NOVEL

週末は命懸け2 「罪」 -1-

〜プロローグ〜

「……誰だい? 僕に稚児趣味があるだなんてデマ流したのは?」
 久本貴明[ひさもとたかあき]は憮然として言った。
「それは酷い噂ですね。お気の毒に」
 髪の色を戻し伸ばした中原龍也[なかはらたつや]が、生真面目な顔で頷いた。
「……僕が誰に言ってるか、判ってるのかい?」
 貴明は軽く睨む。するとにやりと笑う。
「……いやあ、面白い方ですね、社長夫人。ついついからかってしまいます」
「……それだけでこんな風になる訳無いだろう。全く仕様がない子だね、君は」
「……育ての親とも言うべき方がこうなので、致し方ありませんね」
「……全く遠慮という物を知らないね、君は」
「ええ、いつも好意に甘えさせて頂いてます」
「一部で僕が君に甘すぎると言われているよ。まさかそれを考慮に入れた上で、あのような事を言ったのかね?」
「いいえ。しかし身に覚えはないとはいえ、噂という物は尾ヒレが付くもの。早急に対処する必要がありますね?」
「……誰がそういう事をしたんだい? それで君はどうするつもりだ?」
「……休暇を頂けませんか?」
「……それはエサかね? それとも他に何か?」
「両方です。とにかく俺より目立ちたいと思ってる連中には朗報でしょう。何ならそれに関して尾ヒレ付きの噂も流して煽ってみるのも一興かと」
「……例えば?」
「来週、奥様がお一人で出掛けられる『白菊会』総会後にちょっとしたアクシデントがあって、帰りが遅くなるんです。空白の時間があって、何故か奥様が一人で私のマンションに寝ているという……」
「……あまり良い噂ではないな」
「……じゃあ、秘書の土橋[どばし]にしますか? 彼には内緒ですが、良いネタもありますし……」
「……君と彼とは友人じゃなかったかね?」
「たまに飲みに行く程度で、ただの同僚ですよ」
「……君って人は……」
 中原はにやりと笑った。
「……ご子息を奥様が殺そうと画策なさっている、という噂に比べれば可愛い物ですよ」
「……悪い女ではなかったのだがな……」
「『身体』が?」
「……君はまたそういう下世話な事を……。全く、それで? 暁穂[あきほ]を陥れてどうしたいんだい?」
「『彼女』が暫く自粛して、自由に動けないようにして少し調査したいんです。過去や背後関係について」
「そんなものはとっくに済ませたよ。結婚前にね」
「穴があるかも知れません。実際先日の首謀者の一人である事は確実なのですから」
「……本当に確かなのかい?」
「……私をお疑いになるんですか?」
「……判った。『企画書』を提出しくれ。その後で結論を下す」
「了解しました。……良いご返事、お待ちしております」
「……君は本当に、ろくでもない事ばかり考えるな」
「貴明様ほどではありませんが」
「……褒めてないぞ、それは」
「……褒めていませんから」
「…………」
 貴明は溜息をつく。
「……とにかく、僕がOK出すまでは、行動しない事。……良いね?」
「……了解いたしました」
 わざとらしいくらい丁寧に、中原は腰を折った。貴明の大仰な溜息が、廊下に響いた。


 二〇〇五年、六月九日木曜日。

 朝からひどく最悪な気分で頭が痛かった。明け方前から降り始めた雨は、放課後になっても止む気配が無く。鬱陶しい事この上ない。憂鬱の原因はそれだけじゃなく、今日が俺、久本郁也[ひさもと・いくや]の十六歳の誕生日だというのが……一番の原因だと自覚していた。
