NOVEL

週末は命懸け7「追憶」 -1-

〜プロローグ〜

「……報われないよね?」
 HISAMOTOコーポレーション社長、久本貴明[ひさもとたかあき]は秀麗な眉間に皺を寄せ、溜息つくようにそう言った。
「『報われない』とかそういう問題じゃないでしょう」
 きっぱりと土橋宏輝[どばしひろき]は断言した。
「僕程一生懸命に生きてる人間もなかなかいないのに、どうして僕ばかりがこういう目に遭うんだろうね? 理不尽だよ」
「……貴明様?」
 軽く睨むように土橋は貴明の目を見た。貴明は軽く肩をすくめてみせる。しかし土橋は真剣な表情を崩さない。
「……手術直後の人間が歩き回れば傷が開くのも道理です。傷が開けば退院も遅れるのはごく当然の事。……ご心配なさらずとも、貴明様より不幸な人間がここにいます」
「へえ? 僕より不幸な人がいるの?」
 土橋は深い溜息をついた。
「……ええ、その通りです。……私はあなたを『監視』する為に、この病室で寝泊まりする羽目になりました」
「それはどう考えても『不幸』なのは僕であって、君では無いと思うけど?」
 不思議そうな顔で言う貴明に、土橋は再度溜息をついた。
「……私は今月『結婚予定』なんです」
「知ってるよ」
 平然とした貴明に、土橋はゆっくりと首を振った。
「……結婚前の花婿が忙しい事くらい、貴明様もご存じでしょう?」
「僕だって十二分に忙しいけれどね」
 貴明は魅力的な笑顔で微笑した。その笑顔に、一瞬つられて口元を緩めそうになった土橋は、キッと下唇を噛んで引き締める。
「……病気の時くらい、お体を労って下さい。貴明様」
「病人扱いされると、気分が滅入るよ。土橋君」
 困ったように笑って言う貴明に、土橋は生真面目な顔で言った。
「『病人』は『病人』ですよ。……『完全快復』するまでは『病人』扱いさせて頂きます。それがお厭でしたら、早く『健康』になって下さい。私も早くあなたに回復して頂きたいと思っておりますので」
 すると貴明は溜息をついた。
「じゃあ、その『病人』の為においしいお茶を淹れてくれないかな?」
「判りました。……少々お待ち下さい」
 そう言って、笑って備え付けのキッチンへと向かう土橋の背中を見送って、貴明は小声で呟いた。
「……融通が利かないのが、土橋君の最大の欠点だよね?」
 傍らに直立不動で控えていた笹原は、無言で目だけをそっと細めた。


 二〇〇五年、九月十四日水曜日。

 この世で絶対に、存在を許せない奴がいる。何が何でも殺したいと思う男が。滅茶苦茶憎くて、殺しても殺しても殺しても殺し足りない。俺の夢の中で、山のようにその死体は積み上がっていく。毎夜増えていくその死体は、俺をいつも嘲笑う。
『そんな風に僕を殺しても、僕は絶対死なないよ?』
 ──うるさい!! そんなのはとうに判ってる!!
 俺は叫び返して持っていたスコップで死体の頭を叩き潰した。死体は、ぐしゃりと西瓜のように割れて、鮮やかすぎる紅い液体を流し嗤う。
『本当に、こんな事で僕を殺せると思ってるのかい?』
 ──うるさい!! うるさい!! うるさいんだよ!! てめぇは!!
 両耳を塞いで、ずきずきと痛む頭を抱えて、俺はうずくまる。死体の山から、どんどん『奴』が起き上がり、しゃがみ込んだ俺の周りを取り囲んで行く。
『君はそんなに』
『そんなにも僕を』
『君の実の父を』
『殺したい』
『殺したいと思っているのかい?』
『何故?』
『どうして?』
『何の為に?』
『どうやって?』
『どんな風に?』
『そんなにも』
『そんなにも?』
『君は』
『僕を?』
 うるさい!! うるさいよ!! お前ら!! お前らなんか皆幻覚だ!! 判ってるんだ!! さっさと立ち去れ!! 俺は、お前らなんかに負けたりしない!! 俺はっ……俺は絶対に……!!

