告別、不在、再会

#2



 そう、たまに思う。自分は所詮は負け犬なのかもしれない、ってね。
 はっきりいって、境遇は恵まれてる。最初に勢いをつけるためのお金は手に入ったし、それで変わった自分の体を資本に、変化を続けて行けるだけのお金も手に入った。
 でもそれだけ。
 何年も前、わざわざ外国まで行って、「これ」だけは残す選択をした時、私はもう負けてた。
 多分、心根が負けてたと思う。結局こんな歳になるまで、最後の一歩は踏み出せないままだし。

 切実な「なりたい系」じゃないけど、なれるものなら、なれたらいいな程度は思った。
 さっき言ったような、Hの話だけじゃないよ? ないものねだりに近いかな。
 だから最後の一歩をさっさと踏み出せば良かったんだけど、できなかった。

 怖いの。
 この一か所だけを直して、体全体の外観を女にしてしまうのは、正直簡単。すぐにでもできる。
 でも、それをしちゃうのは、すごく怖い。
 わかってると思うけど、親不孝だとか、体に手を入れるのが怖いとか、そういうのじゃないよ?
 だとしたらそもそも整形なんかしないし、刺青もピアスもしてない。

 私は多分、今いる中途半端な位置に甘えてるんだな、そう思う。
 完全に思い切って、女として生きて行けるか? って考えたら、無理。絶対無理。
 純女と同じ土俵に上がったら、善戦できるかすらわからない。というより、全く勝ち目ないよ。
 そもそも女になんて、なれっこないんだから。
 法律にそう認めてもらって、はいおめでとう、なりました。そういうものじゃないでしょ?
 想像してみようか。私が女になったら何ができるか。料理も洗濯も掃除も苦手だし、好きじゃないけど、まあ家庭に入ったとして、必要に迫られたら何とかする。これはOK。
 自分がもし女だったとしたら、結婚願望は多分あるかな。高望みしなければ、これもチャンスはあると思う。
 でもそこで最大の問題。
 私には、夫を父親にしてあげる事ができない。養子? そのへんは却下。

 もし女になるなら、なれるなら、そう考えたら、こういう結果になるわけ。
 所詮は偽物にしかなれない。姿形を真似しただけの偽物にね。

 どれだけ頑張っても偽物にしかなれないと分かってて、なお全力を尽くしてる人には、かなわない。
 これ嫌味じゃないよ。本当にそう思ってる。私にはそんな根性ない。


 アリシアは、途中何度も黙り込んだり、ワインを飲んだり、煙草に火をつけたりしながら、語り続けていた。
 男は、途中に何度か相槌を入れつつ、アリシアの言葉を聞いていた。
「大体こんなところかな、私が最後の一歩を踏み出さない事と、自分が負け犬と思ってる事についての真相は」
「山頂から登山者に向かって、登ってきても別に面白くないぞ、って言ってないかい」
「ここが山頂かどうか怪しいけど……別に面白くないよ、実際」
 アリシアは鼻で笑った。
「そもそも同じ山を登ってるわけでもない気がする。私は、富士山の山頂から、エベレストのアタックキャンプにいる人を笑ってる、ただの馬鹿かもしれないね」
 アリシアはまた煙草に火をつけた。
「いずれにせよ、今私が立ってる場所は、大して面白い所でもない。中途半端をとことん突き詰めた、矛盾だらけの居場所でしかないのに、今更道を変えられない」
 吐き出された煙がかき消えるまで、どちらも何も言わなかった。

「……夢、見たいなあ」
「夢?」
「うん。女の子に生まれ変わって、恋をして、セックスもして、仕事や結婚もして、そして……」
 そう言って、アリシアは軽く首を振った。
「でも私は、そんな夢を本気で見られるほど純粋じゃないし、そこまで子供でもない。汚い物を見すぎたし、触れすぎた。今じゃ自分がその汚いものになり下がってるわけだし」
「だとしても、夢を見るのは自由だろうに」
「絶対にかなう事がない夢でも?」
「ああ」
「いつも残酷なこと言うよね、あなたは……」
 アリシアは、大きくため息をついた。
 男は別に気にする様子もなく、ただアリシアを見ていた。
「他人がかなえられない夢を、いくつもかなえてるだろう、実際」
「……かもね」
 一部の友人からは、アリシアは羨望の的だったり、あるいはやっかみの的だったりする。
 金に物を言わせて見た目だけ取り繕っている、「間違った」人間だと、よく言われもする。
 普段のアリシアならば、そんな事を言う相手には、「燕雀いずくんぞ何とやらよ。貧乏って悲しいわね」などと鼻で笑いながら、全く相手にしないのだが……。

 男の考えを見抜いているかのように、アリシアは続けた。
「いつになく気弱だって思ってるでしょ?」
「ああ」
「……衰えてる。見た目も、心の強さも。もういい歳だしね」
「三十路に入ったばかりでそれを言うのも、ずいぶん失礼な話だ」
「人生の総仕上げとして、最後に、残りも取っちゃおうかな。最近そう思ってたりする」
 男にとって、それは、あまりにも意外な言葉だった。普段のアリシアは、そうする者を小馬鹿にこそすれども、自分がそうしようなどとは、一言も言った事がないからだ。
「三十まで生きてたら、そうやって逃げようとも思ってたから。舞台を降りて、ひっそりとババアになって生きて行こうってね」
「隠居するには早すぎないかね。もっと年上で頑張ってる奴もいるじゃないか」
「……私には、耐えられない」
 アリシアは、絞り出すように言った。
「多分、耐えていく事ができない。そういう人たちみたいに、頑張れない。貫き通せない」
 またしばらく、沈黙。アリシアと男は同時に煙草に火をつけ、そして両方がそれを消した頃、アリシアはまた絞り出すように続けた。
「中途半端を貫いていくのも、たぶんもうできない。だからって、いまさら普通の男に戻れるかって言うと、それは無理。まあ、記念みたいなものかな」
「記念?」
「負けたんだ、って記念。他の人にとっては、それを成し遂げるのは、勝ちかもしれないけど」
「客観的に見れば、勝ち逃げだよ、それは」
「そう思ってくれる人がいるのは、あまり悪い気はしないかな」
 アリシアは悪戯っぽく笑った。



To be continued


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