NOVEL

週末は命懸け9「血」 -1-

〜プロローグ〜

「大丈夫ですか?」
「……何が?」
 HISAMOTOコーポレーション社長、久本貴明は書類から顔を上げ、目の前に立つ秘書、土橋宏輝を見上げた。
 土橋はテーブルに珈琲カップを置きながら、心配そうに貴明を見つめている。
「顔色が優れないようですが、ちゃんと睡眠は取ってらっしゃいますか?病み上がりなんですから、無理をしては……」
「大丈夫だよ」
 貴明はきっぱり言った。
「子供じゃないから、自己管理くらいきちんとしている」
「……一般的に、自己管理をきちんとしている方は、手術から逃げ回ったり、手術直後に動き回って傷を開いたりしませんよ」
 真顔で言う土橋に、貴明は顔をしかめた。
「楽しい? 土橋君」
「と、おっしゃいますと?」
「君は説教が好きだよね?」
 真顔で言う貴明に、土橋は困った顔をした。
「……社長のためを思って申し上げているんです。お願いですから、休養はきちんと取って下さい。雑用は部下にやらせればいいんです。そのために例えば私がいるんですから」
「土橋君は雑用が好きなんだ?」
 またもや真顔で言う貴明に、土橋は溜息をついた。
「私は、社長のために働くのが好きなんです。社長と社長の思い描くプランを尊敬してます。あなたの望む事を現実にする事に、限りない喜びを感じています。ですが、つまらない事であなたに躓いて欲しくないんです。あなた以外の誰の下にも就きたくはありませんから。あなたという人を知ってしまったら、他のどんな上司も霞んで見えます」
「そんなに僕に惚れ込んでくれてるのかい? 知らなかったよ」
「茶化さないで下さい、社長。一体昨夜はいつ寝たんですか?」
「君の淹れる珈琲はおいしいね。同じ豆でも全然違うよ。淹れ方が違うのかな? ねえ、土橋君」
「社長」
 土橋は『騙されませんよ』という顔で貴明を軽く睨む。
「僕の方こそ、君がいないと仕事にならないよ。何より君の淹れるお茶や珈琲じゃないと受け付けなくなってるしね。君がいてくれると仕事がはかどるんだ。君が新婚旅行へ行かなくて本当助かったよ。秘書室の女性陣は皆有能だが、やはり君とは勝手が違うし、何よりお茶と珈琲がね」
「有り難うございます、社長。でも、休養はきちんと取って下さいね? あなたの代わりはいないんですから」
 にっこり笑う土橋に、貴明は溜息をついた。
「性格悪くなったんじゃない? 土橋君」
「そんな事はございませんよ。社長がご自分の健康について省みられれば宜しいだけですから」
「ここへ来たばかりの頃は、君も愛らしく初々しい青年だったのにね」
「何かおっしゃいましたか?」
 貴明は更に溜息をついた。
「君に自分の健康まで心配されるなんてね」
「社長がご自分の健康に無頓着過ぎるからですよ。あなたが健康に気を使って下さる方でしたら、私もこんな事は申し上げません」
「僕のせいだと?」
 土橋はにっこり笑みを返した。
「少なくとも私のせいではありません」
「……それでも、この件については他に任せられないんだよ」
「私がお願いしてもですか?」
 貴明は苦笑した。
「僕が犯した過ちだからね」
 驚いたように、土橋は目を見開いた。
「……社長?」
「若い頃の事の所業ってのは思い出したくないものだね。今だったらこうしたのに、なんて奴はただの戯言で愚痴でしかない」
「……珍しいですね? 社長がそういう事おっしゃるだなんて」
「年を取ったって事だろう。……厭な事にね」
 苦々しげに、貴明は笑った。
「気付かないフリして流して済ます訳に行かないらしくてね。……相手の考えてる事は判ってるつもりなんだよ。読めすぎるだけに質が悪いというか……」
「先が読めるのなら、先に手を打って置けば良いだけなのでは?」
 貴明は困ったように笑った。
「……本来はね。ただ……それじゃ終わらないんだよね」
「それは……一体……?」
「つまり、相手は親に構って欲しくて駄々をこねている子供なのさ」
「それは……一体……?」
「結果はこの際、あまり意味が無いんだ」
 貴明はそう言って笑った。
「……本当に、出来ることなら、無視してしまいたかったんだがね……」


