NOVEL

週末は命懸け5「抱擁」 -1-

〜プロローグ〜

「……そうか、成程。それで?」
 久本貴明[ひさもとたかあき]は本社社長執務室で、外線電話で会話していた。
「……そう。福井行きの切符……ね」
 静かに、笑った。そこへ、社長秘書の土橋宏輝[どばしひろき]がノックして、珈琲を盆に乗せて入室してくる。貴明はにっこり笑って、頷く。
「……そのまま、後を追ってくれ。『応援』が必要なら連絡して欲しい」
 土橋が机の上に珈琲を置く。熱い湯気と共に、芳香が漂う。貴明は目線で土橋に何か促す。土橋は盆を小脇に抱えたまま、直立不動で貴明の前に立つ。それを見て貴明は苦笑する。
「……判ったよ。有り難う。……また、『報告』頼む。待ってるよ」
 そうして受話器を置いた。貴明は土橋に、にっこり笑い掛ける。
「休日出勤、ご苦労様。……悪いね、土橋君。君の入れてくれる珈琲が是非とも飲みたくてね?」
 土橋は無言で苦笑した。
「……悪いけど、福井駅行きの切符、取ってくれないか? 今日の夕方で良い。特急券で、グリーン席が良いかな。少し『余裕』ある方が良い」
「……中原さん、ですか?」
 土橋がにっこり笑って言った。貴明は笑う。
「……判ってるなら、聞かないのかい?」
 すると土橋は穏やかに笑う。
「貴明様のなさる事ですから」
「……頼んで良いかい?」
「すぐに手配いたします」
 そう言って、一礼し退室しようとする。
「……土橋君」
 土橋は足を止め、振り返る。
「何でしょうか?」
「君は、龍也君をどう思う?」
  土橋は穏やかに笑う。
「今時珍しい、『良い人』ですよね?」
 貴明は苦笑した。
「……『良い人』ね。……例えば?」
「気を遣う事を知っている事。それから、他人にあまり干渉しない事」
「……それで?」
「不器用なくらい、優しい事」
「……君にはそう見えるんだ?」
「傷付きやすい、繊細な人ですよね? 本人、そう思われたくないようですけど」
「そんな事、言ったのかい?」
「言いません。……だって本気で怒られるでしょう?」
「確かにあの子は怒ると、恐いね」
「いえ、恐いとかでは無くて……出来るだけそういう事はしたくないですから」
「……それが彼と話すコツ?」
 土橋は目を丸くした。……それから目を細めて笑う。
「……中原さん、実は私の事、何とも思ってないんですよ」
「……へえ?」
 貴明は面白そうな声を上げる。
「私の事、好きでも嫌いでもないから、適当に扱ってくれるんです。だから、自分から誘って来ないけど、私が誘ったら来てくれるんですよ」
「君はそれで良いの? 土橋君」
「仕方ありませんから」
 にっこり土橋は笑った。
「意志疎通させる気無いの?」
 立ち入った事を聞く貴明に、それでも土橋は表情を変えない。
「無理にこじ開けたりしたら、逃げてしまうでしょう?」
「……成程」
 貴明は満足そうに頷いた。
「今度、参考にしておくよ」
  土橋は一礼した。
「では、暫く出て参ります」
「……頼んだよ」


 二〇〇五年、八月十四日日曜日。

 俺が中原が出て行った事を知ったのは、その日の午後二時を回った頃だった。中原の部下の一人が教えてくれた。『親父』と何やら口論して、出て行った後、今までいたマンションも引き払って、連絡が全く付かなくなったと言う。慌てて携帯掛けてみたけど、繋がらない。電源が切られてるか圏外だというアナウンスが流れる。……あの野郎。思わず拳を握った。……良い度胸じゃないか。おとなげないのも、ここまでくりゃ『達人芸』だろうよ。
 俺は『本社』の『社長執務室』へ直行した。
「……やあ、郁也。珍しいね。君がここへ来るなんて」
「……言いたい事はどうせ判ってるんでしょう?」
 久本貴明、久本グループ代表取締役社長、は肘掛け付きの椅子に悠然と足を組んで、にっこり笑った。
「……龍也君の『行き先』かい?」
 ……やっぱり。判ってるんだ、コイツ。
