NOVEL

週末は命懸け10「恩讐」 -1-

〜プロローグ〜

「申し訳ないね、志賀くん」
 久本貴明は笑いながら言った。
「君を外へ出すべきではないという意見があまりにも多くてね。先の君の新しいマンションの件だが、保留となってしまった。代わりに、我が家の離れの一室を、君の寝室として提供することになった」
 それを聞いて、志賀秀一は頷いた。
「ああ、俺は『裏切り者』ですからね。またいつ寝返り打つか判らない、と。そう思われても仕方ない立場だというのは、よく判りますよ」
 志賀はくすくすと楽しそうに笑った。
「僕は君がそういうことをするとは、とても思えないんだがね。とても無視できないくらいに、そういう声が多い。無理に事を進めれば、かえって君に害を及ぼしかねない。それでは困るからね。それは僕の本意ではない」
「へえ? そんなに俺を買ってくれるんですか? まだ知り合って間のない俺を」
「君のことは多方面から色々聞いている。それに実際会って話をすれば判るよ。君は無駄なことや、損をするようなことはしない人間だ」
 貴明が言うと、志賀は肩をすくめた。
「もしかして、これは聞いてないんですか? 俺が常に誰の味方もしない『コウモリ』だって」
「僕は君ほど信用に足る人物はいないと思っているよ。君は自分が不利にならない限りは裏切らない。君が裏切ったとされる件は、どれもこれも、君を信頼せず、また君の身を危険にさらすような、依頼者に非があるものばかりだ。君と僕の思考回路や発想はとても良く似ていると思うよ。ただ一点を除けば」
「へぇ? どういうところが?」
「君はいつも自分が安全に楽しめるかどうかを基準にしている。この場合の安全は常人のそれとはまったく異なる基準で、それ故にほとんど理解はされないだろうが、はっきりと明確な基準があり、それをクリアしないものを君は切り捨てる。……僕の基準は、それが自分の望みや想いに添うか添わないか、だ。単純だろう?」
「あははっ、それ、下手するとものすごく『我儘』ってやつなんじゃありません?」
「僕は自分がとても我儘で欲張りな人間だということを知っているよ。欲しいものはいくらでもある。しかし、僕はその半分も手に入れられない。でも、それが普通じゃないかな。君はどう思う?」
「正直言って、俺は他人の基準なんかどうだって良いですよ。でもまあ、俺の基準だって、やりたいかやりたくないかって事だから同じでしょう? あなたが欲して手に入れられないものがあるってのは、大抵の人間には疑問だろうけど、まあ、そんなもんでしょ? 人間なんか。って、ところで高望みしてやしませんか? 久本社長」
「自分では高望みだとは思ってないよ。手に入れる自信はあるんだ。ただ、時とか色々な要素が足りてないだけだと思う」
「自信あるんですか。……いいなぁ、そういうの。惚れちゃいそうですよ」
「私に?」
 貴明がくすくす笑うと、志賀は肩をすくめた。
「ま、それはともかく、なんだか棗のトコよりは面白そうだと思ってますよ。ちょっとやつは……真面目で窮屈すぎるし。今はナリの野郎がいないだけ、まだマシですが。なんか悲壮感ありすぎて厄介ですよ」
「……悲壮感、ね」
「ナツの友人として、社長にご忠告すると、『根暗なやつをいじめると後が大変ですよ』ってのと、『引導渡すならとっとと渡してやってください』ってとこですかね。なんかもう、本当、見ているだけで気の毒だから」
「……やはり、最初から成功させる気なんて更々無いのかな」
「やる気になってるのはナリだけですよ。ナツは……本気だけどやる気ゼロなんです。開き直ったバカと根暗は、心底恐いですよ。常識通じませんから」
「だから無視しておきたかったんだけどね。僕が介入することで、ますます激化するのが厭だったから」
「けしかけてるやつを潰したらどうです? どうせ、あいつ一人じゃ何もできないんですから」
「できるのかね?」
「……正直言うと、俺、楠木成明って男が、大嫌いなんですよね。だから、アレをどうにかしてくれると、有り難いかなと正直思ってるんですが」
 そう言って、志賀はにやりと笑った。


 二〇〇五年、九月三十日金曜日。

