NOVEL

一滴の水 -4-

 難しく物事を考えるのはやめよう。どうにもならないことをどうにもならないと悩んでたって、仕方ない。俺は、俺のできることをやることにしよう。……でも、それが一番、重要で、問題なのだけど。
 待ち伏せ──やっぱり、自宅で待ち伏せってのは、怪しすぎるだろうか? もしかしなくてもストーカー? それはまずい、と思うけれど。彼の電話番号も住所も知らない俺が、彼に連絡を取る方法というのは、直接会うことしかなくて。唯一知っているのが、自宅の場所だけ、となると必然的にそうなってしまう。……ぐだぐだ考えるのはやめようとかいって、本当に、俺は、どうしようもない。優柔不断で、くよくよしていて、自信なくて。迷いと焦りと愚痴ばっかりだ。……何故なんだろうな。こういうの。俺は自分がこんなに不甲斐ない人間だとは思わなかった。本当に、頭で物を考えるのは、至極苦手なのに。頭でばかり物を考えてる。結論が、結果が、未来が見えない。こんなことは、初めてだ。今までは、努力さえすれば、結果は自然とついてきた。でも、人の心は、努力でどうにかなるものじゃない。だから、俺は不安になって、迷ってる。いつまでも、同じところをぐるぐる回って、その先にちっとも進められずにいる。……情けなくて、自分のことながら、少々呆れたりもして。
 何故、俺は千堂水穂さんを──彼のことを、好きだと思ったのだろう? 初めて会った時のことを思い出す。彼は、店内へ入ってきた時から、ずっと、哀しそうだった。哀しそうで、淋しそうで、どこか諦めてる──そういう感じがした。キレイだけれど、線が細くて陰のある人だな、と思った。儚げな花のような。夜の似合う──そういう感じの。何故、そんなに哀しそうなのだろうと、淋しそうなのだろうと、ふと思った。だから、連れの人が来た時に、こっそり聞き耳を立ててしまったのは、偶然じゃない。たぶん、俺は一目惚れだったんだ。だから、その台詞にはとても腹が立った。

『……次に会った時は、赤の他人同士だ。お前も早く次の見つけろよ』

 腹が立つというよりは、悔しかった。無神経で、あまりにも、思いやりがなくて、でも、それ以上に、その男が、彼に『そういう台詞』を言えるような関係で、それなのに、彼をあっさり振ろうとしていることが、だ。彼の心情を思い計って、というよりは、自分自身が腹を立て、逆上したから。感情のままに行動した。後先なんて考えなかった。それは、間違いなく嫉妬と羨望が八割を占めていて。傷付いた彼の瞳を見た瞬間に、それが爆発した。あの男が許せない、と思った。絶対に許せないと。彼が、あの男を許したとしても、俺はとても許せなかった。俺がバイトで、相手が客でなければ、たぶん間違いなく殴っていた。誤ったふりでブランデーを頭から浴びせただけでも、かなり自制心と理性が働いた方だと思う。それは保身だ。結局、クビになったけど。でも、それは全然構わなかった。ただの自己満足で、報われる必要などない。ただ、あの人の心を、癒したかった。それが無理なら、少しでもその痛みを和らげたいと願った。彼は、涙は浮かべていなかったが、泣いていた。だから、言わなくても良い一言をつい、言ってしまった。

『……あなたが泣きそうな気がしたから』

 泣いた彼は──千堂さんは、キレイだった。キレイだけど、哀しく、淋しくて。たぶん、俺の手には届かない存在。俺はお節介で、立場をわきまえない、傍観者で、赤の他人。彼を好きだと思うことも、そう告げることも、身の程をわきまえない所業で、図々しいのかもしれない。……そう思っても、気持ちは止められなかった。それくらいで諦められるくらいなら、最初から、声などかけはしなかった。
 そう。俺の心はあの時既に決まっていたんだ。ただ、いつまでもぐずぐずとためらって、迷っていただけで。スタートを知らせるホイッスルは既に鳴らされていた。あとは、飛び込み台から飛び込んで、まっしぐらに目指すだけだ。水泳選手ですらない俺は、速く泳がなければならない必要も、必然も無い。ゆっくりでも良い。急ぐ必要などない。でも、諦めるのは──性に合わない。どうしても駄目だと、拒絶されるまでは、頑張ってみよう。