 ──お前を、『久本貴明』を、殺す。

 誰も、そんな事を望まなくても。この世で、俺、久本郁也[ひさもといくや]唯一人だけは絶対に。バカな事で良い。考え無しでいい。そんなものはクソ食らえだ。そんな事は判ってる。誰のためでも、何のためでも無く、俺自身のために。
 ──『久本貴明』を、殺す。
 そのために、俺は今、この瞬間、生きているから。

 終礼のベルが鳴った。
 間近の気配に顔を上げると、にやにやと笑う昭彦の顔があった。
「どうした? 居眠り? 珍しいじゃん?」
 ……嬉しそうに。鬼の首でも取ったみたいに。
「……まあな」
 言って、立ち上がる。
「……『まあな』って何だよ? 『まあな』って!! 気になるだろ!! 教えろよ!! なあ!!」
 ……呆れた。
「……お前、俺の女房? 小姑? 恋人かよ? ……俺だって人間だ。居眠りくらいする」
「……うなされてたじゃん?」
「それくらい普通だ。……それよりお前、『中西』とどうなってんだよ? え? ……キスくらいもう済ませてんだろ? な」
「ばっ……ばばばバカ言うなよ!! だっ……だぁもう!! そんなのっ……郁也に全然関係無いだろ!? 何でそういう事ばっか言うんだよ!! お前!!」
 ……声が裏返ってる。って『まだ』なのか? 昭彦。お前付き合い始めて三週間以上は経ってる筈だろ? その前にあんなに足踏み期間あって……本当なら思い切り盛り上がってて『二人の世界』入ってても良いんじゃないか? と言うかそりゃもうすっかり『二人の世界』状態で暑苦しくて見てらんないって感じだけど──お前それ、あまりにも奥手すぎないか? なあ?
「………………」
「うっ……うるさいなぁ!! もう!! お前と一緒にすんなよっ!!」
「……まだ何も言ってないぜ? ……て言うか呆れて物も言えねぇけど」
「うるさいってば!! 良いじゃないか!! 人の事は!! つーか気にするなよ!! 良いんだよ、そんなのは!! 別に俺はそういうんで付き合ってるんじゃないんだからっっ!!」
「……じゃあお前、何のために付き合ってんの?」
 至極不思議で尋ねたら、昭彦はぶすくれた顔でぼそぼそと、
「……良いんだよ。俺は……急ぎたくないんだよ。ちゃんと確かめながらいきたいんだ。……そりゃ興味ないって言ったら嘘になるけど……俺は無理はしたくないんだ。急いで壊したくないんだよ。自信ない、とか好きじゃない、とかそういうんじゃなくて……だから俺は……っ!!」
「……他に取られても知らねーぞ? つーか、童貞だから先へ進むの恐い?」
 言ったら、昭彦はカッと顔を真っ赤に染めた。
「あのなぁっ!! 郁也!! どうしてお前はそう茶化すんだっ!!」
 マジに怒鳴られて、俺はちょっと驚いた。
「……俺は大切にしたいだけなんだよ。大事にしたいだけなんだ」
 切実な苦しげなものが、押さえた声の中に潜んでいて。俺は思わず呆然と昭彦を見た。昭彦の瞳が潤んでるように見えた。
「……ごめん」
 俺は頭を下げた。
「悪かった。……言いすぎた」
 深々と頭を下げた。
「……良いよ。……もう」
  の声が、ひどく遠く聞こえて。慌てて顔上げて昭彦の腕を掴んだ。
「昭彦……!!」
 昭彦は苦笑した。
「……大丈夫だよ」
 困ったように笑って。
「……たぶん、大丈夫。中西は……いや、俺、中西にさ、ちゃんと楽しんで欲しいと思ってるんだ。何か変な言い方かな? つまり、恋愛初期のええとトキメキって言うか、ああ何か違うな、ドキドキ……それも何か違う……ううん、上手く言えないんだけど、つまり言葉にならない曖昧でぼんやりしたふわふわした感じ、をさ……つまり恋人になりそうでならなさそうで、でも友達以上な感じの気持ちよさって奴を……いや実際恋人として付き合ってはいるんだけど……」
「訳判らないぞ? 言語。支離滅裂。日本語崩壊してるぞ、昭彦」
 昭彦は真っ赤になって頭を掻いた。
「……ああ、もう! 判ってるんだって!! 何となくニュアンスで判ってくれよ!!」
