部屋にあがり、リビングへと通されは感嘆の声を上げた。 落ち着いた大人の雰囲気をかもし出す慧の部屋は、無駄なものが一切見当たらずシックな装いで『慧そのもの』のようだ。 部屋の真ん中にはガラス張りのテーブルとL字型の黒いソファー。 『適当に座って』と促されたと航河がそのソファーに腰掛けた時、 「赤、でいいかな?」 リビングの奥にあるカウンターキッチンに立つ慧がそう口を開いた。 『かまいませんよ』隣に座る航河がそう返事をしての方を見る。 精神的なものかもしれないが、いつもより近い距離にいる航河と目が合いは 改めてその整った顔立ちや優しいエメラルドの瞳に、思わず見惚れてしまう。 「……お前は?」 「へっ…?」 「だから、赤ワインでいいか?」 「あ、ああ!はい何でも。ただ、強い方ではないので…」 呆れた表情をする航河の言葉に、は慌てて慧の方を振り向きそう答える。 クスクスと可笑しそうに笑う慧が『了解』と呟くと、隣にいた航河がソファーから立ち上がった。 「手伝いますよ」 そう言ってキッチンへと歩き出す航河に、は慌てて『私も』と後を追う。 『別にいいのに』と笑う慧に『そんな訳にはいきません』と無理やりキッチンに立つと 「じゃあ、そこにある好きな奴をお皿にあけてもらおうかな」 グラスを用意する慧が楽しそうにそう呟いた。 慧が指す方を向くと、そこには袋詰めされた数種類のナッツやドライフルーツがいくつも置かれている。 手にとってまじまじと見ると、どれもが英字の印刷で輸入品である事がわかる。 隣でなにやら作業する航河が持っているものもまた同じだ。 「なんていうか、凄く凝ってますね。おしゃれというか」 「そう?琉の奴がお土産で買ってくるんだけど、なかなか減らなくて困ってるんだ」 「あ、なるほど。そうなんですか」 「そうなんだ。あいつは見境がないというか、僕が1人暮らしだって事を絶対に忘れてるね。 それに大概食事は外で済ますから、こういう機会じゃないと消費できなくて」 『だから遠慮しなくていいよ』と付け足して笑う慧に、優しさを感じずにはいられない。 はそんな慧に笑顔を返して、ナッツとドライフルーツの袋をひとつずつ開けた。 ナッツの方にはパルメザンチーズが塗しているらしく、チーズの香りがフワリと広がり食欲が湧いてくる。 それをテーブルに運ぶと、ワインを持った慧がこちらへ来てに座るよう促した。 「あとは、航河に任せておけば大丈夫」 「あ、はい。そういえば中沢さんは料理が得意でしたよね」 「そう、僕の家で飲む時は適当に作ってくれるからね。いつも助かるよ」 「なるほど、今夜俺を誘ったのはこれを作らせるためだったんですね」 冗談めかした慧の言葉に、キッチンから戻って来た航河が少しいじけたようにそう呟いた。 手に持っていたお皿をテーブルの上へと置くと、航河は先ほどと同じようにの隣へと腰掛ける。 「あ、まずいなバレちゃった。どうしよう、さん」 「えっ!?えぇっと…あの」 「…クッ、冗談だ」 2人の間に挟まってオロオロしていると、慧と航河はこらえきれずにクスクスと笑い出す。 その途端の体の中に入った力と緊張がストンと抜けた気がして、ポカンと間の抜けた表情をした。 もしかして、緊張している自分を和ませようとしてくれているのかも そんな事が頭の中をよぎって、次の瞬間にはもうは2人と一緒に声を上げて笑った。 彼らの事を知れば知るほど、慧も航河も言葉ひとつひとつの中に優しさが溢れている。 優しくて温かくて、大人で魅力的で、いつまでもこうしていたいと願いたくなってしまう。 慧はワインボトルを手にし慣れた手つきでコルク栓を手際よく開けた。 そして、並んだワイングラスに綺麗な赤い液体を注いでいく。 「まずは乾杯しようか、……そうだな」 少し考えるそぶりを見せ慧は『さんの仕事の成功と、…3人の夜に』そう艶っぽく笑ってみせた。 別に自分が子供だという訳ではないが、慧のその大人っぽい視線に胸がドキンと鳴る。 内心を隠すように笑顔を返しては『ありがとうございます』そう言って グラスを前へ差し出すと、カチンと3つのグラスが小気味好い音をさせた。 ワイングラスに口をつけると、甘い果実とアルコールの香りが漂ってくる。 