 俺は煙草を吸う趣味は無い。酒もそれほど強いわけじゃなかった。特に趣味は無く、勉強が得意というわけでもなく、唯一の取り柄が水泳だった。他には何もない。壁に寄りかかって、ただひたすらじっと待つ。千堂さんのことを、想いながら。なんだかそれだけで、ひどく幸せな気がした。
「……君は……」
 そう呟き、立ちつくしたのは、千堂さんだった。
「すみません。あなたの連絡先を、知らなかったので」
 彼の目を見つめながら、そう言うと、千堂さんは、そっと目線を逸らし、俯いた。
「ああ。……そう言えば、上着を置いて行ったな。……取りに来たのか?」
「上がっても、良いですか?」
 下心は、十分過ぎるほどある。けど、だからといって、何かしたいとか、そういうことを考えてるわけじゃなかった。ただ、彼と話をできたら、それで良かった。それ以上のことは、したくないと言えば嘘になるけど、そこまでは求めていなかった。
「……君は、いつもそうやって、男を誘うのか?」
 警戒されてる? 千堂さんは、視線を逸らしたままで言った。
「俺は、男も女も、口説いたことはありませんよ。これまで、ただの一度も」
 本当のことだ。だから胸を張ってはっきり言えた。
「……君は、俺をからかってるんじゃないのか?」
「何故?」
 聞き返すと、千堂さんは、頬を赤らめた。
「……その、つまり……俺と木暮の会話を盗み聞いて……それで……」
「俺、冗談は言いませんよ」
 きっぱり言うと、千堂さんは、泣きそうな顔になった。
「でも、だったら何故……」
「好きなんです。本気で。……一目惚れで。駄目ですか?」
 駄目だって言われたら、どうする気だ、俺。そう思いながら。
「迷惑ですか?」
 迷惑だって突き放されたら──俺、泣くかも知れない。情けないけど。
「……とりあえず、入って」
 そう言って、彼は、俺の前を横切り、鍵を開けた。
「……良いんですか?」
「こんなところまで来ておいて、何を言ってるんだ。……今更だろ?」
「ごめんなさい」
「大きな図体で、縮こまるな。……姿勢悪くなるぞ」
「はい」
 頷くと、千堂さんは奇妙なものを見る顔で、俺を見た。
「……随分素直だな」
「え?」
「……まあ、いいか。入れよ」
ドアを開けて促されて、先に中へ入った。昨日見た室内と、そう変わっていない。きょろきょろしていると、ぐい、と肩を掴まれた。
「あっ……えっ?」
「そっちは寝室だ。居間はこっちだ」
「あ。ご、ごめんなさい!」
 慌てて指示された方へと向かう。そして、居間のソファへと腰を下ろした。
「どうする? 何を飲む? ブランデーはいける口だっけ?」
「あ。アルコールは……そんなに、長居するつもりもなくて。それに、お話したいので」
「話? アルコール抜きでか? アルコール抜きの話なんて、借金の申し込みか、何かの売り込みとか、そういう類だろ?」
「え? そうですか? いや、俺は別に、そんな風には思わないですけど」
「素面で? 何の話をするって言うんだ?」
 千堂さんは少し意地悪な表情で、笑って言った。
「……俺、千堂さんのことが、好きなんです」
 かしこまって言うと、千堂さんは苦笑した。
「……俺と、したいの?」
 何を、と尋ねかけて、次の瞬間、意味を理解して、かあっと頬が熱くなった。
「ちっがっ……!!」
「違う? セックスはしたくないけど、好き? それは友人として付き合いたいってこと? それとも、興味本位か?」
「違います!! 俺はっ……俺は千堂さんが好きなんです!! 一目惚れで、初めて会った時からずっとです!! でも、だからって今すぐあなたをどうこうしたいとか、そういうんじゃなくて、俺はただっ!! あなたと、お話がしたくて……っ!!」
「なんだ。『代わり』になってくれるんじゃないのか」
「……『代わり』?」
「そう。……木暮の」
 その瞬間、激しいショックを受けた。
「なっ……!?」
「俺の淋しい身体を慰めにきたとか、そういうんじゃないだろ?」
 千堂さんは冷笑した。自嘲的にも、卑下するようにも見えるけど──それ以上に見える感情は『軽蔑』。