「悪いけど、判んねーよ、俺」
「いっ……郁也ぁ!?」
 昭彦は情けない声を上げた。
「俺、悪いけどお前のこだわりさっぱり判らねーよ。でも、お前らしいとは思うし、そうしたいならそうすりゃ良いだろ。て言うか、鈍なお前が意外に手が早かったら早かったで、俺はいらん心配しそうだし。まあとにかくお前が好きでやってるんなら、俺に文句言う筋合い無いし。……まあ、手の出し方で困ってるようだったら、助言又は愚痴くらいは聞いてやるぜ。……て助言になるかは不明だけど」
「大丈夫。たぶん、郁也にだけは聞かない」
「……何ソレ?」
 聞くと、昭彦はにやりと笑った。
「どうせ俺には出来ないようなとんでもない事言われるしね」
「……お前、俺をそういう風な目で見てんの?」
 憮然として言うと、昭彦は苦笑した。
「いや、たぶん俺と郁也の考え方、たぶん全然違うから。あんまり参考にはならない。と思う」
「あっそ。つまり、俺の助言は要らないって訳?」
「そうは言ってないよ。……郁也の言う事、時折目から鱗だし。助かってる部分もあるし。でも、やっぱり何をどうするかってのは俺自分で決めるし、だから意見は聞くけどあんまり参考にはならないだろうなって」
「参考にはしないけど、意見は聞くって?」
 何それ。何かムカつく。
「いや参考にはするよ。参考にはするけど、ただそれだけ。だって俺が郁也の言う通りに行動したら、郁也どうする?」
「どうするって……」
 俺の言う通りにテキパキ行動する昭彦……?
 ……何となくイヤだ。昭彦は鈍ガメだから昭彦って気がする。
「……変だろ?」
「……つまり、自分が鈍ガメって自覚ある訳?」
「鈍ガメぇ!? って郁也、お前俺をそういう風に思ってた訳!?」
「じゃ、堅実と言い換えるか? かなり嘘臭いけど」
「……もういい」
 がっくりした顔で、昭彦は言った。
「まあ、そう、むくれるなよ? 何か奢るぜ?」
 昭彦は目を丸くした。
「珍しい……。郁也が俺に何か奢るだなんて」
 びっくりしたような口調で。
「おい?」
「……今日、天気予報雨だっけ? 俺、傘持って来てないな。マズイよ、降ってきたら」
「……お前、俺に喧嘩売ってるのか?」
「あ!!ああ、いや!! そういうんじゃなくて!!」
「そういうんじゃなかったら、どういうんだよ? と言うか今のは絶対喧嘩売ってたよな? て言うか喧嘩売りたかったんだよな?」
「いや、そうじゃなくて!! 正直な心の呟き!! ああっ!! じゃなくて……っ!!」
「……判った。二度と昭彦には奢らない」
「いや!! 嬉しいよ!! 郁也!! 有り難いって!! 本当!!」
「……わざとらしいよな?」
「て言うか郁也、金持ちのくせにすぐ俺にたかるじゃないか!! 自分で払う事もあるけど、奢りなんて一度も無かっただろ!!」
「つーか、うちでメシ食わせたりとかあるだろ?」
「あるけど……外でないじゃないか。郁也、意外にケチだろ。女の子にはともかく」
「ああ、そうですか。どうせ俺はケチですよ」
「ああもう!! むくれるなよ!! 本当の事だろ!! て言うか気持ちは有り難いから奢ってくれるってんなら奢って貰うから!!」
「……迷惑なんじゃねぇの?」
「んな事あるかよ!! って言うか、誕生日プレゼントも一度も貰った事ないのに、何でもない日に奢るなんて言うの郁也どうしたのかなって事は思わないじゃないけど、奢ってくれるって言うなら素直に奢られるよ!! だって俺嬉しいもん!!」
 ……引っ掛かる言葉がいっぱいあるよな。なぁ? 昭彦?
「だって郁也の『気持ち』だろ?」
 ……恥ずかしい事を、恥ずかしげも無く言う奴。……臆面無さ過ぎて恥ずかしいよ、お前……。
「……中西は良い訳?」
「彼女は今日バイトだから。その点はお気遣いなく」
「んで? お前部活あるの?」
「あるよ。……て言うかもしかして校内じゃないの?」