 『普通』ならば、何故自分の誕生日に憂鬱になるのだと言われそうだが、俺の事情はごく普通一般とはかなり違う。俺の『父親』は『久本グループ』とか俗に言われる複数の会社のオーナーで、建設やら不動産やら人材派遣やら携帯ショップやらローン会社やら経営している。しかも、ワンマンで奴が一日休むと、そこら中で仕事が滞るという有様だ。……そのうち過労で死にやがれば良いと、俺は常々思っているが、奴は随分身体が丈夫に出来てるらしく、いつ寝てるかも判らないのに、平然とした澄まし顔で『やあ、おはよう』なんて朝食の席に着いていたりする。……けったクソ悪い事この上なくて、『いっぺん死にやがれこのクソジジイ』とか心の中で呟きながら、朝食を取る。
 そういう訳で俺の住む『家』はいわゆる『邸宅』という奴で、執事がいて、メイドが常時三十名はいて、ボディーガードが総勢百四十九名、運転手が総勢十八名、自家用車が七台、ってところだ。それ以上詳しい事なんか知らない。俺の仕事じゃない。そういう訳で、奴らの顔も名前もいちいち覚えちゃいやしない。執事の米崎[よねざき]と、クソオヤジの秘書土橋と、俺専属のボディーガード頭の中原龍也。この三人が何とか顔と名前が一致する連中か。そういう環境の俺が、ただの『誕生日』など迎えられる訳がない。おぞましい事に、今夜七時から『久本』系列のホテルを会場に、俺の誕生日という名目のパーティーが執り行われる。ぞっとする。……誰も俺の誕生祝いなんざどうだって良いのに、『おめでとう』と言われる為に、パンダと化して、スタイリストにまるでどこぞのアイドルのように飾り立てられ、にっこり笑って挨拶させられるのだ。延々と。九時まで。その間、お人形のようににっこり愛想笑いしながら、まるでホストのように来る客どもの世話焼いて、セクハラされてもやんわりいなして、やり過ごさなきゃならない。……それが俺の本当の姿なんかじゃなくても。吐き気がする。ぞっとする。気持ち悪くて、頭が痛い。おぞましい。……俺は不特定多数の人間が嫌いだ。人込みなんてぞっとする。ケツ撫でられても、ババアに色目使われても、取り乱さずに無難に対処しなくちゃならない。何故なら、奴らは久本グループの『大事な顧客』や『取引相手』だからだ。……奴らは『表面』は上品ぶっているが、『中味』はクソだ。ドロドロに腐った汚物。ぞっとする悪臭を振りまきながら、徘徊する生きる有機廃棄物。気持ち悪い。……吐きそうになる。
 どうしても迎えに来るとか抜かす、中原と執事に、『んな事しやがったら、首に縄付けてクレーンで吊り上げて家に火を付ける!!』と言い返して、俺は出て来た。冗談じゃねーよ。俺の通ってるのはごく普通の公立高校だ。そんなところへベンツやBMWなんかで迎えに来られてみろ。翌日には有名人だ。俺は人並み外れた美貌で衆目の的だ。それは生まれついての物で、今更どうしようもないが、その上『家』の事までバレてみろ。それこそ蜂の巣をつついたような騒ぎになる。……目立ちたくないとは言わない。それはもう、既に無理だ。母譲りの美貌と(不本意ながら)父親譲りのスタイルの良さで、俺はそこらの普通のアイドルよりも目立つ姿だ。モデルクラブのスカウトも珍しくない。俺は見ず知らずの他人に見つめられるのが嫌いだ。だけど、それはある程度諦めなければならない状態にある。だがこの上、金目当てや名声目当て、おこぼれ目当ての連中に取り囲まれるなんて冗談じゃない。そうでなくても俺は、そういう奴らの相手をある程度覚悟しなくちゃならないのに、『自由』である筈の学校生活でまで、そんな連中にまとわりつかれたくない。俺はそういうもの全てが厭だ。俺の母は『久本』の犠牲になった。『久本』に殺された。だから『久本』は敵だ。『家』も『会社』も『父親』も死んだ『前妻』も『後妻』も全て。俺は敵に飼われ、行動を束縛され、操られ、だけど心は反発しながら生きている。俺は『籠の鳥』だ。『籠』の中でならさえずる事を許される、僅かな『自由』のみを与えられている『籠の鳥』。空も飛べず、自分の思う事も叶えられず。