正しい飲み方はよくわからないけれど、それをそっと口に含むと思いのほか飲みやすい。 爽やかな口当たりで渋みもあまり気にならず、は思わず『美味しい』とこぼしていた。 「良かった口に合って」 嬉しそうな慧の口調に、は慧たちが自分に合わせてくれているという事を今更ながら感じ感謝した。 「わ、何だかおつまみも凄く美味しそうです」 「ああ、本当だね」 「中沢さんの料理の腕前はかねがね噂で聞いていたので嬉しいです」 「別に、これはただ焼いたバゲットと容器から移し変えたリエットだ。料理とは言わないだろ、大げさすぎだ」 航河の持ってきた皿の上には、薄くスライスしオーブンでカリカリに焼かれたフランスパン そして丸いココット形の容器にそのリエットというペースト状のものと、ほんの少し黒コショウがかけられ添えられていた。 「リエット、って言うんですね」 恥ずかしながら初めて聞く言葉に、は興味津々といった表情でジッとそれを見つめた。 そんなを見て航河はまるで子供をあやすかのように『食べてみるか?』そう呟いてバゲットに手を伸ばす。 そしてバゲットの上へリエットを乗せたかと思うと、『ほら、食べてみろ』そう言って差し出してきた。 「えっ!?」 まさかこれは自分のために作ってくれたものなのか。 は何だか気恥ずかしくて、戸惑いの声を上げたまま固まってしまう。 「なんだよ、まさか食べさせて欲しいとか?」 意地悪く笑う航河のバゲットを持つ綺麗な指が、突然の口の前で止まる。 ほら、アーンしろ。と言わんばかりの航河の視線に、は堪えきれず航河の手からそれを奪い取った。 「いっ…いただきます!…自分で」 「遠慮しなくても食べさせてやったのに」 意地悪く笑って覗き見てくる航河の視線があまりにも恥ずかしくて、は奪い取ったバゲットにかぶりつく。 「……美味しい」 「だろ?」 「はい、クセも臭みもほとんどないし。これお肉ですか?」 「ああ、正解、鴨肉だ。どこかのアホは『このツナ缶、すげーうまい』とか言ってたな」 「あはは、でも、私も本当はそっち側の人間かも」 「そんな事ないよ、さんはきちんとわかったし、ねぇ?航河」 「そうですね。、お前は…まぁ、多少お子様臭はするがガキじゃないよな」 「はは、そこがまた可愛いとか思ってるんだろう?」 「……どうでしょうね、加賀見さん」 は今自分が浮いてしまっているんじゃないかというくらい、舞い上がってしまう。 なんだかんだ、2人に褒められているような気になって、恥ずかしくも嬉しくて頬を赤くした。 「お2人とも、あんまりおだてないで下さいよ」 「ん、…どうして?」 「そういうの、言われなれてないですから」 既にグラスを空けそうな慧と航河のグラスへ、は恥ずかしさを誤魔化すようにワインボトルを手に取り注いだ。 テーブルへボトルを置こうとした瞬間航河が、スッとの手からボトルを奪い まだ飲み切っていないのグラスに、2人のグラスと同じ量だけのその赤い液体を流し入れて来た。 「そういえばさん、彼氏はいるの?」 航河に小さくお辞儀をするのと同時に、慧がそう口を開いた。 まさか、そんな事を聞かれるとは思ってもみなくて、思わずポカンと口を開いたまま慧を見つめてしまう。 「あ、ごめん。失礼な事聞いちゃったかな?」 「え!あ、いえ。そういう言葉も聞かれなれてなくて、ちょっとびっくりしちゃって。彼氏はいません」 「平日OLやって土日は記者やってるような奴だもんな」 「…うぅ。実はそれで何か変われるきっかけをつかめればなって思ってたんです」 「じゃあ、今はチャンスって事かな?」 「じゃあ、今がチャンスだな」 思いもよらない、しかもほぼ同時に発された慧と航河の言葉に挟まれて、は体を硬くした。 明らかに自分の返答を待っている様子の、ニコニコと笑う二人の視線にドロドロに溶けてしまいそうだ。 「…あの、そういう冗談は…本当に心臓に悪いですから…!」 緊張でかすれた声をやっとそう絞り出すと、困った顔で慧は頭をポンポンと大きな手のひらで撫でてきて『ごめんごめん』と笑った。 正直に言えばこれから先もこんな素敵なお誘いをされたらいいなとか、仲良くなりたいなとか色々と想像してたりもする。 ただ、2人同時に自分が思っていたよりも、遥かにグレードの高い言葉を呟かれ 嬉しいのか困っているのかわからない位、心臓がうるさい。 