「……ご存じなんですね?」
 確認する。
「……『東尋坊』って知ってる?」
 ……は!? ……言いたい事が判らなくて、一瞬目を丸くする。
「……地名だったと思いますが……それが何か?」
 『社長』はにっこり笑って言う。
「北陸は福井県、三国町。有名な『観光地』なんだがその他に『自殺の名所』でもあるんだ」
「……はあ」
「そこにいるよ」
 さらりと言われて、俺は一瞬惚ける。
「……は!?」
「……行くなら早く行った方が良いよ。『手遅れ』にならないうちにね」
 何!? 俺は目を見開き、目の前の男を凝視した。
「現地には『笹原』を回してある。電話番号はこれ。……丁度上手い具合に新幹線のチケットもあるんだ」
 そう言ってにっこりと、机の引き出しからグリーン車のチケットを出す。……何が上手い具合だよ。今日の夕方発の便だ。この男、最初から判ってたんだな!?
「……『お父さん』は行かないんですか?」
 少し白けた気分でそう訊ねた。『社長』は笑う。
「見ての通り、日曜だってのに休日出勤でね。……任せても良いかい? 郁也」
 そのつもりの癖に何言ってんだ、コイツ。
「……一応『怪我人』なので『医師』の許可取ってからにします。……口添え頂けますか?」
「……判った。電話を入れておくよ。あそこの『院長』とは親しいんだ」
「……判りました。お仕事中、お邪魔しました。失礼します」
 そう言って一礼し、退室しようとドアノブに手を掛けた。
「……郁也」
 俺は無言で振り返った。
「……龍也君を、宜しく」
 俺は無言で一礼のみして、退室する。その足でタクシー拾って病院へ直行する。入り口には病院の院長が出迎えに来ていた。……さすがは『社長』効果。
「……我儘申し上げて申し訳ありません」
 一礼すると、恐縮される。
「いや、そんな事をされる必要はございませんよ。色々大変でしたね? お怪我はどうです? 何か他に怪我なさったところは?」
「お気遣いどうも有り難うございます。この通り、松葉杖ですが自力で十分歩けます」
「……とにかく簡単な検査と診察をしましょう。その後でお薬等お出しします」
「……診察費等は『自宅』の方へ請求して頂けますか?」
「判りました。……では、こちらへ」
 簡単なレントゲン検査や診療の後、包帯の交換や傷薬等、慌ただしいながらも懇切丁寧な説明受けて、説明書付きで内服薬や外用薬を処方される。タイムリミットは四時十七分。薬処方されるまでの間に、自宅へ掛けて運転手呼んで、終わり次第すぐ車で家へ帰って、旅支度を調える。……右手が不自由なので、不承不承ながらメイドに手伝って貰って。それから財布に現金とキャッシュカード、クレジットカードも入れて、ズボンの左ポケットに仕舞った。
「……車椅子の方が宜しくはありませんか?」
 執事の米崎が珍しく、大した用件でも無いのに声掛けてきて、憮然とする。
「別に歩けない訳じゃない」
 俺はメイドに手伝われながら、片方だけ靴を履いた。
「……こちらを。貴明様からです」
 白い無地熨斗袋。……たぶん万札が十枚から二十枚くらい入ってる。
「……小銭の方が有り難いんだがな?」
 俺はうそぶいた。米崎は目を伏せ何も答えない。
「……行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」

 気乗りはしないが、二人のボディーガードを伴って、俺は駅へと向かった。
「俺一人で大丈夫だ」
「……しかし……」
「昨日誘拐されて、今日またトラブルに遭うほど、俺はラッキーじゃないからな。向こうには笹原と中原もいる。……それにあまり目立ちたくない」
「……くれぐれもご注意を」