 布越しに、指で、胸の粒を軽く引っ掻かれた。
「……んっ……」
 呻いて仰け反ると、上衣をはだけられ、指が直接肌に触れ、鎖骨から胸へとなぞるように滑る。吐息をついて、それから逃れようと、寝返り打つと、今度は下衣をはぎ取られる。ひやりとした空気に、ぞくりと身を震わせると、背にそっと口づけられ、舌で背骨を舐め下ろされる。
「……ぁっ……!」
 舌は臀部にたどり着き、『入り口』をなぞるように、じっとりと舐め上げられ、それと共に、立ち上がりかけていた『それ』に触れられる。
「……やっ……!!」
 身じろぎする俺に宥めるような口づけを落とす。その時、不意に、それが、慣れた煙草の味がしないこと、その代わりに何か甘い香り──オードトワレか何か──がすること、それからその唇がいつもより固く滑らかなこと、などに気付いてガバと跳ね起きた。
「なっ……なななっ……!!」
 思わず絶句した。寝ている俺の下半身をさらし、上衣のボタンを全て外した男──志賀修一──は、にっこり微笑んでそこにいた。
「てっ……てめっ……志賀……っ!! な、なんでお前がここにいる!? それより貴様、今、何していた!?」
「何ってヤだなぁ、郁也。ナニする途中に決まってんじゃん。あっはははは!」
 志賀はそう言うと下品な笑い声を上げた。
「てめっ……死ね!! このド腐れ野郎!!」
 志賀のバカ面に右ストレート。しかしあっさり軽くかわされる。
「ヤだなぁ、朝っぱらからそんな激しいプレイ……」
「プレイじゃない」
「ふぎゃっ!!」
 半瞬遅れて繰り出した膝蹴りは、ピンポイントで相手の股間を直撃した。それがヒットした途端、志賀は固まり、その場に呻いて両手で抑えて転がった。
「拳はフェイクだ。変態野郎」
言い捨てて立ち上がり、乱されたパジャマを調え、学生鞄からガムテープを取り出し、志賀の両足から拘束する。
「……う……あ、あの、俺、自分が陵辱されるのは、ちょっ……ちょっと……」
「安心しろ。俺にはそういう趣味はない」
 ビッとガムテを引きちぎり、志賀の両手を後ろに回し、手首をぐるぐると巻いた。
「なっ……なんでそこまですんだよ、くそっ……!!」
「自分が今、何をやったか自覚あるのか?」
 俺は冷徹に言い放ち、作業を続けながら、志賀をうつ伏せに転がし、背中をぐっと踏みつけた。
「えっ? あっ、ちょっと……!!」
「大体俺は、部屋の鍵はかけてあったはずだ。貴様どうやって中に入った?」
「……あー、えー、それはー……つまり俺の特技の一つに錠開けとか潜入とかあってー……」
「窃盗・レイプも得意技?」
「窃盗はともかく、レイプはしないっつうの。や〜だなぁ♥ 俺はとにかく紳士で……」
「紳士? 紳士が熟睡中の男を襲うのか? 部屋の鍵を勝手に開錠して? そりゃ初めて聞いたな?」
「ほ、ほら! 終わりよければ全てよしって……!!」
「こういう場合には使わねぇだろ。……俺がなんで怒ってるか、お前、理解してないようだな」
「え? い、いや、ちょっ……なんでそんなギリギリ締め付けんだよっ!! いてっ……痛ぇ!! 痛いって!! 俺はもっとソフトなプレイの方が……!!」
「ナイロンロープって人間の体重支えることが可能だと思うか?」
「えぇえっ!? ちょっ……待っ……そ、それはヤベぇよ!! ヤバイって!! 俺が死んだらどうする気だ!?」
「この世の害虫が一人減る」
「ちょっ……待っ……!?」
 机の引き出しからナイロンロープを取り出して、志賀の腰に巻きつける。実は紐で人間を拘束するのは意外と難しい。衣服を身に着けていれば尚更だ。人間の身体には関節や筋肉があり、良く動くものだから、こつを知っていないと上手く縛れない。初心者でも上手く拘束するなら、ガムテが無難だ。水・刃物・火や熱に弱いのが難だが、細かいこと考えずに拘束できる。正直言うと、俺は紐で人間を拘束したことはないし、縛り方も良く知らない。でも、人間の身体には、初心者でも簡単に縛れる部位がある。それは、腰だ。ちょうど人体の中央部にあり、重心バランスも良い。意外と腕とか足というのは、縛り方を知っていないと難しい。まあ、指を縛るってのは効果ある上簡単だけど。どのくらい巻けば良いのか判らないので、適当だ。ぐいぐい締め付けると、志賀は悲鳴を上げた。