「お酒の席って事で聞いてもいい?」 「えっと、なんでしょう?」 「さんの前の彼氏ってどんな人がいたの?興味ある」 「うーん、きちんとお付き合いしたのは学生の時に1人だけ…」 「その時の話、聞きたいな」 「……普通の人ですよ?」 自分の過去の恋愛話なんてつまらないんじゃないだろうか? はそう思って、航河の方を向くと『俺も聞きたい』そういうように航河がコクリと頷いてくる。 お酒の所為なのか、航河の瞳は心なしか潤んでいるように見えた。 「えーと…その本当に大した事ないですよ?」 「それは僕らが決める事だよ」 「…学生の頃の友達の彼の友達で、同じ学校だった事もあってよく4人でつるんでたんです。 そのうち付き合っちゃおうか?みたいな感じになって……、ってなんか恥ずかしいですね」 「恥ずかしがらなくて平気だよ、ここには僕と航河しかいないんだし…今夜だけの秘密、ね?」 「……で?そいつとはどうなったんだ?」 「ええと、半年くらい付き合ってすぐ別れちゃいました」 「どうしてだ?」 「ああ、卒業してなかなか時間が合わなくなったとか?」 何となく言いづらくて、は困った表情を浮かべて2人の言葉に首を振るだけで答えられずにいた。 初めて付き合った男…、つまり初めてセックスした男だった。 痛くて辛かったが相手は好きになった人だからと、最初のうちは我慢していた。 けれど、次第に求めてくる回数が増え、その度にの心から『好き』という想いが萎れていった。 ふと、あの頃の記憶がよみがえり、浮かれていた今の気持ちまでも沈んでいくのを感じた。 「わかった、…もしかして」 視線を落として黙り込んでいると、の心を見透かしたのか、慧は少し照れたように笑ってそう言った。 そして、飲んでいたワイングラスをテーブルへ置いたかと思うと、の隣へと座り直しそっと耳打ちをした。 『もしかして、セックスがよくなかったの?』 内緒話のように、けれど慧とは反対側の、の隣にいる航河にも、きちんと聞こえるような声の大きさで、慧がそう囁いた。 言葉と同時に吐き出す息が耳から首筋へと流れ、耳に触れそうで触れない唇に背筋がゾクリと粟立つ。 まさに図星。 その上、こんなにも近づかれ心臓が破裂しそうなくらい脈打って、顔中、耳までも…いや、体中が真っ赤になっているかもしれない。 「あ、当たり…かな?」 「ちっ、違います。別にそういうんじゃ…!その…そりゃ痛いだけで…回数は増える一方だったし…嫌だったんですけど」 「だから、つまり、よくなかったんだろ?」 ナッツをかじり、指についたチーズを舐めとりながら、航河は何気なくそう呟いた。 何事もない、普通の会話のように表情を変えない2人に 慌てふためいている自分の方がおかしいんじゃないかなんて錯覚にさえ陥りそうになる。 今まで当たり前に自分の周りを囲んでいた壁が、粉々に砕かれ自分が丸見えになってしまっている位恥ずかしい。 それでも、心のどこかにあった『私はおかしいのでは?』という不安や不満を 誰かに聞いてもらって楽になりたいという気持ちも少なからずあった。 「よくなかったっていうより……私がよくないんです、…多分」 だから、は思わずそうポツリと呟いてしまった。 『大丈夫』とか『そんな事ないよ』とか、そういう救い、励ましが一時の慰めであったとしても欲しかったのかもしれない。 「もしかして、それが原因で今も恋人がいない…とか?」 ゆったりとソファーに腰掛けている慧が、心配そうにを見つめながらそう呟いた。 いつの間にか航河もグラスをテーブルにおいて、の言葉に静かに聞き入っているようだった。 「いえ、そこまで深く悩んでる訳では…。ただ単にモテないだけです。お2人こそどうなんですか?」 途端に暗くなってしまった雰囲気に、は慌ててそう喋り笑顔をつくって言葉を続けた。 「ほら、取材中も結構ファンの方から声かけられたりするじゃないですか」 「うーん、好かれる事と恋愛感情はまた違うから難しいよね」 「同感だ」 「それにレースクイーンの方とか凄くスタイルいいし綺麗じゃないですか」 「俺は基本的にああいうタイプは受け付けない」 「僕も何度か誘われる事はあるけど仕事仲間としか見れなくてね」 「そうなんですか。じゃあ、お2人の好きなタイプの女性は?」 