
「歌はね、最高だよ!! 自分の声が、身体が楽器になるんだ!! すごく空っぽになって身体全体で歌を歌うのは本当、凄く気持ち良いんだよ!! 何にも考えずに歌う瞬間が一番俺、好きで……そん時だけはもう、現実なんかどうだって良い気分になる!! 歌うための声と身体があればもうそれで十分!! 勿論、俺はプロになるけど!! って言うかやるんだったら崖っぷちだよな!! 半端な気合いだったら無い方がマシだ!!」
「……は……あ……」
 気圧された。何だか色々。俺は一体何のためにここへ来たんだったか忘れそうになった。
 そう。合唱部の件。
「……歌うの、好きなんだな」
「当たり前だろ? あんな楽しくて気持ち良くなれること、他にあるかよ?」
 ……それは主観の問題だろ、と思ったが口には出さなかった。
「本気で歌いたいと思うか?」
「思うさ! だから俺は何処でだって歌ってる」
「声楽に限らず?」
「歌えるんだったら何でもいい。俺は歌うために生きてるんだ。なのに、それを理解しない奴らの多すぎること。俺はただ、歌いたいんだよ。それの何処が間違ってるって言うんだ?」
 ひとの迷惑になるんだったら、それはマズイと思うけど。周囲の許容できる範囲で満たす事の出来る欲求なら、別に構わないんじゃないか?
「……合唱が良いのか?」
「合唱にはこだわらない」
 俺の心は決まった。
「じゃあ、チャンスを作るんだな」
「……チャンス?」
「協力してやるよ」
 四条が聞いたら、きっと呆れる。ぱあっと目の中の星の数を増やして、佐伯は感激いっぱいな顔で俺を見つめた。驚いて声も出ないようだった。
「ただし、チャンスをモノに出来ないようだったら手を引く。それから二度と協力しない」
「やるよ! やる!! やる!! モノにする!!」
「OK。俺のしてやれるのは最初の一押しだけだ。後は自分の責任。失敗しても俺のせいにするなよ?」
「判った!!」
  俺は声楽には詳しくないけど──心当たりがいる。

To be continued...
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