「ちょっ……待て!! 素人がろくな知識も無いくせに適当に縛るな!! 力任せにやりゃ良いってもんじゃねぇだろ!? 全然なってねぇよ!! くっ苦しいって!! お、俺を殺す気か!?」
「意外と難しいな。これで吊るせるかな? もしかして、首の方が楽だったかな」
「ばっ……!! く、首は死ぬって!! 冗談やめろっ!!」
 だんだん手が痛くなってきた。これは勉強が必要だな、と気付いた。ので、適当なところで紐を切り、固結びした。
「やっ!! やめろっ!! 縛り方どころか結び方も知らないのか!? お前なんでそんな結び方すんだよ!! 解けなくなったらどうする気だ?!」
「安心しろ。一生そのまま放置してやる」
「真顔で冗談言うなよ、郁也!! お、脅えるだろっ!?」
「俺は至極本気だ」
 志賀の足を掴み、ベッドから引きずり落とした。
「いっ、痛っ!!」
 後頭部をぶつけた志賀が軽い悲鳴を上げる。意外と重い。これは一人で運べない。仕方ないのでずるずると絨毯の上を引きずった。
「おーい、ちょっと、郁也ってば!! 背中痛い! 痛いって!!」
 やはり口も塞ぐべきだったな。そう思いガムテを手に取ったところで、ふと思いつき、学生鞄の中から黒の油性マジックを取り出した。
「え? ちょっ……」
「黙れ」
 まず最初に、ガムテで口を塞ぐ。そして、志賀の額に大書した。
『変態』
 それから、右頬に『強姦魔』、左頬に『痴漢』と書いて、顎に『バカ』と書いて、キャップを閉めた。志賀が何か呻いている。そしてまた志賀の足を引きずって廊下へ放り出すと、自室の鍵を調べた。鍵は壊されてはいないようだ。内鍵を閉め、シャワーを浴びるためにバスルームへと向かいながら思う。
 これはドアチェーンとかサムターンをロックするものとかが必要かもしれない。 って言うか、どうやって開けたんだと問いただしてやりたいが──今は疲れたから、保留。それより、これはボディーガード連や執事の怠慢じゃないか?と思う。
 全裸になってバスルームへと向かう。シャワーのコックを捻りながら、ぼんやり思う。……中原のことだ。昨夜の夕食後、退院はまだできないと言われた。ドクターストップだ、と言われれば文句など言えない。中原龍也にそばにいて欲しい、というのは俺の我儘だからだ。それでもやっぱり中原にそばにいて欲しい、と思う。あの変態──志賀修一──の存在以前に、俺があいつを欲しているから。
 なんだか今頃になって凹んできた。めげそうになってもいる。中原の不在が一番痛いが、あのセクハラなんてレベルじゃすまない性犯罪な変態野郎が、別棟とは言え、しばらく同じ敷地内に住むということや、そして今朝の……ああいうことが、これから毎日起こり得るかもしれないといった緊張と恐れが、今頃になって大波となって押し寄せてきて、思わず涙が零れ落ちた。
「……中原……」
 情けない、と思う。以前の俺はこうじゃなかった。確実に弱くなってる。以前は、こんなことで感情動かされたり動揺したりしなかった。本当に、つくづく、中原なしで、あの男を上手くやり過ごせるか、不安だった。俺の心は、あんな男一人で揺らがないし傷付かない、と思う。でも中原のことを考えると駄目だ。中原が嫉妬するから、というよりは、俺が、中原を傷付けたり悲しませたりしたくないから、だ。正直好きでもない男にキスされたり、触られたりしたくない。けど、耐えれば済むことなら、たぶん耐えられる。けど、それを中原が嫌だと思い、悲しんだり傷付いたり嫉妬したりすると知って、それを他人に許すことなどできない。それはたぶん、『恋人』として付き合う以上、最低限のルールだと思うから。
 けど、人が寝ている時とか不意打ち、ってのは、かなりムカついた。無論これで許してやるほど俺は優しくない。犯罪者になる気は毛頭ないから、俺なりのやり方で報復する。こういう、家の中での場合の報復で一番効果的なのは、米崎だ。なんだかんだ言って、この家であいつを敵に回して、まともに過ごすことは不可能だ。この家は久本貴明の持ち物で、その支配者は久本貴明なのは間違いないが、その管理者は米崎邦夫なのだ。メイドも庭師も運転手もボディーガード連もそれを知っている。だから米崎を怒らせると、少なくとも、久本邸内では勤務できない。できたとしても、膝の上に重石を載せて針の筵に正座させられる気分を味わわされる。