「俺は……っ!!」
 泣きそうになった。ひどく、泣きたくなって。怒濤のように、感情が溢れ出して、俺は暫し絶句した。
「そんなっ……そんな風に……っ!!」
 ただ、あなたのことが好きで。
 あなたと近しくなりたくて。
「……俺はただ、あなたのことが、好きなだけなのに……どうして」
 苦しくて。
 胸がとても苦しくて、声が掠れる。
 胸が圧迫されて、押し潰れそうに、痛い。
 呼吸が苦しくて。
 まるで全身が水に包まれたように、冷たくて。
 手足が上手く動かない。
 ……水に、溺れでもしたように。
「どうして、そんなこと言われなくちゃならないんですかっ!?」
 悲鳴を上げる。
 苦しい。
 死にそうに苦しい。
 生まれてこの方、水に溺れたことなどただの一度も無かったのに。
 水のように押し寄せる感情に、覆い尽くされて。
 身体の中から溢れた水に、埋め尽くされて。
 とても、苦しい。
 窒息しそう。
「……どうして、そんなに苦しそうな顔されなきゃならないんだ」
 千堂さんは呟いた。
「それじゃまるで、俺が極悪人みたいじゃないか」
 吐息のように。
「来いよ」
 千堂さんは、俺に向かって右手を差し伸べた。きょとんとする俺に、微笑みかける。
「……悪いけど、俺、相手が誰でも良いと思える程度には荒んでるんだ。俺を好きだといってくれる男なら、誰でもな」
「……え?」
「それで良ければ、相手してやるよ」
 それってつまり。
「しようぜ?」
「ちょっ……待っ……せっ……千堂さん!?」
「お前がイヤだって言ったら、他の男とする。……どっちが良い?」
 そんなの。
「厭だ」
 考えただけでも。
「でも、俺!! 千堂さんが俺じゃなくても良いなんて、そんなのも、厭です!!」
「……疲れてるんだ」
 千堂さんは、本当に疲れ切った声で言った。
「恋愛とか、そういうのに、もう精神力使いたくないんだよ。そういうの、疲れた」
「…………」
「好きとか嫌いとか、惚れたはれたなんて……どうだって良いよ。そういうのにもう、振り回されたくない。面倒臭い。……別に振られるのが恐いとか、そういうわけじゃない。うんざりしたんだ。疲れたんだよ。ただでさえ仕事で疲れてるのに、学生時代みたいに、そんなことばっかりで頭いっぱいになんかしてられない。そういう無駄なことに力使いたくないんだよ」
「……俺じゃ、駄目ですか?」
「……君が? 一体何を? 俺の身体の慰め役になる以外のどんな役に立ってくれるっての?」
 千堂さんは乱暴な口調で、意地悪な顔で笑って言う。
「俺はあなたを潤す、一滴の水になりたい」
「……え?」
 千堂さんは、きょとんとした顔になった。
「あなたを癒すことまでは出来なくても、あなたの心を救うことなど出来なくても、それでも、俺はあなたを潤す千万、千億の水の中の、たった一滴で良いから、そういう存在になりたい。……駄目ですか? そういうの」
「…………」
「……迷惑、ですか?」
「……君は……」
 驚いたように、千堂さんは、俺を見つめる。
「本気で?」
「はい」
 俺は頷いた。
「俺は、千堂さんのことが好きだから。ちょっとだけで良いから、笑って貰えると、嬉しいです。作り笑いとかじゃなくて、心の底から、幸せそうな、そういう笑顔が見たいんです。今はまだ無理でしょうけど、いつか、そういう顔を見せてもらえますか? 見返りなんて無くて良いから」
「……君は、どうして」
 千堂さんは、困ったような、ちょっと泣きそうな顔で、俺を見た。
「どうして、そんな風に思えるんだ?」
「それは、千堂さんが、好きだから」
「……俺は、君に好かれるようなこと、何一つしてないんだぞ? それでもか?」
「はい。俺、実はこれが初恋で。全然経験ないんですけど」
「……ちょっ……待っ……正気か!?」
 ぎょっとした顔で、千堂さんは、俺の顔を凝視した。
「待ってくれよ!! ……それで、本気で俺が良いって言うわけ!? 冗談だろう!!」
「……駄目ですか?」