 頷いて改札通って、ホームへ直行する。まだホームはがらんとしていた。俺はベンチに座り込む。荷物は軽い。服は今着てるのと、Tシャツ二枚きり。下着類は三日分。歯ブラシと歯磨き粉、それから洗顔具と処方された薬。あまり大きくないナイロン素材のリュックに詰めて、左肩に掛けてる。荷物はそれだけ。俺は頭の帽子を取って、団扇代わりに仰いだ。夕方とは言え、蒸し暑い。今丁度お盆時期だから、きっと観光客なんかも多いんだろうな。今日は八月十四日、日曜日。夕方の便って言ったら、旅行客なんか帰宅ラッシュじゃないか? グリーン車だから関係無いけど。……それにしたって、良く切符が取れたもんだ。コネか? そろそろ人が増えてきて、自由席なんか列着き始める。福井県の観光マップなんて、ホームの売店にあるかな? ……見たけど案の定、無かった。思いつきもしなかった。現地で入手するか。……間抜けな話だが。
 代わりに新聞と緑茶缶購入して、松葉杖つきながら自分の乗り場所へ移動する。ベンチは埋まってたけど、親切なお婆さんが譲ってくれる。
「……すみません。有り難うございます」
 頭下げると、お婆さんは笑った。
「いいえ、良いんですよ。ご都合悪いでしょう?」
 さすがにその親切なお婆さんの前で、買ってきたばかりの新聞、広げる訳にも行かなくて。俺は取り敢えずリュックの中に仕舞った。
「……学生さんですか?」
「……ええ、まあ」
 困った。話し掛けてくる、この人。
「親御さんの処へ帰るの? それとも旅行?」
 俺は困惑した。
「……人を、捜しに」
 結局、本当の事を口にした。
「見つかると良いですね?」
「……そう……ですね」
 ぎこちなく、そう答えた。それ以上、お婆さんは話し掛けてこなかった。俺は正直、ほっとした。……話す事なんて何も無い。俺は中原に会いに行くけど……結局、自分が何を望んでるのか判りゃしない。会って何を言えば良いのか、全く判らない。……連れ戻す気か? アイツが『親父』から逃れたがっていたのを、知ったのに? このまま逃がしてやる方がきっと親切だ。……ただ、アイツが『自殺』考えてるようなら……野暮を承知で止めるしかない。大体、アイツは昔から無茶やる男だった。けど、それが『自殺願望』に直結してたなんて、つい昨日まで俺は知らなかった。『親父』は冷酷非道な男だが、あれでも中原の事は心配してるんだろう。……だから自分で行く気はないらしいが、わざわざここまで手を回したんだろうし。俺自身の行動が読まれてるってのも、なかなか腹立たしいが。けど俺にとって役立ってるってのも確かな『事実』で。『久本貴明』が中原に何をしたかなんて、俺は知らない。知ろうとも思わない。どうせ知ったって、俺には何も出来ない。それは過ぎ去った『過去』の事だ。今更どうひっくり返そうとも、変わりはしない。知りたくもない。どうせろくでもない事だ。アイツの泣きじゃくる顔が、今でも鮮明に焼き付いていて。俺はアイツの腕を取って慰めでもしてやれば良かったんだろうか? ……受け入れも出来ないのに? 『素直』かどうかは知らないけど、俺はあの泣き顔が、その前の無邪気な笑顔が、克明に胸に焼き付けられていて。……俺の知らない『中原龍也』。……『律』は……『金山律』はあの『中原』を知ってたんだろうか? 子供のように笑ったり、泣いたりするあの男を。俺が良く知ってる、傲慢で最低で、俺に卑猥なネタや挑発で、苛立たせる変態野郎じゃなくて……『違う』顔を。
 俺は知らない。何も知らない。中原の別の顔見たくらいで、動揺して。中原が何考えてるかなんて全く判らない。俺の目の前いない時のアイツが、何処で何をしてて、何を考えてるなんて全く知らない。……昨日、中原に触れられたところが、身体の奥が疼く。熱を持ってる。……情けない事に、ケツの穴なんかまだ中に何か入ってるみたいな感じがする。全身に、中原に侵入された痕が残ってる。……あの『快感』を思い出して、身震いした。気付くと、中原の唇を求めてる自分を自覚して、ぞっとした。思わず天を仰ぐ。帽子を被って、顔を隠した。……今の俺、絶対変な顔してる。下唇を強く噛んだ。……正気になれよ、おい。涙が滲みそうなくらい、強く噛んで。車両がホームに滑り込んでくる。