 殺してやりたい。奴ら全部。出来る事なら母さんと同じ栄養失調、肺炎で。監禁して、食事を与えず、放置して。衰弱して死に至るまで、冷たい地下室で。悲鳴を上げても誰にも届かない、そんな絶望を与えてやりたい。真っ暗で冷たい闇の中で。誰一人助けてくれない、恐怖と絶望と狂気、そしてやがて来る虚無。俺がかつて味合わされたもの。母より多くの食料・水を与えられた俺は、そうと知らずに一人、生き延びた。三ヶ月の監禁の後、発見された俺達は病院にすぐ収容されたが、その時は既に一方は遺体となっていた。……母さんは俺の目前で死んだ。それからの記憶は曖昧だ。気付いたら病院にいた。そこで初めて『父親』久本貴明に会った。死んだと聞かされていた、俺の本当の『父親』に。
 母は『父親』の『愛人』の一人で、『俺』は唯一の『息子』だった。その事を俺はその時初めて知らされた。それだけでも、腸が煮えくり返ったのに、俺達が『監禁』された『理由』すらそいつにあったと知った俺が、許せる筈もなかった。その『黒幕』が『本妻』らしいと気付き始めた頃、『本妻』は原因不明の『落石事故』で年若い愛人と共に『転落死』した。……俺は何も要らなかった。母さんさえ傍にいてくれれば、それ以上の物なんて何も欲しくなかった。母さんは、奇跡のように美しくて、たおやかで華奢で儚げで、凛としていて聖母のように優しく穏やかな人だった。彼女の微笑みが、俺の『全て』だった。彼女の記憶が俺の『宝石』だった。それを奪われてまで、生きていたくなど無かった。それを失ってまで生きたいとは思わなかった。あの日から、俺は迷宮を歩き続けている。出口のない真っ暗闇の。
 俺に刃向かう力はなかった。自分の身すらどうにもならず、母を救うどころか助けになる事すら出来やしなかった。俺は無知で無力で脆弱で、彼女の足手まとい以外の何物でもなかった。絶望的なくらいに。なのに、母さんの最期の言葉は『ごめんね』だった。……それこそ俺の台詞だ。少なくとも、『久本貴明』の『息子』である『俺』がいなければ、母高木沢佳子[たきぎざわよしこ]がそんな目に遭う事はなかった。……誰も救ってはくれなかった。誰も助けてなどくれなかった。俺はあの日から、憎悪と殺意と狂気を抱いたまま、生きている。『真実』なんて今更、何がどうあろうと手遅れに過ぎないのに。俺の欲しかった物は永久に失われた。俺の望む物は永遠に失われた。今更どんな美辞麗句も富も名声も、全て無意味だ。……壊してやる、全部。『久本貴明』が後生大事にしている全ての物を。そして奴自身を地獄へと葬り去ってやる。ただでは殺さない。世の中を恨み、呪い、罵りながらやがては絶望と恐怖と狂気を味わいながら。いつか、悪夢のように殺してやる。それが俺の復讐。……いつか、必ず。それがやれるだけの力を手に入れて。その為に、今は生きていてやる。都合の良い道具のフリをしてやる。……全ては奴を殺す未来の為に。吐き気と嫌悪に苛まれても。
 一人、歩いていた。いつも通りの通学路。公園脇の歩道。梅雨の雨はしつこくまとわりついて、じめじめしていて鬱陶しい。そんな中、俺はふと左斜め前方を見て、どきりとした。
 それは『不覚』と言うより他になかった。自己嫌悪に陥るくらい愚かしく、更に言うなら悪趣味としか言いようがなかった。……全く冗談じゃなかった。……全て、後の感想。
