NOVEL

週末は命懸け8「傷」 -6-

「郁也」
 病院の待合室。エレベーターの前。昭彦が一人、座っていた。
「……昭彦……」
 昭彦が、真っ直ぐな瞳で俺を見る。思わず、目を逸らしてしまった。まともに見られなくて。
「……あのひと、具合悪いの?」
 どきり、とした。
「ほら、あの髪の長い背の高い人。中原さん」
 俺は首を振った。
「大丈夫。大した事ない」
 声が、掠れて上擦った。頬が熱くなる。……昭彦に変に思われる。必死で平静を保とうとして。
「郁也」
 そう言って、昭彦はぽん、と俺の肩を叩いた。
「力になるから」
「……え?」
 昭彦はにっこり笑った。
「俺がやれることなら何だってさ。弱音とか愚痴とか言いたかったら、幾らでも聞くよ? 郁也」
「……昭彦」
「言いたいこと、あるんじゃない?」
 ……ひょっとして、バレてるんじゃないだろうか?
 全身、熱に覆われる。耳まで熱い。
「……昭彦……っ」
「俺じゃ解決できなくてもさ、口に出すだけでも違うから」
 ……どうしよう。俺。……嬉しい。
 返事の代わりに、昭彦の肩に触れた。そのまま寄り掛かって、肩先に額付けて。
「……今日、泊まっていいか?」
「いいよ。うち、うるさいかも知れないけど」
 俺は苦笑した。
「お前の家、居心地いいからさ」
 すごく、居心地良くて。……羨ましくて。
「熟睡出来るんだ」
 昭彦は複雑な表情をした。どういう顔をしたらいいか判らない、といった風に。
「……何それ?」
 俺は笑った。
「メシはうまいしね」
「そうかぁ? そんなでもないだろ?」
 そう言って、昭彦は首をかしげた。
「贅沢なんだよ、お前」
「お前にだけは言われたくないよ、俺」
 だってお前は俺の欲しいもの、欲しかったもの、全部持ってるじゃないか。それに何より、俺はお前になれない。なろうとも思わないけど。
 昭彦は笑った。
「郁也。お前知ってる?」
「え?」
 どきり、とした。一体何を?
「お前今、すごく泣きそうな、でも笑ってるみたいな、変な顔してる」
「!?」
 嘘!!
「泣くんなら泣けばいいし、笑うんなら笑えばいいんだよ。無理するから泣くのも笑うもうまくいかないんだ。そういう訳だから、少しは俺を頼れよ」
 そう言って、昭彦はぽん、と俺の頭を叩いて、胸元に引き寄せた。俺は顔を昭彦の胸に押し付けて──泣いた。声を押し殺して。
「……郁也、無理しすぎ」
 昭彦がゆっくりと後頭部を撫でた。……どうしてだろう? こいつ、人の頭撫でるの得意なのかな? ……気持ち良い。
 温かくて。
「そんなんじゃいつか壊れちゃうぞ」
 どきり、とした。心臓が跳ね上がって。
「……昭彦」
 顔を上げた。昭彦は困った顔をした。
「大丈夫。今じゃないから」
 昭彦、お前、その根拠って何?
「大丈夫。恐くない。安心して」
 俺を、子供だと思ってる? 昭彦。……俺を一体何だと思ってるんだよ。
「時折発散させちゃえばいいんだよ」
 そう言って、昭彦は俺の涙を拭った。
「時折こんな風に泣いたりすればいいんだ」
 泣けば、いい? ……泣いても、何も解決なんかしないのに?
「泣きたいのに泣かないのは、つらいだろう? 郁也」
 どうして。……どうしてだろう。昭彦の言葉で、また涙が溢れてきて。……止まらない。
「もっと泣けばいいんだよ」
 泣くのは情けないのに。泣くのは弱さなのに。泣いてる暇なんてない。弱味を見せたらつけ入られる。
「……俺は……」
「うん」
「……俺はお前みたいに考えられないよ」
「大丈夫」
 何の根拠もなく、昭彦は言う。
「俺はお前みたいに生きられないよ」
 とても。そんなふうには。だって、環境があまりにも違う。違いすぎる。だって俺の周りは、人を人とも思わぬ鬼畜野郎ばっかりで。
「大丈夫だよ、郁也」
 どうして何も根拠がないのに、そんなに自信持って言えるんだ?
「だから、人は補えるんだろう?」
 お前の言葉は、時折耳に優しくて。温かくて。ふわりと心に溶けるように、気持ち良くて。
「少しは信頼しろよ」
 泣きたくなる。
 ひどく、泣きたくなる。どうして俺はこんなふうになれなかったんだろう? どうして俺はこんなふうに生きられなかったんだろう? どうして俺はこんなふうに生まれてこなかったんだろう?
 それでも。
「俺は、俺だからさ」
 涙を拭った。
「俺以外の何者にもなれやしないよ」
 昭彦は苦笑した。
「……元気になった?」
 まあな。……俺は俺以外の何者でも無い。誰かになりたいだとか、成り代わろうだろうなんて考え方は、俺らしくない。大体俺自身が、そんな事を望まない。昭彦はいい奴だ。だけど俺は昭彦になろうとは思わない。なりたいという気持ちはあるけど、それは幻想の上での話。現実には、なりたくない。俺が昭彦でこの身上なら、とっくに俺はのたれ死んでる。そんなのは厭だ。そんなのは絶対ごめんだ。冗談じゃない。
「それにしてもさ、昭彦。お前のその自信って何?」
 昭彦は肩をすくめた。
「自信じゃないよ。そう思うだけ」
 ……こいつって本当訳判らない。たぶん、判るようで一生判らない気がする。こいつの考えてることって。
「行こうぜ」
 言うと、昭彦は笑った。
「チャリ?」
「そう。後ろ、乗ってく?」
「当然だろ」
「……復活だな」
 昭彦は複雑そうな表情で言った。
「何が?」
 昭彦は苦笑した。
「俺、郁也のこと、好きだよ」
 不意打ち食らって、くらりときた。額押さえて椅子に座り込む。
「え? 何?」
「……お前」
「え?」
「……すっげぇ恥ずかしい」
 昭彦はきょとんとした。
「そう?」
 そう?じゃねぇだろ。
「そういう事、すらりと真顔で言うな。バカ」
「真顔じゃなきゃいいの?」
 昭彦はにこり、と笑った。
「郁也のこと好きだよ。すごく」
 こ……の……男……は。
「お前の友達でいれて本当良かった!って思うし」
