NOVEL

週末は命懸け3「観察者」 -1-

〜プロローグ〜

「……お待たせ」
 肩幅の広い、妙に雰囲気のある長身・黒い長髪の男。後ろ一つに髪を束ねた。文庫を広げていた、少女のように繊細な顔立ちの華奢な少年が、顔を上げた。
「……龍也[たつや]さん」
 そう言って立ち上がる。足下に立て掛けてあった茶封筒を手に取って渡す。
「……これが本日のレポート」
「サンキュ。これ、本日の日当」
 そう言って白い二重構造の封筒を渡す。
「……特に異常はありませんでした」
「……それは良かった」
 男はにっこり笑う。
「……龍也さん」
「何?」
 少年は男に一歩、近寄る。
「……キスして下さい」
 真剣な目で。
「OK」
 事もなげにそう言い、中原龍也[なかはらたつや]は少年に軽くキスする。唇が微かに触れ合う程度の。少年は悲しげに見上げる。
「……あんな奴の、何処が良いんですか?」
 問われて、中原は肩をすくめる。
「そういう対象じゃないよ。君の方が魅力的だ」
「……嘘つき」
「ごめん」
 そう言って笑って、中原は少年の頭を撫でる。
「……子供扱い、しないで下さい」
「……血迷ってるだけだよ」
 中原は優しく言った。
「……俺は誰かに好きだと言って貰える人間じゃない」
 そう言って静かに笑う。
「……悪い『夢』を見てるだけさ」
「……酷いんだね。しかも、物凄く狡い」
「ごめんね」
「謝るなんて狡い」
「……俺は狡い大人なんでね」
「……『長続き』しない理由が良く判るよ」
 少年は溜息ついた。
「……本当にあなた、鬼畜だね。その笑顔で、さんざん人を食い物にしてきたんでしょう?」
「……おかげで両手足とも表裏区別付かないくらい真っ黒でね」
「……弁解くらいしてよ」
「弁解? それが一体何の役に立つ?」
「……本当に冷たくて狡い人。嫌いになれれば良かった」
「……なって構わないけど?」
「……そういう事、平気で真顔で言うし」
 中原は笑う。少年はズボンのポケットから、煙草とライターを取り出しくわえる。
「……校内で吸うの? 不良少年」
「……吸いますよ。普通でしょ?」
「……『進学校』だろ? 真面目な『優等生』が」
「……良く言いますね? そういう事」
 少年は意地悪げな笑みを浮かべる。中原は苦笑する。
「……良い天気。不健康だね、こんな処にいるのは。……ねぇ?」
「……そうですか? 僕は別に」
「そ。……『違う』ね」
 中原は自嘲めいた笑みを洩らす。
「俺は『学校』も『勉強』も嫌いだったよ」
「そうですか」
「……でも、学校はちゃんと行っとくべきだった。少なくとも中学くらいは卒業すべきだった。……おかげで色々苦労したもんでね」
「……行かせて貰えるって言われたんでしょう?」
「……俺がまともな連中の中で、まともなフリが出来ると思う?」
「……やるだけならやれるんじゃないですか?」
「……そしたら、俺の気が狂う」
 少年は煙草の火を揉み消した。
「俺は他人に合わせるなんて出来ない」
 中原は吐き捨てるように呟く。
「……俺には判らない。他人と対等な関係を作る事さえ出来ない。……『思いやり』なんて『愛情』なんて『優しさ』なんて判らない。俺は欠陥人間だよ」
「……龍也さんは自分が判ってないだけだよ」
 寂しそうに少年は呟いた。
「……人間は前にしか目がついてないから、自分の背中を見る事は出来ないんだよ」
 そう言って、中原から二・三歩離れる。
「今夜、マンション行くよ」
「来るの?」
「……でもすぐ帰る」
「……何で?」
「迷惑そうだから」
「そんな事無いよ」
「……嘘つき」
 中原は肩をすくめた。
「……だから女の人呼んで良いよ。部屋には寄らないから」
 少年は笑った。
「……どういう風の吹き回し?」
 龍也が尋ねると、少年は真顔になった。
「本当に嫉妬すべき人間は他にいるから」
「……勘繰り過ぎだよ」
「……昔なら信じられたけどね。じゃあ」
「じゃあ、また明日」
「……生きててね」
「……有り難う」
 少年の背を見送り、手元のレポートに目を落とす。
「……違うさ。ただ……昔の事を思い出すから……『人間』だった頃の『記憶』を」
 誰に言うでもなく。
「……ただの感傷だ。判ってる……俺は……」
 そう呟いて、その場を後にした。