 俺は思わず凝視してしまった。公園の屋根付きベンチからは死角になる、歩道の電柱脇。頭から爪先まで、全身びしょ濡れで。彫像のように立つ、ポニーテールの少女。『美人』なんかじゃなかった。顔立ちそのものはごく普通で平凡で、全然大した事無かった。なのに、ぞっとするほど強烈な目で、一点を息が凍り付きそうなほど、真剣に見つめていて。その両の目からは、音もなく涙が流れていて。声一つ上げず、すすり上げもせず、ぴくりとも動かずに、ただ凄絶に、涙だけを流していて。足下を強烈に揺さぶるような、そんな物凄い目をしていながら、少女は彫像のように静かだった。静かなのに、強烈な迫力があって、ぞっとして激しく揺すぶられた。キッと結ばれた口元からは何もこぼれ落ちない。その顔はどちらかと言えば醜悪にも見えるのに、毅然として揺るぎなく、心臓を鷲掴みにされる気分だった。
 少女の視線の先に、同じ年頃の少女と二十代半ばから後半くらいの男。……どちらの少女も俺と同じ八剣浜[やつるぎはま]高校の制服を着ていた。ポニーテールは一瞬誰だか判らなかったが、屋根付きベンチで話してるロングヘアには心当たりがあった。Dクラスの中西聡美[なかにしさとみ]。同じ学年で容姿Aランクの美少女だ。ただし、人付き合いがかなり悪く、たった一人としか言葉を交わさない。愛想の悪さは校内一。……それでようやくポニーテールの方が判った。その『親友』の太田知子[おおたともこ]。だが、こんな顔だったろうか? 記憶にあるそれと確かに同じ顔だ。その筈だ。ただ、表情がまるで別人。俺の知ってる『太田知子』は愛想が良く、面倒見の良い優等生で、少々毒舌家で厳しい性格ではあるけれど、さばさばしていてきっぱりしている──そういう人間だった筈だ。……じゃあ、一体あれは誰だ? 醜くおぞましい、強烈で劫火のようで鋼のようで、氷の剣のようで──何かまるで全く違う生き物のように。全身が震えるのを感じた。足下さえぐらつくような『それ』を、身体の心が冷たくなるような恐怖に近い感情を、何処か呆然とした頭で震えながら感じていた。……何なんだ!? 『これ』は!!
 半時の後、少女がぐっと何かを堪えるような顔をして、こちらには気付かぬまま、静かに立ち去るのを見るまで、俺は動けなかった。
 『最悪』だった。本当に間が悪かったと、魔が差したとしか言いようが無く、俺は本当に絶望的な思いになった。己の悪趣味さに歯噛みした。この俺が、選ぼうと思えばどんな女でも選り取りみどりなこの『久本郁也』が、よりにもよって『親友』の『彼氏』に『横恋慕』する女に『一目惚れ』、しかも『片想い』……とは。
 悪趣味以外の何物でもなかった。

「遅いお帰りでございますね、郁也様」
 いつも通りの無表情でそう、俺を出迎えたのは執事の米崎。五十歳前後で、一応妻子がいるらしい。が、俺は興味ないし見た事もない。同じ敷地の別棟に住んでいるようだが。他の連中には愛想笑いで安心させ、『慰める』という名目で相手に愚痴を言わせ、それら全てを『主人』に報告するという悪趣味な男だ。俺にはどうも信じられないが、使用人達には信用の置ける穏やかな男に見えるらしい。単に、飴と鞭の使い分けが出来て、表裏が激しいだけだと思うが。『久本貴明』の幼なじみというだけあって、性格の悪さは天下一品だ。
「……俺は何かと忙しいんだ」
 言い捨てると、
「ほう、それはそれは。部活動もしてらっしゃらないのにお疲れ様です」
 『穏やかな微笑』を浮かべて言ったりする辺り、相当ヤな性格だと思う。
「もう五時半を回っております。スタイリストも参っておりますので、ご用意を。貴明様と暁穂様は下準備の方もございますので、お先に会場へお出掛けになりました。今回のパーティーの主役は郁也様ですので、くれぐれも中座なされたりせぬよう、ご注意申し上げます。それから、久本家のご子息としての、自覚ある行動も宜しくお願い申し上げます。当然ご理解されている事と存じ上げながら、口うるさくも申し上げるご無礼、なにとぞご理解下さいませ、郁也様」
 厭味ったらしいジジイだ。くそっ。……それは何か? 前回、前々回と続いて頭痛を口実に途中で引き上げた俺への『釘』のつもりか? 『牽制』のつもりか?