 シャワーを止めて、バスルームを出て、バスタオルで身体を拭く。下着を身に着け、制服を着る。そして髪をセットして、学生鞄を手に取った。転がったままのガムテと、それからはさみを取り上げ、鞄の中に入れる。ナイロンロープを拾い上げ、ぽん、ぽんと放り上げ、なんとなくそれも鞄の中に入れた。そして部屋を出る。既に志賀の姿は無かった。代わりに米崎が立っていた。
「米崎」
 俺が声を上げると、米崎は目礼し、
「何か御用でございましょうか?」
 と言った。
「今朝、志賀修一が俺が寝ている最中に、俺の部屋の鍵を勝手に開けて、中に侵入した。鍵をもっと複雑なのに変えるか、ドアチェーンとかで防御した方が良いと思う──けど、それ以前に、そういうことが、『使用人』に許されて良いのか?」
「いいえ。何者であっても許されない所業です。了解しました。適切に処理いたします」
「……任せる。今後はこういうことは無いように頼む」
「はい。ところで郁也様」
「何だ?」
「……首筋に赤いものが。怪我でもされましたか?」
「え?」
 その途端、昨日の記憶が蘇って──ああぁ、中原!! あの大バカ野郎!!
「あ、いや! これは!! なんでもない!! なんでもないからっ!! ちょっと虫に刺されて掻いちゃって!!」
 慌てて弁明した。
「…………」
「……ああ、くそ。そんなことどうでもいいだろ? 俺はメシ食って出かけるから。志賀のこととドアのことはどうにかしてくれ。自分でして良いなら買ってくるけど」
「いえ。そういった事柄は私の管理下でございます。郁也様はお気になさらず、私にお任せくださいませ」
「そうか。じゃあ、頼む」
 そう言うと、米崎は怪訝な顔で俺を見た。
「ん? なんだよ?」
「……いえ。何でもございません」
 そう言うと、米崎は目を伏せ、一礼した。俺は米崎の前を通り、階段へと向かった。
「……郁也様」
「何だ?」
 振り返ると、米崎が僅かに微苦笑していた。
「今日のスープは郁也様がお好きなコーンスープです」
「……いつの昔の話してるんだよ」
「それと、貴明様からご伝言です」
「……伝言?」
「『今晩は外食しよう』とのことです。場所についてはまた後ほどご連絡されるそうです。ですから、六時までにはご帰宅くださるようお願いいたします」
「…………」
 社長。……一体何を企んでるんだ?と思う。それでもたぶん、俺に拒否権は無い。だから、これは絶対だ。無視すればどういう目に遭うか、を考えれば、その通りにするしかない。
「……判った」
 そう言って頷くと、米崎は目を伏せ礼をした。
「それではよろしくお願いいたします」
 ……憂鬱だった。

「おはよう、郁也! なに仏頂面してるんだよ」
 いつもながら、明るく脳天気な笑顔、藤岡昭彦。
「……お前はいつも暢気そうで良いな」
 たぶん、愚痴で妬みだ。
「暢気って……俺は俺なりに色々苦労してるよ。ところでさ、郁也」
「何だ?」
「忘れてるのかなって思うんだけど……メイドさんの衣装」
 さすがに語尾は小さな声で。
「あ!」
「……やっぱりな。あ、でもアレ結局、各自で作ることになったから、良いよ。ごめん、郁也」
「あ、いや、こっちこそすまない。……って言うか自作するのか?」
「なんか妙に副部長が乗り気でさ。型紙を知り合いに頼んで作ってもらったらしいんだよ」
「…………」
「だんだん妙な雰囲気になってきてさ。で、一年だけじゃなく全員参加ってことに。あ、そうだ。高見沢部活急に辞めたんだよ。もしかして女装がイヤだったのかな、とか思って。でも、あいつ口割らないし。どうも避けられてるみたいだし」
「…………」
「郁也?」
「……眩暈がしてきた」
「俺もだよ。全員参加じゃとても逃げられないし。当日が恐いよ、俺。少なくとも、部長のメイド姿だけは見たくないなぁとか密かに思ってるし」
「俺、お前のとこの部長って顔覚えてない」
「……部長は、身長一九六cmで、体重八十四kgなんだ」