「駄目っていうか……俺は、そんなおキレイな人間じゃないんだよ。セックスもしないで、男とまともに付き合ったことなんかないし。俺にとって好きと言ったら、最初からセックスと同義語だったんだ。だから、そんな、『見返り無くて良い』だなんて、そんなの、重いよ。そういうの、経験ないんだ」
「……じゃあ、セックスさえすれば良いって言うんですか?」
「なんでそんな泣きそうな顔するんだよ!!」
「だって、俺……そういうの全然経験ないし……やれと言われても、自信ありません」
 そう言うと、千堂さんはぷっと吹き出した。
「何だよ、それ。そんなの気にしてるのか?」
「だって、俺、足を故障するまでは水泳一辺倒で、まともに恋愛なんかしたことないし……」
「男どころか、女と付き合った経験もろくろくない?」
「……はい」
 恥ずかしかったが、それは、本当のことだ。でも、自然、顔は俯いてしまう。
「……気にするな」
 千堂さんは、優しい声で囁いた。やけに声が近すぎる気がして、どきりとして顔を上げると、千堂さんの顔が間近にあった。
「えっ……あのっ……!?」
「知らないなら、教えてやるよ。そういうの、得意だから。童貞は初めてだけど、そういうのもたまには良い」
「えっ……ちょっ……せっ……千堂さん!?」
 次の瞬間、ソファの上に押し倒されていた。
「ちょっ……待っ……!?」
「結構ぞくりときちゃったからさ。お前は、俺のリードするままに、従うだけで良い。素面でもいいや。やろうぜ?」
 そう言って、唇を落とされる。思わず呼吸を止めて、その柔らかい唇の感触に、気が遠くなりかける。
「ちょっ、こら!! 鼻で呼吸できるだろ!? 無駄に息を止めるな!! キス経験すらろくにないのか?」
「すみません、初めてで」
 正確には、先日、瀬川にそのファーストキスを奪われたところだったけど。しかも、今日だって、その瀬川にまたキスされたのだけど。……言わぬが花だ。それに、あれは本当の意味での、キスじゃない。
「仕方ないな」
 くすり、と千堂さんは魅力的に笑って、言った。
「唇、少し開けてみろ」
「え?」
「ちゃんと鼻で呼吸しろよ?」
 そう言って、顔を近付けてきて、唇を合わせ、舌を滑り込ませてきた。
「っ!?」
 千堂さんの舌が、歯列を、上顎を、舌の上を撫で、俺の舌を絡め取って、音を立てて吸った。ぞくぞくと、甘い痺れが下の方から上がって来て、俺はびくりと身を震わせた。千堂さんは苦笑しながら、唇を離した。
「……確かにこれで、今すぐセックスとかは、無理そうだな」
「あっ……えっ……そのっ……!!」
 千堂さんは苦笑して、ちゅっと音を立てて、唇を押しつけ、すぐ離れる。心臓がドキドキバクバクして、千堂さんの顔がろくろく見られない。俺が視線を彷徨わせ、狼狽えていると、千堂さんは俺の顎を掴んで、正面から視線が合うように、固定した。
「……せっ……んどう……さ……んっ……!!」
「これくらいでそんなに興奮されると、こっちもたまらないんだけどな?」
「すっ……すみませんっ!! でっ……でも俺……っ!!」
「ふふ。何か、いたいけな子供騙してるような気分になってきた。アルコールも入ってないのに、酔ってるみたいだよ、俺」
「せ……っ……千堂さ……っ!!」
 千堂さんは笑って、おもむろにしゃがみ込んだ。まさか、と思った瞬間、ジッパーを下ろされる。
「あっ……ちょっ……それはっ……!?」
 悲鳴を上げた。千堂さんは俺の動揺などお構いなしに、『それ』をくわえた。しんと静まり返った部屋に、濡れた音が、響き渡る。くらくらしそうな頭を抱えて、俺は呻いた。駄目だ。とても正視できない。一体何故こんなことになったんだ、と思う。俺はただ、千堂さんに好きだと言いたかっただけなのに。
「あっ……あのっ、せっ……千堂さんっ!!」
「え?」
 千堂さんはゆっくりと顔を上げた。濡れた瞳と唇がとてもなまめかしい。思わずぞくりとして、股間に更に血液が集まるのを感じて、羞恥で顔が熱くなった。
「……なっ、なんで、こういうこと、するんですか?」
「俺がしたいから。……駄目か?」
 首を傾げて、尋ねられる。……欲望を湛えた瞳で。凶悪だ。ぞくぞくするほど、キレイで。
「……えっ……なっ、なんで、俺……っ」
「欲情したから。……お前とやるの、楽しそうだし」