「皆様は、郁也様の御為にわざわざいらっしゃるのですから、その事をお忘れなく。それから会場の方で大事なお話もございますので、そのおつもりで節度を守って宜しくお願い致します」
「……大事なお話、だと?」
「私はその内容について貴明様より詳しくお伺いしておりません。ですから、お早めにご用意なさって、貴明様より直接お伺いして下さいませ」
 そう言って、米崎は目を伏せた。もう俺とは喋る事が無いという意味だ。十年ばかりの付き合いで、説明されなくてももう判る。濡れた鞄とコートを押し付けて、二階自室の続き間へと向かう。
「……郁也様」
 気配もなく、階段脇に立っていた長身の男。伸ばし掛けの半端な長さの黒髪を後ろ一つに束ねた、逆三角形の見事な体格。一重瞼に切れ長の瞳、日に灼けた肌。高くすっと通った鼻筋。少し厚めの唇。黙って立っていれば、不本意な事に──俺には負けるが──結構な色男。……ボディーガード頭の中原龍也。
「……だからお迎えに行くと申し上げましたのに」
 唇だけで笑って言って。
「……ふざけるのも良い加減にしろ」
 俺は言い捨てる。
「……お前、俺に小中学校時代の二の舞をさせる気か?」
「別に差し障りはございませんでしょう?」
「……本気で言ってるか? それは」
「嫌がってるのは郁也様ご本人のみでしょう?」
 俺が厭がってるだけならそれで良いのか!?などと激昂して、中原を喜ばせる気はなかった。この男は俺を怒らせるのが趣味としか思えないような事ばかりする。最悪に悪趣味な男だ。……だから無視する。
「……そうでした。忘れていました、おめでとうございます、郁也様」
 無言で睨む。
「郁也様もいよいよ十六歳。『久本』の『家』では男子十七になる前に、婚姻相手を決める習い。良いお相手のある事を、私不肖中原、心よりお祈り申し上げます」
「何だと!?」
 それが奴の望みと知りつつ、声を上げずにはいられなかった。案の定中原はにっこり嬉しそうに笑った。
「……おや、ご存じありませんか? 今夜はあなたの婚約者選考会でもあるのですよ? そのおつもりでいらっしゃらないで、どうなさるおつもりですか?」
「!?」
 すると、中原はにやりと笑った。
「……まあ、ひょっとしたら『本命』は既に貴明様の胸の内で決定してらっしゃるのかも知れませんが」
「……っ!!」
「……さあ、そろそろ準備なさって下さい。ゆっくりしてらっしゃると、すぐに時間になりますよ」
「…………っ!!」
 キッと睨んで、続き間に入る。衣装が用意されている。それを身に付け、部屋を出てすぐ右の衣装部屋へ入る。そこには『俺専用』のクローゼットと鏡があり、スタイリストがスタンバイしていた。俺が無言のまま、鏡の前の椅子に座ると、スタイリストも無言で俺に駆け寄り、ネクタイを直したりした後、俺の髪をセットしドライヤーで仕上げ、眉や顔の手入れをする。何度も全方向からチェックし、ようやくOKが出たらしい。やっと俺は解放された。その間、一言も会話は無かった。いつもの事だ。俺はそのまま無言で立ち上がり、部屋を出る。そこには中原が立っていた。新しいコートを持つ中原の横を立ち止まりもせず歩き去り、階下へ向かう。中原はその巨体からは想像もできないくらい静かに気配無く、俺の背後をぴったり付いてくる。背後に誰かが立つのが嫌いな俺だが、中原だけはその不快感を感じさせない。……ただ、奴の場合、存在そのものが『不快』だったりするが。
 玄関前の廊下に米崎とメイド達がずらりと並んでいた。
「いってらっしゃいませ、郁也様」
 振り返りも返事もせずに通り抜け、玄関前に立つ。メイドが俺に靴を履かせ、中原がコートを着せ掛け、両扉のドアが開かれる。前方と両脇にボディーガードが駆け寄り、中原はそのまま背後について、外へ出る。玄関前のポーチにコンチネンタル。いつも通りの大仰さに一人溜息をつく。
 ボディーガードの一人が車内をチェックした後、中原がわざわざ俺の手を取って車内へ乗り込む。
「……中原
 中原は返事しない。俺を座らせ、何食わぬ顔で隣から俺を振り返る。……やめた。こいつを喜ばせるだけだ。……この変態が。