 二〇〇五年、七月四日月曜日。

 トン、と軽くぶつかった。
「あ……ごめんなさい」
 涼やかな少年の声。俺と同じくらいの背。逆光で眼鏡のレンズがきらりと光った。白い包帯。ギプスで固められた左腕。何か、奇妙な違和感感じて、俺は一瞬立ちつくした。その間に彼は通り過ぎて行く。何事もなかったかのように。
「……こら、見てたぞ」
 俺の親友、藤岡昭彦[ふじおかあきひこ]の声。振り返る。先程の少年の姿は既に遠くなっている。
「アレはどう見ても、お前が謝る場面だったぞ?」
「…………」
 ……何だろう。何だったんだろう?あの『違和感』は。判らない。正体の知れない、もやもやしたもの。不安、ではなく。
「……聞いてるか? 郁也[いくや]。人の話」
「……あ? 聞いてない、何?」
「…………お前という奴はっ!!」
 昭彦は頭を抱えるようにして、唸った。
「……何だよ?」
「だからお前!! 自分の不注意でぶつかった時くらいは、自主的に謝れってそういう事!」
「……不注意?」
「『不注意』だろうが。ちゃんと前くらい見て歩けよ。ったく」
 ……何言ってんだ。俺はちゃんと前見て歩いてたぞ? ただ、さっきの奴が脇から不意に来たから……ま、いっか。んな事はどうだって。
「そんな事、折角人が指導してやったのに、数学赤点取るようなバカに言われたくない」
「……ぐっ……!!」
 昭彦は詰まった。
「……折角懇切丁寧に、手取り足取り教えてやったのに、部活にかまけて遊び呆けてるからその始末だ。夏休みの補講は必至だな。あの先生、お情けで追試やってくれる程、甘くないしな」
「……いっ……郁也ぁ……っ!!」
「ついさっきまで、お前用に判り易くまとめた一学期の数学要点ノート、渡そうかと思ってたけど、どうしたもんかな? なあ、昭彦」
「……おっ……お願いしますっ……郁也様!!」
 泣きそうな目で。
「……さあて、どうしようかな? 俺って気まぐれだからな」
「ジュース奢れと言うなら奢るし、昼飯奢れと言うなら奢るし、這いつくばれと言われたらちょっとヤだけど這いつくばるからっっ!!」
 ……しゃーねぇか。
「……じゃ、昼飯な」
 にやりと笑って見せると、昭彦は泣き笑いのような顔をした。夏休みまであと二週間強。期末考査も済んで、答案用紙も返ってきて。日差しはますます暑くて、体育の授業に『水泳』が無いのがちょっと辛い。俺は反射する日光に腕をかざして、教室へと戻る。移動教室の帰り。三時限目音楽終了後。『平和』な日常。俺、久本郁也[ひさもといくや]。十六歳。高校一年。約一月前、誕生日迎えたばかり。

 昭彦の奢りでカツ丼セットを食べた俺は、期末考査の順位表を見に、掲示板へと向かった。昭彦も一応誘ったが、「俺はいい」と固辞するので(何故だ?)一人で。
 見ると、トータル三位に入っていた。ま、そんなもんかな? あんまり勉強しなかったし。
 身を翻してさっさと教室へ帰る。と、トンと誰かにぶつかった。今日はやたら人にぶつかる日だ。……そう思ったら、さっき三時限目終了後にぶつかった奴。銀色のフレームの眼鏡掛けた、俺と良く似た背格好、の。
「……あ、ごめんなさい」
 ちょっと頭を下げて、涼やかな声で言うと、左腕をギプスで固めて肩から吊ってるそいつは、俺の目の前通り過ぎた。ふっと香ってくる柑橘系のフレグランス。どきり、とした。何処かで嗅いだ、匂い。一瞬呼び止めようとして、迷い、そして断念した。掛ける言葉が見つからなかった。知らない奴、だ。今までいてもちっとも気にも止めなかった奴。華奢でひ弱で長い手足。今にも折れそうな身体で。地味な、奴だった。誰の印象にも残りそうにないような。何処かに隠れて埋没してしまいそうな。何処にでもいそうな。ひ弱なガリ勉クン。そういった感じだ。……俺は何を気にしてるんだ? ……判らない。不安じゃない。不安じゃなくて、予感。漠然とした予感。見た事無いのに、見た事あるような。既視感に似ている。
 俺は頭を振った。……大した事じゃない。気にするようなものじゃない。……たぶん。
 俺はその場を立ち去った。