 二〇〇五年、九月二十七日火曜日。

「まあぁ! 郁也君!! お久しぶりね!! やだ、どうしましょう! お寿司取らないと!! お夕飯まだでしょう?」
 そう言って、藤岡家の主婦は俺と昭彦を出迎えた。
「お久しぶりです。奈津子さん。すみません。急にお邪魔したりして。そんな気を遣わないで下さい。もし、何でしたら外で済ませて来ますし……」
「いーえ! うちで召し上がれ!! ……もう! 昭彦ったら!! 気の利かない子ね!! 郁也君が来るんなら来るって一言言いなさいよ!! 何のために携帯持たせてると思ってるの!? 彼女との電話も良いけど、家族への連絡にも使いなさいよ!! あんたそんな事じゃ将来出世しないわよ!!」
「たかがそれくらいで、将来まで悲観されたくないよ」
 昭彦はぼやいた。
「あんたは父さんと一緒で絶対出世しないクチよ!! せいぜい係長止まりね!」
 奈津子さんはきっぱり断言した。昭彦は返事の代わりに溜息をついた。
「取り敢えず、部屋へ行こうぜ? 郁也。……じゃあ寿司が来たら呼んで」
「ええっ!? 来たばかりなのに!? もう上に行っちゃうの!?」
「母さん。……郁也は疲れてるんだ。……事情はさっき電話しただろ?」
 昭彦の言葉に、奈津子さんは気の毒げな視線を俺に向けた。俺はどきりとした。
「じゃあ、後でお茶を持って行くわね」
 奈津子さんに一礼して、昭彦の後ろから藤岡邸に上がり、昭彦の部屋に入った。
「……昭彦」
「大丈夫。さわりしか話してないから。……警察からうちに連絡入っちゃったからさ。最低限の説明だけ」
「……ごめん」
 昭彦を、面倒事巻き込むのだけは、絶対に避けたかったのに。
「その辺座って」
 小学生の時から変わりない学習机。フローリングの床に直に置かれた折りたたみ式のちゃぶ台。無造作に置かれた座布団のカバーが以前来た時と変わってる。部屋の隅に窮屈そうに置かれたベッドの枕元に、中西聡美の写真が置かれてる。それから、昭彦の漫画ばっかりの本棚に、こっそり滝川守の写真集が増えていたりして。
 面倒な奴。いや、中西聡美の写真までは普通だけど。付き合ってる彼女の元彼の写真集なんかわざわざ買うなよって感じで。風景写真なんか興味ないくせに。
 俺は座布団の上に座り込んだ。
「落ち着いた?」
「……落ち着いてるよ」
 俺は苦笑した。お前のおかげだ、なんて言ってやんないけど。照れるし。今更だし。
「お前、さ。ひょっとして、判ってる? 俺の……好きなひと」
 昭彦は曖昧に笑った。
「……中原さん、かな?」
 その瞬間、力が抜けた。今まで隠してたのが全部無駄で。その上。
「気持ち悪いとか思わねぇの?」
 なんでこいつ、こんな平然とした顔で。
「え? ……俺?」
 不思議そうな顔をする。
「俺は別に。だって、郁也、俺の事そんな風に好きとかじゃないだろ?」
 昭彦を? ……冗談じゃない。
「郁也が幸せならいいんだ」
 俺が? ……幸せ?
「本当は俺がお前を幸せにしたかったけど」
 真顔で言うから、ぎょっとした。
「気持ち悪いこと言うなよ!」
 昭彦は苦笑した。
「うん。特に郁也をどうこうとかいう意味じゃなくて」
「当たり前だ!」
 そんなこと、想像したくもないぞ。俺は。
「郁也が心の底から力一杯気持ち良く全開で笑えたらいいなって、つまりそういうこと」
 ……こいつって。
「……そんな風に考えてたんだ?」
「眉間に皺寄せてるより、笑った方がいいよ。郁也は。絶対」
 昭彦はにっこり笑った。
「郁也が笑うと、本当俺、嬉しくなるから。俺だけじゃないよ。たぶんきっと皆そうだと思う」
 ……こいつって奴は。どうして。こんなに。
「お前、本当恥ずかしげない奴だな」
「俺は郁也のこと、好きだからね」
「そういう事を真顔で言うな」
「郁也、顔が赤い」
「お前が変な事言うからだ!」
 くすくすと昭彦は笑った。
「それで郁也、ちゃんと言えた? 伝えられたの? 自分の気持ち」
 カッと顔が熱くなった。
「……伝わってると……思う」
 そう信じたい。
「郁也の話、聞かせて」
 俺の、話。
「話せることだけでいいから。郁也が話したいことだけでいいから」
 話せること。……それが難しい。
「……なんで、判ったんだ?」
 言うと、昭彦は困った顔した。
「うーん……何て言うか……な」
「……何だよ?」
 厭な予感がした。
「良く目で会話してるなー、とかいうような事は思ってたんだ。実際。中原さんも郁也のこと、すごく想ってるの、傍目にも見えたし。うん、それがどうとかいう想像までは行かなかったんだけど、郁也との間に信頼関係みたいなものはあるな、とか思ってたんだ」
 ……目で会話って。それに『傍目にも』って。
「……いつから?」
「ん、たぶんええと七月くらいから何となく気になりだしたんだけど、ほら、郁也の様子とかも変わってきたし。中原さんの目も変わってきてたし」
「…………」
 中原の目が、変わった?
「いや、もっとも、俺はお前が入院したあの騒ぎの時まで、彼の名前すら知らなかったんだけど。話した時の感じとかさ、本当、俺が郁也の事情についてろくに知らないのが気の毒なくらい、必死で。だから俺、このひとすごくいいひとだなって思ったんだ。郁也のこと、きっとすごく好きなんだなって」