俺は立ち上がり、先程のお婆さんに会釈して、指定の席に座った。帽子を目深に被り、眠ったフリをする。身体の中心部が、中原を求めて嘆いてる。……どうかしてる。くそっ。俺は目を開けてさっきしまった缶を取りだし、プルタブを上げる。生温くなっていた。構わず飲み干す。新聞を取り出し、目の前広げる。誘拐の事はまだ載ってなかった。明日の朝刊、か。今日は日曜だしな。ぼんやり他の記事に目を通しながら、全然内容は把握できてなかった。舌打ちして、新聞を閉じる。……そう言えば、昭彦に連絡一つもしてないのに気付いて、窓を開いた後でコールした。呼び出し三回で、昭彦が出る。
〔……郁也!?〕
 ……うわ。思わず頭痛を感じた。怒ってる。この声は何か滅茶苦茶怒ってるぞ。
「やあ、昭彦」
 誤魔化しても無駄かもしれないが、取り敢えず明るい口調で返事する。
〔『やあ』じゃないだろ!! 『やあ』じゃ!! わざとらしいんだよっ!! お前はっっ!! 一体今まで何してたんだ!! 太田さんに話聞いてどれだけ俺が心配したと、思ってるんだ!!〕
「…………」
〔一体どういう事なんだよ!! 事情説明しろ!! 事情をっっ!!〕
「……ええと、悪い。昭彦、俺、今、外でさ。詳しい事情はあんまり説明できないんだけど、今は全然平気。無事で元気だから、安心して。また夜にでも掛けるけど……今から福井行くんだ。そういう訳で携帯じゃないとたぶん連絡つかない。心配する事ないし、用事済んだらすぐ帰るから」
〔何だってそんなとこに!! 大体、何時の便で何で行くんだよ!!〕
 ……絶対怒る……よな。
「……見送りだったら、無理だ。今、もう乗り込んでる。あと数分で駅出るから」
〔何だって!? 郁也!! お前!! わざとか!?〕
 怒鳴り声で耳が痛い。思わず耳を離す。すげぇ、まだ聞こえるよ。昭彦の声。
「……ええと、たぶん言い訳にしか聞こえないだろうけど、悪気は無い。すまん、昭彦」
〔『すまん』じゃないだろうが!! このバカ!! お前一体何の気になってんだよ!! お前の耳は節穴か!? ただの飾りか!? お前、わざとやってんのか!? そんなに俺を怒らせるの、好きか!? え!? おい!!〕
 ……うわあ、冗談でなく救いよう無く怒ってるよ……。こんなに激怒されたの、たぶん初めてだ……。……甘えてるとか思われるんだろうけど……本当悪気無くて……昭彦相手なら何でも許してくれるような気すらしてて……。
「……本当、すまなかった。昭彦」
 本気ですまないと思うから、殊勝な声に自然となった。作るまでも無く。
「……俺……本当、昭彦に心配掛けるつもり無くて……昨日疲れてたからつい連絡し忘れて……本当悪かったと思ってる……」
〔……郁也……〕
 昭彦の声が少し弱くなった。
「ごめん、昭彦。……戻ったら一番に、お前に会いに行くよ。事情は今夜説明する」
〔……いちいち期待なんかしないけどさ……お前の事だから〕
 それはちょっと酷い。俺は顔をしかめた。けど、昭彦は急にか弱い声で。
「……昭彦?」
〔……本当、これ以上俺に心配掛けるなよ? 気が狂うかと思うだろうが〕
 半分、泣き声で。はっと胸を突かれた。
「……ごめん!! 昭彦!!」
 必死で謝るけど、昭彦は泣きやまなかった。ますます泣き声は酷くなる。
〔……頼むから、俺をこれ以上悩ませるなよ? 俺の人生の半分の悩み事はお前が作ってるんだからな? 俺が若ハゲになったら、絶対郁也の所為だ〕
「……昭彦……」
 昭彦は鼻をすすり上げながら、冗談じみた事口にするけど、全然笑えなかった。
「……本当、すまない」
〔……反省だけなら誰だって出来る。お前のはいつも口ばっかりなんだよ。……それ以上、期待するのはもう諦めた〕
「……昭彦……」
〔……だからってお前の『友人』やめる気無いよ。安心しろ。『下僕』でも何でも良い。この上、お前に付き合う『権利』無くしたら、俺、本当報われないから〕
「……昭彦……」
 それ一体、どういう意味だよ?