「君みたいな人かな」 「お前がいい」 「そうなんですか……って、え!?」 「反応遅すぎだ…」 「少しは気付いてくれてると思ったんだけど」 「もう、お2人とも…かっ、からかわないで下さい」 いつものように2人は目を細めるようにして笑い、を見つめ突然の告白をした。 は、何をどう言えばいいのかわからず混乱した。 ただ、1番に思ったのは、2人はあくまで自然にそう言ってのけるから、社交辞令なのかもしれない。 けれど『からかうな』と困ったように少し怒ってみせたは、2人の空気がシンと静まり変わるのを感じた。 もしかして本当なのか? 本当であったとして、慧は航河の気持ちを、航河は慧の気持ちを知っていて今この状況で言っているのか? じゃあ、あなたにしますなんて言えるわけないのに、2人の気持ちが全くわからくて余計混乱してしまう。 「僕の言ってる事、…航河の事もだけど冗談だと思う?」 「え?」 「興味のない奴をこうやって誘うと思うか?」 「……あの、…えっと…」 「そろそろ、気付こうか?でも、彼氏がいない事が確定して良かった」 ニッコリ、満面の笑みを浮かべる慧の長く綺麗な指先がの頬を撫でる。 どうしよう、そう思った瞬間、背中に腕が回されて左肩をガッシリと掴まれた。 その腕は航河のものだと認識しが目を丸くしたと思うと、航河はグイとを引き寄せ体を密着させてきた。 「…なぁ、試してみるか?」 「…あの、……な…にを…」 「……お前が、気持ちよくなれるかどうか」 「聞き捨てならないな航河。それは俺のセリフだろう」 「早い者勝ち、ですよ」 自分の知らない所で慧と航河はどこかが繋がっているように、視線と視線だけで会話をしている。 は、引き寄せられた密着した航河の胸から、彼が喋るたびに感じる振動に体を震わせた。 『ま…待ってください』そうこぼして、航河の腕から逃れるためにソファーから立ち上がろうとしたけれど、足に力が入らない。 確かに普段よりアルコールを多めに飲んだかもしれない。 けれど、こんなに体がうまく動けないほど飲んだつもりもない。 ……視線かもしれない。 もしかしたら、さっきから2人に挟まれ、自分だけに向けられる視線に体が緊張しすぎているのかもしれない。 は、送別会の時と変わる事のない笑顔を見せる2人の所為だと確信した。 笑顔が変わる事なくとも、それを向けられているのは自分だけであるという事が、思考回路も体の動きをも麻痺させているんだ。 は震えた手で必死に航河のシャツを押さえて自分の体をできるだけ離そうと身を捩った。 その時、今度は慧の腕がの腰の辺りへと巻き付いてきた。 さっきまで保たれていた距離はゼロになる。 自分の体の両側に慧と航河の体温が、逞しく男らしい体が触れていると思うと、もうおかしくなりそうだ。 「怖がらなくていいよ。君の中にある不安を取り除いてあげるだけだから」 「お前、自分が不感症だとか思ってんだろ?…俺らが、勘違いだったって思い知らせてやる」 2人の言葉に、苦しいくらい心臓が早くなって、は言葉を発する事さえ出来なかった。 ただ、高ぶった感情は抑えられなくて、瞳には今にもこぼれそうなほどの涙がユラユラと揺れている。 『可愛い顔、してる…すごく』 先程と同じように、慧はの耳元で艶っぽくそう囁いた。 緊張でガチガチに固まったの体が、それにビクンと反応すると『どこが不感症だ』と航河が呆れたように笑う。 恥ずかしくて、居たたまれなくて。 はただ必死にうつむいて、どうしよう。どうしよう。と頭の中でリピートさせていた。 たかだか自分の恋愛話でこんな状況になってしまうなんて考えてもいなかった。 2人の真っ直ぐな熱い視線が苦しい。 慧の手が、の腰に巻きつけた腕とは反対のもう片方の大きな手が、そっとの顎を捕らえる。 同じように航河のもう片方の手が、の膝に置いた震えた手をギュッと握り締めてきた。 ハッとしたのも束の間、の視線が慧の手に導かれゆっくりと上昇し、冗談の抜けた男の顔をした慧を映し出す。 美しく艶やかな瞳がゆっくりと細められて慧は微笑むと、今までに聞いた事のない位真っ直ぐな声で呟いた。 「…君を、最高に感じさせてあげる。…ただし、僕ら以外の男に何も感じなくなるくらい、ね」 ←BACK NEXT→ |