 あの頃の俺がそんな事知っても少しも嬉しくなかっただろう。でも、今の俺は……凄く嬉しいと思う。あの時の俺は、中原に冷酷だった。中原なんて大嫌いで。……なのに、あの時、中原は俺のために必死だったんだ。あいつを疎ましく思っていた俺のために。あいつは、どう思ってたんだろう? 当時の、俺のこと。
「……それで?」
 昭彦は言いにくそうな顔をした。
「……何だよ?」
「あのひと、本気で郁也のこと好きだよ」
 どきん、とした。
「ちょっと恐いくらい、郁也のこと必死で」
 ……それはたぶん、俺も知ってる。だけど。
「俺なんか郁也が無事じゃなかったら殺されかねない勢いだったから。郁也が無事で本当良かったよ」
「えっ!?」
 まさか。
「あいつ、お前に何か言ったのか!?」
「いや、違う。何か言われたとか、掴み掛かられたとか、殴られ掛けたとか、そういうんじゃなく、目が、目が恐くて」
 不意に、以前の中原のぎらぎらした目を、思い出した。最近、腑抜けのようにへらへら笑ってたからすっかり忘れてたけど。
「あ……ごめん」
 凶悪で獰猛な猛獣の瞳。どう見たって極悪鬼畜で。
「……いや、ちょっとびっくりしただけだし。それだけ郁也のこと必死なんだな、って思って。すごいな、って思ったし」
 昭彦は溜息をそっとついて、笑って言った。
「ごめん」
 そう。俺はあいつがどんなに質の悪い男か知っている。だから、俺は。
「郁也に謝られることないよ」
「ごめん。何かあったら言ってくれ」
 頼むから。
 あいつは一筋縄じゃいかない奴だから。だから、俺は油断できない。信用してないとかいう問題以前に。俺はあいつが好きだ。あいつのためになる事だったら何でもしてもいい。けど、俺は結局自分の不利益になるような事までは出来ないんだ。だけど、あいつは関係ない。自分の不利益だろうと他人の不利益だろうとお構いなしに行動する。俺は、それが恐い。
 昭彦は笑った。
「判った」
 何か楽になった。昭彦のバカみたいに無邪気で屈託無い笑顔見たら。本当、貴重だよなって思う。
「でもさ、お前、どうして気持ち悪がらないんだ?」
 普通、男同士、なんて気持ち悪いだけだろう?
「うーん」
 言いにくそうな顔をした。
「……郁也、怒らない?」
「何が?」
「怒らないって約束」
「……別にいいけど」
 何言い出すんだ?
「うん……郁也、見てたら何となく判るような気がするから」
「は?」
 意味不明。
「郁也、時折色っぽいし。気持ち判るような気がするから」
「なっ……なんだと!?」
 そんなの!! 初耳だぞ!! 昭彦がそんな風に俺を見てただなんて!!
「だから怒るなって!!」
「怒らずにいられるか!! じゃあ何か!? お前、今までずっとそういう目で俺を……っ!!」
「だからっ!! 気持ちが判るってだけで、俺はそうならないから!!」
「……何で?」
 じろりと見た。
「郁也のこと好きだけど、郁也を恋人にだなんて想像は、俺にはまるで出来ないから」
 それは……俺も同様だけど。
「俺はお前を色っぽいだなんて思わないぜ」
「ていうか俺は色気のあるタイプじゃないじゃん。それに時折だって。……中身知ってても、騙されそうになるんだ」
「……どういう意味だよ?」
「郁也、キレイなんだよ」
「は?」
「男だとか女だとか、そういうの全然関係なしに郁也、キレイに見える時があるんだよ。普段は普通の男子高生だけどさ」
 普通の男子高生。
「あ、勿論かっこいいよ。それだけは間違いないから。安心して」
 安心って。
「俺、お前が女の子にもてるの、判る気がするし。不器用で無愛想だけど、何だかんだ言ってお前、優しいしさ」
「……にしては、振られてばっかりいるぞ」
「だって郁也、不器用だもん」
「お前に言われたくないぞ、俺は」
「郁也、普段器用で頭良いのに、恋愛関係とか人間関係とか全然逆だもん。俺、見ていてハラハラする。だから、郁也が幸せになれればいいなって、幸せにしたいなって俺は思ってたから」
「…………」
 こいつって。
「郁也、幸せ?」
 大きな目で、俺を見て。
「たぶん」
 たぶん。今の状態がそうと呼べるのなら。
「たぶん、とかじゃなくてさ。きっぱりそうだって言えるくらい幸せにならなきゃ駄目だよ、郁也。何か迷ってる?」
 迷い。……疑惑。
「俺は……」
 お前じゃないから。
「俺は、お前みたいに真っ直ぐに生きられないから」
 昭彦は笑った。困ったように。
「俺は真っ直ぐなんかじゃないよ。全然違う。それ言ったら郁也の方がよっぽど」
「え?」
「郁也の方がずっと真っ直ぐだよ」
 嘘だ。
「そんな……だって俺は」
「うん。郁也はひねくれ者で素直じゃなくて、わがままで乱暴でキツイけど、でも誰よりも正直に生きようとしてるだろ? 嘘はつくけど」
「……意味が、よく判らない」
「自分に正直に生きようとしてるだろ? 俺、郁也のそういうとこ、尊敬してるけど」
「……そ」
 尊敬!?
「でも、郁也は同時にものすごく不正直だけどね」
 お前、褒めてるのか貶してるのかどっちだ。
「郁也、恐がってるんだよ」
「昭彦」
「大丈夫。恐くないから」