 一瞬、想像してしまった。
「…………それは恐い、な」
「尊敬してるんだけどね。それとこれとは別っていうか、それ以前の問題だと思う。しっかし、なんで副部長あんなに乗り気なんだろ。俺、ちっとも判らないよ」
「……俺に言われても困る」
「そうだな。たぶん愚痴と報告。以上」
 そう言って、俺の前の席に腰掛ける。そこは本当は昭彦の席ではないが、まだその席の生徒は登校していない。
「でさ、郁也。質問」
「……何だよ?」
「お前、なんか悩み事ある?」
「あってもお前には話さないよ」
「……そういう言い方するか?」
「今更だろ」
 そう言うと、昭彦は溜息をついた。
「まあ、お前、そういうやつだけどさ。溜め込んでないで、吐き出せよ。お前は俺を役に立たないって思ってるんだろうけど、とりあえず聞くだけなら聞いてやれるしさ。鬱憤たまるだろ?」
「それで俺が実は性生活の悩みだとか言ったらどうする気だ?」
「せっ……性生活!?」
「バカ!! でかい声出すな!! ……別にそういうわけじゃないけどな。内容によるだろ、そんなの。言えることなら話してやるから」
「……イマイチ信用できないんだよな」
 貞操の危機にあってる、なんてことは、口が裂けても言えない。とりあえず米崎は何らかの対処はするだろうが、それだけじゃ足りない。自衛のための防犯グッズは必要だろうか、と思う。ところでやっぱりスタンガンとか催涙弾は、気軽に手軽に手に入るものじゃないんだろうな。まあ、良い。いざとなったらボトル入りのマスタードで代用してやる。でなかったらラー油。問題はどこにどういう風に仕込むか、だ。やはり寝ている時と風呂に入ってる時が一番無防備だよな、と思う。というか、家の中でそういう心配をしなくちゃならないというのが、そもそも問題すぎる。社長に言ってどうにかなるならそれでも良いが、なんとなく──改善されない気がする。
「ところで郁也。最近お前、学園祭の準備さぼりがちだけど、今日はどうするんだ?」
「悪い。外食予定が入った。ギリギリでも四時半までしか作業できない」
「ああ。それじゃ、一時間か。予定あるなら無理しなくて良いよ。学園祭まであと八日で、いい加減色塗り全部終わらせなくちゃ、セットの組み立て出来ないしヤバイんだけど、たぶんきっとどうにか出来るよ。土日は出て来られる?」
「へ? 土日?」
「学園祭準備で、土日も開いてるみたいだよ。さっき下中に聞いたら、教室の使用許可取ってあるから、手の空いてる人は来てくれって回覧するって。で、都合の良い時間帯とかあったら書いてくれってさ。無論夜とかはダメだけど」
「……土日」
 ちょっと考える。この、ややこしい状況下で、学園祭準備など許されるのだろうか? 志賀は捕まえたとは言え、親玉──今度こそそうだと思われる──四条棗が残っているのに。厭なことに──本当に、最低最悪に厭なことに──敵の唯一の手がかりは志賀秀一である。志賀は、おそらくその棗とやらの企みを知っているはずだ。そう言えば、高木沢は棗を知っているのだろうか? ふと、気になった。
「ごめん、ちょっと野暮用」
「……またかよ。良いけど。いってらっしゃい」
 昭彦はひらひらと手を振った。俺は頷き、教室を出た。

 一年E組の教室。高木沢はちゃんといた。俺の姿にすぐ気付き、声をかける前に立ち上がり、こちらへやって来た。
「何か用か?」
「聞きたいことがある」
 そう言うと、一瞬、高木沢は顔を歪め、しかし、頷いた。
「場所を移そう」
 そうして、旧校舎屋上へ移動した。
「単刀直入に聞く。四条棗、あるいはナツと呼ばれている男を知っているか?」
「しじょうなつめ? ナツ?」
 その顔を見ただけで、高木沢が何も知らないのは判った。
「悪い。手間を取らせた。知らないならそれで良い」
「あ、待って! あのさ、その……四条棗って人は知らないけど、九頭竜のおじさんの従兄弟に、確か棗って人がいるって聞いたことある気がする」
「九頭竜?」
 聞き覚えのある変わった名字。何処で……と思い返して、あのバーでの銃撃戦を思い出す。
「……そうだ、九頭竜久遠だ」
 久本貴明の従兄弟の息子で、俺にとっては又従兄弟。
「……久遠さんを知ってるのか?」