「ちょっ、待っ……待って!! そっ……そんな理由ですか!? 恋愛感情とか、何にも無しで!?」
「厭ならやめるぞ?」
 こ、この状態で、それはキツイ。はち切れそうなくらい、高ぶっていることなど、彼にも判っているだろうに、平気で千堂さんは、そんなことを言う。
「この状態で治まるわけがないじゃないですかっ!! そっ……そんなの、ひどいですよ!! 千堂さん!!」
「……だ、ろうな。俺も途中でお前を帰したくない。やる気満々だしね」
「えっ……ちょっ……千っ……!!」
 この場合、どっちが上なんですか、とか、もしかして俺が、とか、色々悶々と考え込んでいる内に、千堂さんは、また俺をくわえてしまった。
「……っ!!」
 舌と唇を存分に使って、千堂さんは、上から下までしごき、吸い上げる。ちゅくちゅくと音を立てて吸われて、腰が抜けそうだ。
「ぁっ……駄っ……!!」
 情けないくらいあっと言う間に達してしまって、俺は、ひどく泣きたくなった。そんな俺のはき出した物を全て飲み干し、口から零れた白濁を手で拭いながら、千堂さんは、にやりと笑って俺を見た。
「どう? 気持ちよかった?」
 判ってるくせに、わざわざ尋ねてくる。
「……すごく、気持ちよかったです」
「じゃあ、今度は、俺を気持ちよくしてもらわないとな」
「……っ!!」
 ふふ、と千堂さんは笑って、それから俺をおもむろにくわえる。さっきイッたばかりなのに、千堂さんが唇でしごき、舌で舐め上げると、瞬く間に硬度と大きさを増して行く。
「あっ……あのっ、せっ、千堂さんっ……!!」
「心配しないで。また俺が気持ちよくしてやるから。お前はマグロのまんまでいいよ。初めてだからサービスしてやる」
「あっ……えっ……!?」
 千堂さんは、俺の両足を跨ぐように座り、一気に自分の奥まで『それ』を埋めた。
「っ!!」
 苦しそうに軽く呻き、それでも濡れた瞳で、俺を見下ろす。
「せっ……千堂……さん……?」
「……こういう初めての男ってのも、結構良いかもな。思ったよりぞくぞくする」
「あの……っ」
「自分が挿れられると思った?」
 揶揄するような声に真っ赤になる。
「悪いけどさ、俺、自分の尻に突っ込まれて喜ぶ変態なんだ。期待に添えなくて悪かったな」
「そんなっ!! 俺はっ……そんな風には思ってません!!」
「ついでに言うと、男に嗜虐的なこと言われて燃えるタチなんだよ、本来。お前にそれを言えなんて言わないから、黙ってマグロになっておくか、少しでも協力する気があるなら、腰でも振ってみろよ。まあ、たぶん無理だろうけど」
 くすくすと笑いながら、千堂さんは言った。
 なんで。……なんで、こんなことになったんだろう。俺はまだ、混乱していて。でも、千堂さんがゆっくりと腰を引き、それからぐっと沈めると、そんなことはもうどうでも良くなった。
「……っ!!」
「なんだか、変な気分だよ、野間崎。俺の中にお前がいるのに、俺がお前を犯してるみたいだ。真っ赤な顔で、気持ちよさそうな顔してさ。……見た目大人っぽいのに、反応が十代の子供みたいだ」
「えっ……なっ……?」
 千堂さんは、ゆっくり沈めながら、ぐるりと円を描く。
「……ほら、判るか? 目を開けて良く見てみろ。俺の中に、お前のが入ってるんだ。身体で、その目で、指で触れて確認してみろ。処女みたいにガチガチに指握り締めてないでさ。ほら」
 腕を取り、その指先を、結合部へと導かれる。
「……ぁっ……!!」
 カァッと頬を染める俺に、千堂さんはにっこり微笑んだ。
「どうだ? ちゃんと入ってるだろ? 感想はどうだ?」
「あっ……えっ……そのっ……!!」
「お前の分身は、喜んで首振ってるぞ?」
「ぁああっ……!! せ、千堂さんっ……!!」
 あまりに扇情的で、なまめかしくて、挑発的で。くらくらする。頭の中が、どうにかなりそうに、沸騰している。まともな思考なんてできない。千堂さんが、ぎゅっと俺を締め付けて、軽く揺する。むず痒いような刺激がたまらなくて。俺は思わず呻いた。……なんか、すごく、気持ちよい、けど。