 なんで……こんな天然なんだ。がっくりと力抜ける。
「好きなひとの事は好きだって言うよ? 俺は。おかしい?」
 そういう……問題じゃねぇだろ。
「おホモだちだと思われたらどうすんだ。お前、迂闊すぎ」
 ていうか恥ずかしいんだよ!
「郁也のこと、好きなのに好きだって言ったらいけない訳?」
 子供のように純粋な、大きな目で、俺のこと覗き込んでくるし。
「だからそう……連発するなって。お前……ホモだと思われるぞ?」
「郁也のこと好きだとホモな訳?」
 不思議そうに、俺を見る。……やめろ。純粋培養。
「それとも、好きなひとに憚って言ってる?」
「……え……?」
 俺は思わず、呆然とした。昭彦は急に真顔になった。
「だったら悪いとか思うけど」
「……昭彦?」
 急に、知らない奴みたいな。
「実は初恋は郁也だった、とか言ったらどうする?」
「は!?」
 なっ……なんだと!?
「う・そ」
 ぺろり、と昭彦は舌を出した。
「なっ……嘘だと!?」
 お前!! 一体何を考えてるんだか!!
「お前俺のことおちょくってんのか!?」
 昭彦は笑った。
「ま、頑張れよ。お前の好きなひとと。俺はいつでも愚痴でもノロケでも何でも聞いてやるから」
「あのな!! 昭彦!!」
「……俺は、郁也が話したくなるまで待ってるから。ちゃんと、話してくれるんだろ?」
 大きな瞳でじっと見つめられて。
「……昭彦……」
「中原さん、早く良くなるといいね、郁也」
 どきん、とした。思わずカッと顔が熱くなった。
「あ……きひこ……?」
 もしや、知って……?
 昭彦は笑った。
「最初、恐いひとかと思ったんだけど」
 心臓がどくどく言ってる。
「あのひと、本当は優しいひとだよね?」
「……昭彦……」
「郁也。好きなひとにちゃんと好きって言えた?」
 顔が熱くなる。
「あ……まあ」
 どきどきする。
「ならいいんだ。でも気持ちは見えないから」
 昭彦は笑った。
「心は見えないから、表現しないと伝わらない。伝えようとしなければ何も伝わらないから。理解しようとしないと理解できないから。郁也の気持ち、伝わってるといいね」
 こいつ……本当、知ってるんだろうか? だとしたら。
「……昭彦。気持ち悪いとか思わないか?」
「何を?」
 昭彦はきょとんとした顔で俺を見た。
「……何をって……」
 俺の、早とちり?
「ひとがひとを好きになることに、気持ち悪いも何もないだろ?」
 どくん、と心臓が跳ね上がった。
「あ、あき……っ!!」
「俺さ、中西と付き合い始めただろ?」
 俺は、混乱してる。
「郁也のおかげだから」
 ……は?
「郁也のおかげで、中西のこと判る気がするから」
「……はぁ?」
「俺、郁也と出会えて本当良かったと思うよ。郁也と出会えなかったら、本当判らないことばっかりだったし。何より郁也と一緒にいて気持ちいいのが一番良い。郁也と中西に共通してるのはさ」
 俺と中西聡美?
「他者への拒絶、だよ」
「……昭彦」
「根強い不信感」
 心臓に、冷たい杭を打たれたみたいに。……冷えた。
「自分の中で完結してるんだ。だから、他者はいらない。だけど、人間は本当はそんなふうには生きられないんだ。だから綻びが生じる。本当は、郁也も中西も、誰かを信じたいんだ。決して自分を裏切ることのない何かを信じたいんだ。でも、恐くて他人は信用できないから、自分の中で何か絶対的に信用できるものを生み出して、それに固執しようとしてる」
「……昭彦」
「郁也、否定できる?」
 俺の中で、何か絶対的に信用できるもの。
「……聞きたくない」
 そんなものは、聞きたくない。そんな事は聞きたくない。
「本当は寂しがり屋なんだよ。人に触れられたいと思ってる。だけど恐いんだ。裏切られると思ってる。裏切られるくらいなら、相手を信用しないで自分の身を守った方が良いと思ってる」
「やめろ」
 そんなこと。
「……傷付くんだよ、郁也」
 ……え?
「傷付けられるんだよ、郁也。だから、恐いだろうけど、心のガード外して相手の懐に飛び込んでみなよ? 傷付く事を恐がってたら、一生怯えたまま生きなくちゃならなくなるから。傷付けられるのは恐くない。傷付くことは恐くない。問題はそういうことじゃなくて、その後だから」
「……どういう……意味、だ? それ……」
「欲しいものがあるなら、飛び込んでみるのもいいって事。ほら、コケツに入らずんば、コリを得ずって言うだろ?」
 ぶっと吹き出した。笑い転げた。
「それを言うなら『虎穴に入らずんば虎児を得ず』だろ。バッカじゃねぇの? お前」
 昭彦は真っ赤な顔になった。
「うるさいなあ、もう。ちょっと間違えただけじゃないか」
「ちょっと、ねぇ? 意味判ってない言葉使おうとするからだろ?」
「意味判ってるから使おうとしたんじゃないか!!」
「聞きかじりの慣れない言葉使おうとするからだろ」
 昭彦はむうっとした顔をした。
「郁也、笑い上戸」
 うん、でも。……一応お前なりに心配して言ってくれたんだよな? それはたぶん、判ってる。
「好きなひとの懐に飛び込んでみな、って?」
 そのひとが本当に欲しいのなら。
「めげそうになるからね。ことごとく空振りに終わると」
「……それはお前の愚痴?」
 昭彦はくしゃりと笑った。
「たぶん」
「愚痴なら聞いてやるぞ。ノロケはパスだが」
 言うと、昭彦は苦笑した。
「愚痴言ってもノロケとか言うじゃないか」
「お前、愚痴とノロケの区別付いてないだけじゃないのか?」
「……それはともかく」
 外は真っ暗だった。
「自転車は?」
「そこ」
 玄関の真ん前に停めてある。
「こんなとこ置いて。盗まれても知らないぞ?」
「急いでたんだ」
 昭彦は言った。
「郁也がきっと不安だろうと思ったから」
 どきん、とした。
「……昭彦……」
「行こうか?」
 俺は、頷いた。