 放課後、昭彦は早々に部活へ行き──男子バレーボール部だ──俺は一人、図書室へ行った。トルストイを借りて出ようとすると、また誰かにぶつかった。いや、正確には誰かにドアをぶつけた。
「……あっ……悪いっ……!」
 ゴォン、という音がしたから慌てて相手を見ると、眼鏡を掛けた少年がふらりと床に倒れ込むところだった。
「……わっ……!!」
 慌てて手を伸ばし、その背を支える。思ったより軽い衝撃。下手な女より軽い。実はこいつ、骨と皮なんじゃないか? 至近距離で、ちょうど真正面から目と目が合うような格好になって、眼鏡がカシンと音を立てて落ちる。顔の約半分を隠すような長い前髪が後ろに流れる。睫毛の長い、白い繊細な顔。澄んだ優しげな瞳。俺はこれと同じ目を知ってる、と瞬時思った。その目が真っ直ぐに俺を射抜くように見てる。口元に、僅かに笑みを浮かべて。……笑み? 一瞬の事だった。それはすぐに消えた。少年は静かに落ちた眼鏡を拾い上げ、掛けてから俺を見る。
「……有り難うございました」
 綺麗でしなやかな礼をする。どきん、とした。それは何か少女のような艶やかさを持っていて。白い左腕ギプス。本日三度目、の。
「……お前……」
「……何度も、すみません。久本さん」
 はにかむように、少年は笑った。
「……な……っ」
  何で俺の名前知ってる、と言い掛けて、自分が校内で有名人なのを思い出した。知ってて当然だ。知らない奴のが珍しい。
「……えっと……?」
「……隣のクラスの金山律[かなやまりつ]です」
 流麗なお辞儀をする。何だろう? 別にそれっぽい訳じゃないのに、仕草が妙に女性的だと感じる。……いちいち丁寧だからだろうか? 判らない。厭な感じじゃなくて……むしろ倒錯的で……何て言うか……やめた。
「……悪かったな。その……今日何度も……」
「……僕の、不注意ですから」
 にっこりと笑う。その顔が、何処かで見た事あるような気がする。
「……えっと……図書室か?」
 そう言って、移動しようとすると。
「……判りませんか?」
 金山律と名乗った、左腕ギプスは涼やかな声で笑って、眼鏡を外し、前髪を掻き上げて見せた。
「……あっ……!!」
 思わず大声を上げた。悪戯っ子のような表情で、にやにやと笑ってみせるその顔は、俺と瓜二つだった……。