「目を閉じるなよ。……ちゃんと俺を見ろ。俺が、好きなんだろ? だったら、態度で示してみろよ?」
「だ、……駄目です。俺……刺激強すぎて……その……」
「何だ?」
「なんか、おかしくなっちゃいそうで……」
 千堂さんは笑った。
「なれよ? 今、おかしくならないで、いつ、おかしくなるって言うんだ? おかしなやつだな」
「だって……それじゃ……俺っ……!!」
 もどかしいくらいゆっくりした浅い動きが、たまらなく俺の脳神経を刺激して。……足りないと。これくらいじゃまるで足りないのだと。
「……あなたが、欲しい。欲しくて……どうにかなりそうだ……っ!!」
「どうしたい?」
 知識なんて何も無かった。経験もまるで無くて。……でも、肝心なことは、身体が、本能が知っていた。気付いたら、千堂さんの手を取って、身体を繋げたまま、逆に俺が彼を押し倒していた。驚いたように目を見開く彼に口付け、さっきからずっと望んでいたものを──自身の全てを彼の身体に埋め込むように、突き入れた。軽く悲鳴を上げて、仰け反る千堂さんは、キレイだった。苦しそうなその表情にすら、感じてしまう。あとはもう無我夢中だった。必死になって、彼を求めた。余裕なんてなかった。腰が、身体が勝手に動いた。求める気持ちは、欲望は、千堂さんでいっぱいで。彼の両足を大きく広げさせ、高く嬌声を上げる彼を、貫いた。その合間に、何度も、何度も、口付ける。
 ふと、これはバタフライみたいだ、と気付いた。手足を動かしたり、息継ぎしたりする必要が無いだけで。バタフライで泳ぐ時、初心者は状態やキックなどに、余分な力を入れすぎて、激しく浮き沈みしてバランスを崩しがちだ。でも、本当のバタフライの泳法には、力を入れる必要など無い。バタフライにはイメージとリズムと、腰の動きが大切だ。水の中で自由に泳ぐイルカや魚のような、自然な動き。バタフライで疲れるというのは、泳ぎ方がおかしいからだ。ちゃんと泳げば、平泳ぎよりも楽だと思う。勿論、平泳ぎとは比べ物にならないくらい、速く泳ぐことが可能だ。
 水を掻く代わりに、手の平で千堂さんの顔を撫で、息を吐いたり息継ぎする代わりに、口付ける。腰を大きく引いて、前に突き出す。その動きが、快感と、新たな熱を生み出し、俺を、支配する。
 水の中みたいだ、と思う。水の中にいるみたいだ。俺は自由で、かつてのように、自由自在に身体を、手足を、筋肉を、神経を動かすことができる。夢のように、幻想のように。俺は千堂さんの身体の中で泳ぐ魚だ。もっと奥へ、より深い快感を求めて、突き進む。全身に汗がふき出し、濡らし、滴り落ちる。髪の先からぽたぽたと落ちる雫が、千堂さんの頬を濡らし、流れ、伝った。
「千堂さ……んっ……!!」
「……野間崎」
 掠れ声で、千堂さんは呟く。
「……お前……初めてとか言って……嘘つき……っ」
 何を言ってるのか、判らなかった。
「……教える必要なんかないほど、すごくっ……上手いじゃないか……騙された……!!」
 嘘、なんて。
「嘘じゃないです。俺っ……!!」
 潤んだ瞳に、濡れた顔に、ぞくぞくする。
「本当っ……初めてでっ……!!」
「もういい。喋るな。……集中しろ」
 その言葉に、次の瞬間、没頭した。千堂さんだけを、強くイメージして。千堂さんの身体を、呼吸を、掠れた甘い声だけを、感じて。指を滑らし、胸を撫でると、びくりと千堂さんは震えた。俺は夢中になって、彼を貪る。貪欲に求めて、追い詰める。
「ぁっ……ぁあっ……ああーっっ!!」
 一際高い悲鳴を上げて、千堂さんは達した。きゅっと収縮されて、俺もほとんど同時に達した。
「あっ……」
 放出して、熱が、余韻が、引いてしまう。なんだかそれが悲しくて、淋しくて、千堂さんをぎゅっと抱きしめた。しっとりと汗で濡れた身体から、彼の体臭が立ち上る。その香りに、酔いしれそうになった。
「……嘘つき。何処が初めてだって?」
 ぶっきらぼうな口調で、千堂さんは掠れた声で呟いた。
「だって、本当に初めてで」
「嘘だろ? ちゃんとやり方知ってたじゃないか」
「だって……俺、無我夢中で……バタフライと同じだったから」
「バタフライ?」