「又従兄弟だ」
「え? あっ、そうか。……そう言われてみれば、そうか。そんな話はどこかで聞いたことあったかも。俺の知ってるおじさんは、九頭竜章文[くずりゅあきふみ]っていう人だ。親戚ってほど近い血縁じゃなくて、高木沢の本家に、華道を習いに来ていたんだ。祖父の兄弟の娘の夫の従兄弟とかいう関係でさ」
「ほとんど他人じゃないか」
「まあね。だから、本家にお花を習いに来てなかったら、あと、本家の新築祝いに来ていなかったら、たぶんきっと面識なかったと思う」
「……そうか。で、その棗ってのは、今、何処で何してるか知ってるか?」
「そんなの知るわけないだろ? 話を聞いたのは、俺が小学生くらいの頃だ」
「…………」
 一瞬、絶句した。
「九頭竜のおじさんと連絡取る方法も知らないし。取れたとしても、いつになるか判らないよ。本家経由になると思うし、もう本家には来ていないから」
「……全く役に立たないな」
 溜息つくと、高木沢は真っ赤な顔になった。
「なっ……!?」
「まぁ、いいや。たぶん古いデータならとっくに洗い終わってるし。志賀を締め上げた方が話は早そうだな」
「志賀って誰だ?」
 不思議そうに聞かれて、ぎくりとする。そうだ。こいつは志賀の本名は知らないんだった。
「あ……今のは聞かなかったふりしろ」
「え? どういう……」
「これ以上面倒には巻き込まれたくないんだろ?」
「そ、そりゃそうだけど……」
「だったら気にするな。悪かったな、手間取らせて」
 そう言って背を向ける。
「あのさ!」
「あ? 何だ?」
「その、俺が言う台詞じゃないと思うんだけど、その……無理はするなよ?」
「バカか?」
 間髪入れずに言うと、高木沢はがっくりと肩を落とした。
「う……そりゃ、俺はバカだけど……そんなにはっきり言うか?」
「バカだろ? 認めろ」
「自分でそうだと認めることと、他人に言われるのは別だよ、久本。それにさ、俺はお前を一応心配……」
「お前にそんなことされたいと思わないから、気にするな。それより、自分にやましいところがあるからって、昭彦を避けたりすんなよ。いい加減覚悟決めてどっしり構えろ。誰にもバラす気ないなら、性根を据えろ。ビクビクオドオドしてたら、あっという間に足がつくぞ? それが厭なら、腰を据えて覚悟を決めろ。それができなきゃさっさと警察駆け込めよ。嘘をつくとかしらばっくれるってのは、そういう事だぜ?」
「……久本は、平気でそれができるのか?」
「一度決めたらやる。そういうもんだろ? じゃなきゃ、秘密もへったくれもない」
「……久本は、強いんだな」
「別に強くなんかねぇよ。そういう問題じゃない。可能か不可能か、それくらい自分で判断しろってことだ。そりゃ見極めは難しいけど、やるって決めたらやるしかないだろ?」
「……ごめん」
「どうして謝る?」
「だって、俺がバカなことしたから……」
「別にお前なんかのためじゃない。俺のためだ。謝られる筋合いなんか無い。鬱陶しいよ、お前」
「…………」
「何を勘違いしてるか知らないけどな、俺は、自分の都合しか考えてないぜ? 今はちょっと余裕が無いから、お前のことまで考えてる余裕なんかちっともない。俺は利用できるものはなんでも利用する。ただそれだけだ」
「……久本……」
「お前、自分と自分のしたことについて、もう一度頭冷やして考えた方が良いみたいだな。それで自分で折り合い付けろ。どういう結論なら自分を許せるのか、一人で考えてみろよ。お前、どうせ部活辞めて暇なんだろ? 女装もハンドメイドでメイド服制作もしなくて良いんだし。だったらちょうど良いじゃないか」
「えっと……ハンドメイドでメイド服?」
「男子バレーボール部全員メイド服自作して着るらしいぜ。俺は学園祭で男バレ部の喫茶には絶対行かないことにした」
「…………」
 高木沢の顔が引きつった。たぶんヤツの頭の中は、女装男バレ部員の想像図でいっぱいだ。さっきとは別の意味で青ざめている。
「じゃあな」
 そう言い捨てて、教室へ戻った。

To be continued...
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