 中原の腕が無いのが淋しい。そう思って、赤面した。……慣らされてる。あいつが知ったら恥ずかしげもなく喜びそうで、それがまた厭だ。久しぶりに寝る昭彦の部屋は、以前とは違っていた。……居心地の好さは変わらない筈なのに。
 何となく淋しかった。隣で眠る昭彦の寝顔を見ながら、俺はそっと起き上がった。……眠れない。
 窓辺へと近付いた。カーテンをそっと開ける。雲が出ていて、空がどんよりしている。星が見えない。明日は降るかも。家の外に、人影を見つけた。スーツ姿の男。
 ……何? 目をじっと凝らした。街灯の傍、こちらを見上げている男が一人いる。時計を確認した。……一時四十二分。見るからに怪しい、と俺は思った。更に目を走らすと、400m程向こうに、セダンが一台停まっていた。排気ガスは出てない。慌てて他にも視線走らせる。電柱の陰に一人。庭先に一人。……ヤバイ。
 全身の毛が、総毛立った。このままじゃ昭彦を、藤岡家の人達を巻き添えにしてしまう。……そうならないためには。
 慌てて服を着る。荷物は……置いて行こう。どうせ役に立つような物は無い。邪魔になるだけだ。携帯を取り出し、電源が入っているのを確かめる。そのまま胸ポケットに放り込んで、駆け出した。
 玄関に向かい、靴を履き、外に出る。走りながら、自分宛にメールを打つ。送信。
 電子音が鳴り響いた。これで、気付かないとか言うなよ。思いながら、全力で走る。
「いくっ……!! 郁也様っ!!」
 背後から、聞き慣れた声。
「……野木?」
 立ち止まる。スーツ姿の野木が立っている。……ひょっとして、街灯の下に立っていたのは。
「……お前、だったのか?」
「そうです」
 ……街灯の下なんかに立つなよな。目立つんだよ。お前。
「他も?」
 追い掛けてきたスーツ連を見回す。
「はい」
 溜息ついた。
「俺の……警護?」
「そうです。貴明様が、強化するようにと」
 その時、近付いて来たスーツ連のうちの一人が、俺につかつかと歩み寄って来た。反射的に、俺は避けた。
 きらりと光るもの。ナイフ。その途端、野木の手刀がその男の手首に入った。続けざまに蹴りが腹部に入る。あっという間だった。
「……すみません」
 恐縮そうに野木が言った。
「その男の身元は?」
「今、確認します」
 溜息をついた。
「……家に戻る」
 昭彦を巻き込む不安よりはずっと。
「了解しました」
 残りの連中がナイフを持っていた男を後ろ手に縛ったり、応援呼んだりしている。
「もう大丈夫です。安心なさって下さい」
 野木は笑った。
 不安。……なんとなく、厭な予感がしていた。

To be continued...
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