「……俺、以前、水泳やってたんです。でも、靭帯切って、泳げなくなって。完治したけど、元の選手には戻れなくなったんです」
「…………」
「バタフライって腰を使って泳ぐんです。腰の動きで、水に潜ったり浮かんだりするんですけど……そういうの、判ります?」
「いや、全然。全く、さっぱりだ」
「腰や両手・両足・身体全体を使って、ウェーブを描くように動かすんです。こう、」
 さすがに水の中でもないところでキックまでは実演するのは無理だから、両手や膝・腰などを使ってフォームを実演して見せる。
「くねくねと」
「…………」
 ぽかんとした顔で、千堂さんは、俺を見た。
「バタフライってきちんと腰で浮上できないと、息継ぎの時に顔を大きく上げなくちゃいけなかったり、掻き手やキックに妙な力が入ったりして、ものすごく疲れるんです。だから、ちょうど、その腰の動きが……セックスする時の腰の動きに似ているな、と……思って……」
 俺の話を聞いてる途中で、不意に、千堂さんが大きく吹き出した。
「えぇっ!? なっ……なんで笑うんですか!? 千堂さん!!」
「おっかしい!! お前、変だよ、野間崎」
 くっくっと目に涙まで浮かべて、千堂さんは笑い転げた。
「なっ……なんでですか!?」
「……やっと判った。お前、真面目なんだな?」
「え?」
「……真面目すぎておかしい……ツボに入った……っ……くっくっく……うくくくく……っ!!」
 そ、そんなに笑われなければならないことだろうか? 俺はどぎまぎした。なんか変なことでもしたんだろうか。……判らない。
「まあ、いいや」
 何が良いのか、俺にはさっぱり判らない。
「付き合おうか、野間崎」
「え?」
「お前となら、これから何度しても良い。……良かったよ、セックス」
「……えっ……!?」
「とりあえず身体の相性は良かったからな。気が向いたらまた来いよ。お前の都合に合わせてやる。合鍵は必要か? 前のやつが使ってたので良ければ、一つ余ってる」
「…………え!?」
 俺は暫し呆然とした。
「いらないのか?」
「あっ!! いえ、いただきます!!」
 受け取ってから。
「ええと……その、付き合おうってもしや、恋人として?」
 どぎまぎしながら、質問すると、
「とりあえずは、セックスフレンドから。お前をそういう対象として愛せるかどうかは、現時点ではまだ良く判らないから」
「えっ……ぇええっ……ええっ!?」
 ショックで腰が抜けそうになった。そんな俺を見て、くすくすと笑いながら千堂さんは言った。
「ま、これからもよろしくな」
 そう言って、俺の手を握ると、千堂さんは、柔らかい笑顔で、微笑んだ。その笑顔はとても魅力的だったけど──俺はとても複雑な心境だった。
 こんなの結果でよいのだろうか。……いや、よくない。よくはないのだけど……。
「どうした?」
 今更拒否できるはずもなくて。
「俺を好きになる見込みってあります?」
「嫌いじゃないよ、お前のこと。むしろ好きに近い」
「……でも、俺のこと、そういう対象としては見れないってことなんでしょう?」
 千堂さんは微笑した。
「別に良いだろ? そんなこと」
「……俺は良くないです。俺は、千堂さんのこと、好きですから」
「じゃあ、俺を本気にさせてみろよ? そしたら考えてやっても良いけど?」
「…………」
 俺は諦めて、うなだれた。
「そんな顔するなよ」
「……誰のせいだと思ってるんですか」
 思わずぼやいた。すると、千堂さんは笑って言う。
「だけど俺、結構感動したよ? 『一滴の水』ってやつ。口説き文句としては、かなり上出来の部類じゃないか?」
「……でも、それで落ちてはくれないんでしょう?」
「何言ってるんだ。結構グラグラきたよ。じゃなきゃ、襲ったりしなかった」
 ……それって。
「期待しても良いんですか?」
「だからもっと、口説いてみろ。お前の口説き文句、もっと聞いてみたい」
 俺は本当に、複雑な心境で──喜ぶべきか、悲しむべきなのか、判らなくて──溜息をついた。

The End.
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