〜エピローグ〜

「ところで君に姉なんかいたか?」
 男が尋ねた。
 問われた男は静かに笑った。
「私は天涯孤独ですよ。生まれた時から」
「……だろうと思った。半分くらいは事実だろうが」
「詐欺師は嘘をつく時、半ば以上真実を混ぜるんですよ。じゃないとどんな嘘をついたか忘れるし、信憑性にも欠けますから」
「詐欺は得意?」
「あなたのおかげで」
「それで首尾は?」
「……ようやく『御仁』が重い腰を上げましたよ。あの人をやる気にさせるのは骨が入ります」
「それで? 結果は?」
「下の方の組織が幾つか、圧力を掛けられたようです。向こうは相手が誰か、判ってるようですよ? タイミング的に」
「やはり、ウィークポイントは『ボディーガード』だったか」
「更に向こうを動揺させますか?」
「それこそあちらは手ぐすね引いて待っているだろう。君は暫く茂みに隠れていた方がいい。相手に尻尾を掴ませないように。今だって尾行を振り切って来たんだろう?」
「一度、『外』に出た方が宜しいですか?」
「そうだな。……『彼』と連絡を取ってくれ」
「……宜しいんですか?」
「ああ。『彼』の反応も聞いてみたい。どういう顔をするか」
「了解しました」
「『御仁』の網に引っ掛かるなよ?」
「そこまでドジではないつもりですよ。あなたも……お気を付けて」
「大丈夫だ。心配いらない」
 楠木成明は笑った。
「失礼します」
 男はそれを見送った。
「……貴明……お前だけは絶対に許さない……」

The End.
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