「校内? お前、ジュースとかパンとかそういうもんで済ますつもりだった? つーか、俺が金出すんだったら、そういうつまんないシチュエイションは無いだろ? ……たまには外で奢ってやるよ。お前が普段食べ慣れないような奴を」
「えっ!? 良いの!?」
 びっくりしたように、昭彦は俺を見た。
「……そういうの、たまには良いだろ?」
「嬉しいけど……どうしたの? 郁也。何かあった?」
「別に? 何か無いといけないか?」
「いや……そういうんじゃないけど。……でも、お前何か変わった? いや、最近……夏休み前後くらいからそう思ってはいたけど……」
「俺は変わらないよ」
 何も変わってない。……変われずにいる。
「……けど……」
「……変わってないよ」
 俺は相変わらず、何も持たない、力の無いガキで。粋がって強がって抗ってみせても、結局は『久本貴明』という男の手の平で踊らされてるだけの三文役者で。俺のした事の意味、なんて奴は何処にも無い。それどころか、結局俺は何もしてないのと殆ど変わりなくて。澱んだ気持ちだけが、停滞してる。
 俺は全く変われていない。俺は何も為し得ていない。俺には何も出来ない。無力でバカで翻弄されるだけの子供で。
 力が欲しい。……誰にも負けない力が。望む事を叶えられる力が欲しい。叶える為の力が欲しい。……切実に。
「……郁也……?」
 不安そうな声で、昭彦が。
「……何でもない。じゃあ俺、図書館で時間潰すから。早く終わったら来てくれ。……いつも通りなら八時、だろ?」
「そう。悪いな、郁也。居残り命じられないよう頑張るから」
「別に? じゃあ、また後でな。昭彦」
「うん、判った。じゃあ」
 昭彦はスポーツバッグ持って教室出て行った。俺はそれを見送ってから、小さく溜息をついた。プルプルプル、と胸元で携帯が振動した。俺は教室外へ出ながら電話を取った。……相手は、判ってる。
「……はい?」
〔俺です〕
 中原。
「……何?」
 素っ気なく尋ねた。……どうせ、言われそうな事は判ってるけど。
〔今日は何時に帰りますか?〕
「悪い。今日は昭彦と約束あるから遅くなる。……ひょっとしたら泊まるかも」
 向こう側で、一瞬相手が息を呑む気配が聞こえた。それから中原は、ゆっくりと息を吐き出し、溜息をついた。
〔……何、怒ってるんですか?〕
 訳が判らない、という声で。
〔この前からずっと、変ですよ? ……俺を、避けてませんか?〕
「……お前の気のせいだろ?」
〔そうですか? そうは思いませんけど? ……そりゃ誘えばセックスはしますけど、昨夜だってキスしようとしたら、あなた露骨に避けたでしょう?〕
「……そういう気分じゃ無かったんだ」
〔……『そういう気分じゃ無い』? へぇ? じゃあ、一昨日の晩は? 疲れたとか言って部屋に入れてくれなかったでしょう? でも明け方まで電気が点いてました。知らないとでも思ってるんですか?〕
「お前ストーカーか!?」
 思わず声を荒げてしまって、知らない奴に振り向かれた。小さく舌打ちして、慌てて走った。取り敢えず渡り廊下を通って、特別教室のある棟へと移動した。人気の無さそうな廊下で、壁にもたれて座り込む。
「お前、かなりしつこいぞ?」
〔……そう言えば俺が引っ込むとでも思ってます? 俺はおっしゃる通りしつこい男ですよ。ご存じでしょう?〕
「開き直るなよ」
〔何か気に食わない事があるなら、言って下さい〕
「別に。……明日は付き合ってやるから」
〔……狡いですよ、あなた〕
「……何が?」
〔……俺が、あなたを好きなのを知ってて、俺を振り回して。そんなに楽しいですか? 悪趣味ですよ、あなたは〕
「そんなんじゃねぇよ」
〔……だったら何です? 理由くらい言って下さい。……俺は……嫉妬と混乱で頭の中ぐちゃぐちゃです〕
 ……『嫉妬』。
 自嘲の笑みが思わず浮かんだ。
「……お前、本気で俺の事好きか?」
〔えっ……!?〕
 驚いたような、声。虚を突かれた、みたいな。
「本気で俺の事好きだなんて思ってるのかよ?」