〔……期待しないで待ってるよ。その方が有難味あるからな。……どうせ『嘘』でも良いさ。『無視』されるよりずっとマシだ。忘れ去られるより、時折でも思い出して貰えるなら、ずっと良いだろうよ〕
「……昭彦……」
 がっくりと肩を落とした。物凄く恨みがましい。物凄く卑屈でひねくれた物言いだ。全然昭彦らしくない。……俺の所為なのか? 本当に?
「……ごめん。……謝ったって許してくれないだろうけど……」
〔……許してるよ。だから、元気な顔、俺に見せてくれ。……忘れるなよ〕
 さっきよりは、随分マシな声で。俺は深い溜息をついた。
「……俺さ、昭彦に結構我儘言ったりしたりしてると思う。……その、悪いと思ってるんだ。悪いと思ってるんだけど、何て言うんだ? いちいち悪気ある訳じゃなくて……どっか甘えてるとこがあるって言うか……他の奴には許されなくても、昭彦になら『平気』かなとか……でも傷付けようとかそういうつもりは、全く無くて……」
〔……判ってるから、良い。気にするな。お前がそういう奴だって事は、最初から判ってるんだ。だから、お前のせいじゃない〕
「……昭彦……お前……」
〔俺から『絶交』なんて絶対有り得ないから、安心しろ。……電話、待ってる〕
「必ずするよ」
〔……期待せずに待ってる〕
 俺は苦笑した。
「必ずするよ。……じゃあな」
〔……じゃあな、郁也〕
 コールをオフにした。途端に、ホームに発車のベルが鳴り響く。アナウンスが流れる。暫くして、ドアが閉まり、ゆっくりと車両がレールを滑り出す。俺は窓の外を見るとも無しにぼんやり眺めた。途中、車内販売の駅弁とミネラルウォーターを買う。俺は揺られながら、弁当を開き、箸を割っていただきますと口にして、箸を付ける。慎ましい夕食を進ませながら、ぼんやり俺は考えてた。昭彦の事、中原の事、それからこれから行く東尋坊及び芦原温泉の事。福井の地理は全然判らない。東尋坊は絶壁で国定公園の一部で国の天然記念物に指定されてるってくらいの知識しか無い。芦原温泉に関しては初めて聞いたんじゃないかってくらいだ。食べ終えて車両内のゴミ箱捨てて、笹原に電話する。
「……もしもし?」
〔郁也様ですか?〕
「そうだ。四時十七分の新幹線にちゃんと乗った。五時三十四分のに乗り換えで、『芦原湯町』予定到着時刻は六時十分だ。今のところ、こっちは順調。……そっちは?」
〔……今のところ、不審な様子はありません。旅館の部屋から一歩も出てくる気配はありませんが〕
 ……それは普通に考えたら、十分不審な気もするが。
「……間違いなく部屋にいるんだろうな?」
〔間違いありません〕
「……判った。出来たら隣りに部屋を取ってくれ」
〔……隣り……ですか〕
「無理なら良い。言ってみただけだ」
〔……やってみます〕
「それでお前の宿はどうした?」
〔別館の方へ。でも、用意された寝床に寝られるかどうかは判りませんが〕
「……そうだな」
 俺は溜息ついた。
「とにかく俺はタクシーでそっちに向かうから。何か変化があれば連絡してくれ」
〔了解いたしました〕