 旧校舎屋上。新校舎からは二階廊下からしか繋がって無くて、しかもドアに鍵が掛かっているので、非常階段からしか昇れない。故に、その手間を惜しむ奴は昇って来ない。そういう人気のないスポットだ。昇ってくる奴がいれば、非常階段の昇る音ですぐ判る。『秘密』の話をするにはもってこいだ。
「……お前……もしかして俺の……?」
「……『影武者』です」
 悪びれない笑顔で、金山律はそう言った。
「……本当はこういうの、反則だって知ってるんですけど。一度、お話がしてみたくて」
 舌なんか出してみせるその仕草が、同年代の男っぽくない。けど、こいつには合ってると思った。
「……いや、俺もちょっと、興味あったから。……『影武者』に」
「……気持ち悪いでしょう?」
「いや、そんな事無い」
 確かに、金山は眼鏡取って髪型変えれば俺そっくりだ。けど、表情が違う。目が微妙に違う。背格好は良く似ているけど、俺なんかよりずっと華奢だ。まるで少女のような印象すら与える。俺なんかよりよほど『綺麗』な感じがする。真っ白な……『純白』で『繊細』なイメージ。
「……何か……」
 俺と似た顔なのに、ひどくドギマギする。俺はそういう『趣味』は無い筈だが、かなり動揺する。『艶』のある笑みをするから……何か『違う』感じがする。今まで、こいつに気付かなかったのが、不思議なくらい。
「……当たり前だけど……金山は俺の事、ずっと知ってた……?」
「……当然でしょう? ちなみに、中学校も同じでした」
「……同じ高校へ来たのってもしや……」
「……久本さんと……いえ、郁也様と同じ学校に行く必要がありましたから」
「……『様』なんて要らない。呼び捨てで良い」
「……良いんですか?」
「俺が許可する」
 すると、金山は微笑する。少女のように、艶やかで華やかな。……どきりとする。
「……ずっとそばにいた?」
「……たかだか四年ほどですよ」
「……全然気付かなかった……」
「それはそういう『役目』ですから」
「……でも……何で……?」
「……ずっと見てたら、何だか勝手に知ってる人のように思えてきて、話し掛けたくなったんです。……駄目、ですか?」
「……そんな事、無い」
 俺は首を振った。
「良かった」
 嬉しそうに、金山は笑った。はにかむように。頬を染めて。
「……そう言って貰えると、とても嬉しいです。話し掛けて、良かった」
「……今日、ひょっとして俺に何度もぶつかったの……?」
「……自然な形で気付いて貰おうと、実は朝から付け回してたんです。ストーカーみたいでごめんなさい。かえって不自然でしたよね」
「いや、全然気にしてないから。そうか、だから三度もぶつかったんだよな。俺もおかしいと思ったんだ。幾ら何でも三度はさ」
「……でも、『顔』見たのに、気付かないんだもの。僕や周りが言ったり思ったりする程、あなたには似てないのかと思いました」
「……あんな至近距離じゃ……かえって相手の顔の造作なんて判らないって。目玉がこれくらいの大きさに見えたからな」
 指で丸作って見せる。金山は弾けるように、涼やかな声で笑った。明るい笑顔。屈託無い。純真無垢な『天使』のような。
「……おっかしいですね、久本さんて。もっと恐い人かと思った」
「……お前、その『恐い人』に何度もぶつかったり付け回したり、話し掛けようとしたのかよ?」
「……あはは、そうなんですけど……不思議ですね……『他人』のような気がしなくて……僕、今、家族一人もいないんですよ」
「……え?」
「……ってね? 驚いたでしょう。ごめんなさい。深い意味無いんです。ただ、僕、一人暮らしで……家族と離れて暮らしてるんです」
「……えっ……!? ……まさかっ!!」
「……別に久本さんと関係無いですよ。僕の両親、かなり長い間、海外にいるんです。今はプラハかな? 仕事の関係で。……僕が物心付いた時からそうですから、全然関係ないです」
「……あ……そうなんだ……」
「……ごめんなさい。驚かせてしまいましたね。そういう訳で僕、家に帰ってもあまり話し相手とかいなくて……あなたの『影武者』する為、あなたを言葉悪いですけど『研究』しようとして……『観察』ばっかりしてるもんだから……いつの間にか『他人』じゃないように思い込んじゃって……だから、迷惑だったら言って下さい」
「そんな事無い。金山だったら大歓迎だよ。俺はまあ割と暇だし、いつでもOK。予定なんかあってもどうにかなるから」
「……どうにかする、の間違いじゃなくて?」
 苦笑する。
「……ったく……どういうとこ見てたんだ?」
「暇さえあれば、あなたの事、見てましたから。まるで、片想いの少女が憧れの先輩を必死の思いで追い掛けるように」
「……おいおい、金山。その言い方じゃまるで……」
「……僕はあなたに憧れていました。『綺麗』で『賢く』て『しなやか』で『強い』あなたに」
「……俺は『強く』なんかない」
「少なくとも僕よりは『強い』ですよ。あなたは僕の欲しい物何もかも持っていて、何もかもが眩しかった」
「そんなんじゃないって!! 俺は!!」
「……『照れ屋』ですよね? 本当は僕、あなたが他人に褒められるの嫌いって知ってるんですけど……どうしても、言いたくて。ごめんなさい」
「……金山……」
「……僕、久本さんに近付きたくて……駄目だって判ってるのに……こういう事しちゃいけないって知ってるのに……つい、こういう事してしまいました。本当は禁じられていたので……僕と話した事は誰にも言わないで下さいますか?」
「え? ……ああ」
「……本当ですか? あの、藤岡さんにも絶対、ですよ?」
「……昭彦にも?」