 それ以上何も言わずに前方を見る。ボディーガードが全員乗り込み、車が走り出す。俺は他人の気配や視線が鬱陶しくて、無言で目を瞑る。吐き気と頭痛がする。……頭から、先程の光景──太田知子の顔が消えなかった。今も。鮮やかにくっきりと。向こうは恐らくあの場に俺がいた事も、気付かなかっただろうに。バカだ、俺は。どうしようもなく。俺は俺の意志さえ許されず、俺じゃない奴にどうこうされる立場で、目的を果たせる状況では到底無く、我慢と忍耐に耐えながら、他の事なんか考えてる暇もなくて……なのに。
 バカじゃないのか? ……うんざりする。何もかも引きちぎって、自由になれたら。……何考えてるんだ、俺。今更。……とっくの間に判ってた筈だ。久本貴明は決して俺を自由にしたりしない。奴にとって俺が必要ない人間になったとしても、決して。用済みになれば、役に立たなくなれば、殺されるだけだ。そんなことはこの十年で思い知らされた。穏和で害のなさそうな笑みを浮かべながら、冷酷に人を突き落とせる男。奴にとって自分以外は、全てスペアのある人間だ。誰にも拘らない、何にも拘らない。容赦なく切り捨てる。……救われたいだなんて考えるのは、愚かしい事だ。幸せになりたいだなんて、バカな考えだ。俺を救うのは、強大な力だけだ。俺自身だけが俺を救う。他力本願なんか、一生報われやしない。力を手に入れて、『敵』を殺す。それで良い。それが俺の『道』だ。
 頭痛が治まらない。気分が重い。吐き気がする。……『普通』の奴は良い。俺は『普通』が良かった。こんな俺に憧れたり、羨ましがったりするバカもいるんだから、世の中どうかしてるとしか思えない。……お仕着せの婚約者? 今時そんな世界が何処にある? ……俺の『世界』では『久本貴明』が『帝王』で、他の人間は意見すら許されてない。『帝王』は唯一絶対で、それが倒れない限りは『帝王』の意見は絶対服従しなきゃならないらしい。
「……具合でも悪いんですか?」
「……そうだと言ったら帰って良いのか?」
 言い返すと、中原はにやりと笑った。
「ご冗談を。かかりつけの医師を呼んで、時間までは保たせますよ」
「……だったら聞くな」
 吐き捨てて、目を伏せる。誰も見たくない。何も見たくない。何も聞きたくない。
「……後見を付けておくのは悪い事ではありませんよ、郁也様」
「……何の話だ」
「……一生にせよ、一時的にせよ、『仲間』を作っておくのは悪い事ではないと申し上げてるんです。『恩』を売っておくのも悪くないでしょう?」
「……不穏な発言だな?」
「……報告なさいますか?」
「それは俺の『仕事』じゃない。ここにいる他の誰かがやるだろう?」
「……成程」
 満足そうに中原は笑った。
「……やはり私の見込んだ通りの方だ」
  無視する。
「……あなたさえその気なら、ご協力いたしますよ? 郁也様」
「……何の話をしてる? 中原」
「……別に、言葉通りの意味ですよ。ご心配なく」
「……『仕事』だけしてろ。それ以上の事など必要ない。ただの使用人風情で。クビにされたいのか?」
「……ところが、十年前からクビにしていただけるようお願いしているのに、そうしていただけないんですよ」
「……クビにされたいのか?」
「……そう見えませんか?」
 何考えてるか、判らない。真顔で。……コイツに構う方がバカだったんだ。口が過ぎた。
「……平和よりも、波風立ってる方が、人生楽しくありませんか?」
 そんな事考えるの、お前だけだ。大体お前は自分の人生よりも、他人の人生に波風立てたいだけだろう。無責任に騒ぎ立てて、後の始末などどうだって良くて。
「……血を見る人生の方が、面白いでしょう? 私はもっと紅い血が見たいと思いますね」
「……俺に言うな」
「……見たくありませんか?」
「ない」
 すると、くっくっと中原は笑った。
「……それは失礼」
 何を考えてるのやら、全く不明だ。どっちにしろ、想像もしたくない。……コイツは単に自分の暇つぶしに俺を巻き込みたいだけだ。冗談じゃない。俺は他人の玩具になる気など毛頭ない。
「……中原、お前俺を一体何だと思ってる?」
「……大切なご主人様ですよ、郁也様。正確にはその『ご子息』になる訳ですが」
「…………」
「あなたからは給料頂いておりませんが、少なくともこの世で一番大切な方ですよ」
 ……嘘寒い台詞。俺は顔を背けた。窓の外を流れ行く景色。俺とは無関係に存在する。憂鬱。注がれる視線。うざったくて、目を閉じた。

To be continued...
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