 通話を切る。さて、あと数分で『福井』到着な訳だが……どう接触したもんだ? いきなり顔合わしたら逃げられるか? 普段でも体力勝負じゃお手上げなのに、今断然不利だからな。不審がられずに……ってのは無理か。まあ、中原もきっと追っ手の来る事くらいは、予測してるだろうし……たぶん部屋から出ないのは警戒してるからなんだろうし。……いきなり訪ねてったら、今度こそ本当に殺される? 俺は自分の首筋に左手を当てた。中原の指の感触を思い出して、ずきりとした。……何考えてんだ、俺。頭を振って席に戻る。ミネラルウォーターで薬を飲む。鎮痛剤と抗生物質。それに胃腸薬。増血剤なんかもある。解熱剤は熱の出た時だけ。……座薬もあるけど……座薬は当分良い……。鎮痛剤飲んで揺られてると、つい眠りに誘われそうになる。左手で、頬をぱしぱし叩いて正気付かせる。寝過ごしたらどうする気だ。おい。ミネラルウォーター一気飲みする。……最近疲れる事ばっかだからな。久し振りにぼうっとする時間あって、ちょっとたるんでるのか? それとも疲れのピーク来てる? ……年寄りみてぇ。最低。回復力無いのは年寄りの証拠だろ? ……くそっ。
 何とか福井駅に到着して私電乗って芦原湯町で降りる。三十数分揺られて、何か身体ぼうっとする。タクシー捕まえて、旅館へ飛ばして貰う。情けない事にこの時点でかなりヘバってた。最悪。何だってんだよ。畜生。
「……お客さん、大丈夫? 無理しない方が良いんじゃないの?」
「……心配しなくて良いです。なるべく早く着けて貰えれば、サービス料付けて支払うから」
 そう言って、殆ど横になって座席に転がった。運転手はかなり飛ばしてくれたので、俺はサービス料一万円付けたら、帰りも是非利用してくれと感涙された。……帰りはそんな急ぐ必要ないと思う。たぶん。俺は松葉杖つきながら笹原に連絡入れる。
「……俺だ。今、旅館に到着した。……どうだ?」
〔おっしゃったお部屋は取れました。郁也様のお名前で取ってありますので、ご安心下さい。『彼』は変わりありません〕
「判った。そのまま『監視』頼む」
 通話切って、気力で松葉杖ついて中に入る。仲居連に挨拶される。
「……久本郁也です」
「はい、確かに承っております。お部屋の方へご案内いたしますので、どうぞこちらへ」
 部屋は一階にあるらしかった。大浴場も同じ階にあるとの説明を流し聞きながら──この足じゃ入れないだろうが──案内される。
「……ご夕食はお承っておりませんが、結構でしたでしょうか?」
「食べてきたので良いです。……有り難うございます」
 そう言って仲居に二万円入りの無地熨斗をそっと渡す。
「お布団はすぐお敷きしましょうか?」
「……少し、出てるのでその間にお願いできますか?」
 どうせ貴重品はズボンのポケットだ。リュックだけ下ろして、外に出る。部屋の正面は中庭でその向こうにラウンジが見える。新聞を読んでるサラリーマン風の男が一瞬、こちらに会釈した。どうやらあれが『笹原』らしい。俺も了解したという証拠に、左の親指を立ててみせる。周囲に注意払いながら、中庭眺めるフリで隣室の気配探ってみる。微かな物音がするから、いる事はいるようだ。……さて、どう切り出したものか。溜息ついた瞬間、当の部屋からガタン、と何か物音がした。ぎょっとして振り向くと、ドアが開けられてすぐ目の前に中原がいた。

To be continued...
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