「……何処で誰が聞いてるか判りませんから。知られたら、僕は……きっと……」
 暗い、顔になった。どきり、とした。そうだ……俺は久本貴明[ひさもとたかあき]の冷徹さを知っている。自分を裏切った者、必要としなくなった者に、どういう判断を下すか……簡単に予想が付く。
「判った。誰にも……昭彦にも言わない」
「本当ですか!?」
 金山はぱっと顔を明るく輝かせた。
「絶対ですよ!! 指切り!! 指切りして下さい!!」
「……おいおい、子供じゃあるまいし……」
 苦笑するけど、押し切られて『針千本』を約束させられる。おとなしそうに見えたけど、屈託無くて明るくて……何だか『可愛らしい』奴だ。くるくる表情が変わる。振り回される。眼鏡、取った方が断然イイ顔。
「……金山、ところでその怪我、一体何?」
「あ。これは先週ちょっと事故って。僕のミスなんですけどね」
「……おいおい、大丈夫か?」
「……駄目ですよね。ちゃんとお金貰って『仕事』してるのに、不注意に怪我するなんて。『影武者』失格ですよね?」
「……金山は金山だろ? わざとじゃないんだから、仕方無いさ。今後、気を付けて早く治せば良い事なんだから」
「……優しいんですね」
 感動したように言われて、どきりとする。
「……何、言ってんだ?」
 金山は瞳を潤ませて言う。
「……心配して下さって有り難うございます。僕、出来るだけ早く治しますから!」
「……おいおい、金山……」
 と、金山は不意に顔を伏せて右手で目の端拭う。マジかよ!?と思う間もなく、顔を上げてにっこり笑って嬉しそうに言った。
「ご迷惑掛けて、申し訳ありませんでした。僕、今日外科寄らないといけないのでもう帰ります!! お時間取らせてすみませんでした!!」
 そう言って立ち上がる。
「……付き合おうか?」
「いえ!! 結構です!! ……それに、校外で一緒に歩いてるとほら……」
「……あ」
 しまった。忘れてた。
「じゃあ、また」
 そう言って、金山は心持ち跳ねるような足取りで、立ち去った。俺は何だか毒気を抜かれたような格好で、暫く一人で今の一件を思い返した。
 何て言うか……金山って悪い奴じゃないけど、変な奴。面白いかも。色々と。昭彦が『犬』だとしたら、金山律は『小動物』。『リス』あたりが妥当な線か? ……ちょろちょろ動き回って『可愛い』んだけど『ユーモラス』なとこ。
 俺は立ち上がった。……結構話してた。もう五時近い。あいつ、大丈夫かな? 金山。ちょっと心配だけど……あいつの言う事も、もっともで。仕方ないから一人で帰るしかないけど。でもあんな奴がいたなんて、これまで全然知らなかった。あんな明るい屈託無い奴なら、もっと『判り易い』んじゃないか? ……ふっと考えて、ギクリとした。俺の記憶に金山は無い。隣のクラスなら何度も視界に入ってる筈だ。合同の授業だってある。中学から一緒なら、尚更だ。それで『視界』に入らないなら? 向こうが『俺』を見てるのに、俺がちっとも気付かないとしたら……その『理由』は?
 愕然とした。最初の金山の『印象』を思い出す。ひ弱で地味なガリ勉クン。何処にいても埋没してしまいそうな。……それって他人より目立たない為……俺の『影武者』する為に、自分の姿を誰の印象にも残らないようにする為の『演技』じゃなかったのか?……っていう……。
 金山は決して目立たない地味で暗い奴なんかじゃなかった。明るくて、可愛くて人懐こい、俺でさえ初対面も同然で心開いてしまうような、屈託無い……そういう奴。なのに、そういう感じ、俺は全く抱かなかった。一対一で話してみるまで。……俺は知らない間に、金山に随分な負担掛けてるんじゃないだろうか?気付かなかっただけで。俺は不意に思いついて、掲示板の前へ行ってみた。この時間じゃ誰もいない。期末考査の結果が張り出されたまま、がらんとしている。
 金山律。……Bクラス、総合点数・学年四十七番。一学年が二百七十八名だから、クラス十番内級だ。成績は悪くない。けど、取り立てて目立つ程でも無い。この名前を、以前にも見た事あるだろうか? 思い返す。けど、心当たり無い。学年十番内なら記憶の隅にあっても、クラス十番内くらいじゃまるで無い。俺はたぶん、以前にも何処かで金山に会ってる筈だ。けれど、全くと言って良い程記憶に無かった。
 『知らない』という事がどれほど残酷な事か、思い知らされた気がした。金山の人生は金山のものだ。十二・三歳から十五・六歳までの時間がどれほど大切なものか、誰に教わらなくても俺自身が良く知っている。……俺はその時間、金山に『犠牲』を強いてきたんじゃないだろうか? 知らなかったとはいえ。全く気付かなかったとはいえ。……俺は金山の『貴重』な『時間』を知らない間に『搾取』して来なかったと言えるだろうか? ……ぞっとした。深く気にも止めてかったけど、ひどく恐ろしい事のような気がした。金山は笑っていたけど……屈託無く笑っていたけど……俺はとんでもない事を金山にさせていたんじゃないだろうか? 不意に、寒気を感じて俺は両手で自分の肩を抱いた。……七月の空はまだ明るかった。けれど、俺は寒いと思った。身震いして、それから周囲を見回した。……誰もいない廊下を。
 金山は、俺に『憧れていた』と言った。俺自身は、そう思えるだろうか? 不意に、金山は『断罪者』で俺自身は『加害者』のような気がしてきた。……『贖罪』すべきなのではないだろうか。……俺は。

To be continued...
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