〔なっ……今更……っ!! どうして今更!! 俺があなたを好きなのなんて判ってるでしょう!? まさか判らないなんて言わないでしょうね!!〕
「……口先だけでなら何とでも言えるけどな?」
〔何っ……!!〕
 悲鳴のように、低く喘いで。その声を何処か遠く聞きながら。
「別にお前が誰の事好きだって別に構わないぜ? そんなのはどうだって良いから。どっちだって良いし」
〔どうしてそんな事言うんですか!!〕
「……じゃあ、証拠あるのかよ?」
〔……証拠って……!!〕
「あるなら聞いてやっても良いぜ?」
〔……郁也様……あなた……?〕
「じゃあな」
 通話をオフした。ついでに電源もオフ。
「……みっともねぇ……俺……」
 溜息ついた。……判ってる。……認めたくないけど、判ってる。判ってるけど、それはまだ言葉にしたくない。こんなのはただの八つ当たりだ。ただの…………。
 中原の熱い腕。厚みのある手の平。生き物のように這い回る舌。油断すれば昼間だってリアルに甦って、身体が不意に熱くなる。慣らされてる。慣らされてしまってる、俺。今更俺は突き放せない。俺は肉の欲望に慣らされてしまって、逃れられない。
 自分の息が荒くなり始めたのに気付いた。どきりとして、深呼吸して整える。火照り始めた身体の抑制は、なかなか上手く行かない。俺はこんな事は予想してなかった。自分がこんな人間だなんて知らなかった。俺が何か変わったとしたら……それはきっと中原のせいだ。俺自身は全然変われてないのに。
 瞼を閉じた。猥雑な妄想はシャットアウトして、遠い記憶を呼び覚ます。今は遠い過去のこと。今は二度と甦らない過去のこと。今はすっかり遠い世界のこと。
 瞼を閉じた世界にしか存在しない、俺の母親、高木沢佳子。この世界で唯一人輝いていた聖母のような人。……不意に、涙がこぼれ落ちた。俺はなんて遠い世界へ来てしまったんだろう? ……後悔? 頭を振った。違う。感傷だ。立ち上がった。随分と弱気だな。しっかりしろ、久本郁也。
 そう。原因は判ってる。脳裏に浮かぶ、強大な影。……『久本貴明』。殺したいくらい憎悪してる男。吐き気を覚えるくらい嫌悪している男。なのにその支配力から逃れられずにいる。
 いつか全部断ち切ってやる。誰が望まなくても。自分が不毛な事をしようとしてるなんて判ってる。きっと最期はろくな結末にならない。それでも後悔なんて絶対しない。諦めるなんて絶対出来ない。あの男への憎悪は、もう俺の身の内側には抱えきれないくらい溢れてる。
 力が欲しい。強大な力が。あの男を全て叩き壊すだけの力が。今すぐ欲しい。喉から手が出そうなくらい。あの男が俺の望むもの全てを持っていて、そのくせ全てをひどくぞんざいに扱って、価値を認めない。全てが替えの利くカードで、自分の道具で。
 『嫉妬』。今なら律の言葉の意味が良く判る。確かに許せない。殺したくなるくらい許せない。『嫉妬』で目の前が眩み歪みそうなくらいに。
 生身の俺で、あいつを倒すだけの力が何処にある? ……あいつは隙や弱味なんて容易に晒したりしない。俺の付け入る隙は本当にあるのか? ……あいつだって人間だ。眠らず食べずには生きていけない。それでも……。
 ぶるり、と寒気が走った。……まさか、脅えてる? ……いや、違う。そんな筈は無い。俺はあいつを恐いと思った事は無い。
 視線を感じた気がして振り返った。……誰もいない。俺は図書館に向かって歩き始めた。
 ──律。俺は何も持ち合わせて無いよ。俺は何も持ってない。欲しいのに、望んでいるのに、見つからない、手に入らない。
 今、ここに律がいれば良かったのに。もう一度、正面から話をして、お前の意見がちゃんと聞きたいよ。『嘘』じゃない『本当』の言葉で。たぶん、今ならきっと判り合えるから。

To be continued...
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