僕らが知らなくてはいけないこと

「ん、う……」

口に含んだ途端、クラウドは俯いて、声を失った。ひくひくと震えて、そして……ごくん、と飲み下す。はっ、と息を漏らし……そして。

「おいし……ぃ」

「クラウド、口の端にクリームが付いてるぞ」

「ん」

勇者様は自分で拭こうともしない。ヴィンセントが手を伸ばし指で拭い、舐めた。

「喜んでもらえてよかったわ。でも、そんなに手間は掛かってないのよ、このクリームシチュー」

シェーナは微笑む。

「素材がいいからだよ。俺たちの住んでる所じゃこんなおいしい野菜は取れない」

「それにシェーナの腕がいいからだ」

包帯ぐるぐる巻きにされたダートが横を向きながらそう言った。シェーナは微笑んだだけで、何のリアクションも示さない。なるほど、二人は非常に仲がいいわけだ。

「とにかく、おいしい……おいしい、おいしい」

「落ち着いて食べないか……」

「おいしい」

「まったく……」

俺がスプーンで食べさせてやると言うのに、顔を更に突っ込んで……。お行儀が悪いことよ。

「しかしまあ……本当に」

アルバートは、その端正な顔の頬にばんそこうを貼っている。彼は前線で、戦線離脱をする直前、ラプスの集団を相手に大立ち回りを演じた際、あちこちに細かい傷を負ってしまったのだそうだ。シェーナの魔法によってその殆どがすでに塞がりかけているそうだが、 「シャワーを浴びるときに染みて、大変でしたよ」と彼は笑って言った。

「よくみんな、無事でいてくれましたよ。あれほどの数を相手に……」

「大した数じゃないわ」

ロゼは言い放つ。陶磁のような色の肌には傷一つ付いていない、しかし大軍を一度に片付けようと破壊魔法を使った際、魔力の暴走によって力尽きてしまったそうだ。

「もっとも、ドラグーンだけでは……あるいは、どうにもならなかったかもしれないけれど」

ハッシェルはもぐもぐとパンを頬張りながら、目を細めた。隣に座るメルの頭をポンポン、と撫でる。

「確かにのう……。ワシらだけではあの数はどうにもなるまいて」

「そうだよ。神竜王もやられちゃうくらいの数だったんだし……。それにクラウドいなかったら、どうなってたかわかんないよ?」

誉められてるのにクラウドはシチューに夢中で顔を上げない。口の周りが真っ白で……あれっぽい。

「全員の力だ」

ヴィンセントが総括する。

「ドラグーンも、有翼人も、そして人間も、全員揃っていなければ地獄からの襲来には勝てなかった。結束が最大の力だった」

地味にコンゴールが肯いて同意した。

「そう、確かに素晴らしい事だよ。種族を越えて……、手を取り合って助け合って! 素敵だと思うなあ……」

ガラーハも何度も肯く。少しく自分の科白に酔っているようにも、見える。

「でもキミ何もしてないよね」

メルの言葉にしゅんとなる。だけどぽんと背中を軽く叩かれて、すぐに元気を取り戻す。

「ボクの擦り傷治してくれたもんね」

大軍を相手に戦った、時間はおよそ一時間。……ヴィンセントの無謀とも言える魔法が数知れぬ魔物たちを一度に消し去り、親玉であったコルネオは、クラウドの咄嗟の機転によって(本人曰く「計算だよ」……)傷を負い、ヴィンセントの手によって、「魔界」に送られた。あの熾烈な戦いを終えて、こうして……怪我は負っているが全員が、無事に食卓を囲めたことは、奇跡と言ってもいいかもしれない。その奇跡は、確かにヴィンセントの言うとおり「結束力」によるものと言えるだろう。

「それで……」

ハッシェルが口元を拭いて、尋ねた。おかわりは、というシェーナに肯く。

「地獄の連中というのは、これほどまでに現世に怨みを持っとるもんなのか? 一つ不安なんじゃが、もしそうだとしたら、今後も、ワシらドラグーンだけじゃなく、世界中の人類に危険が及んでいるという考え方ができるじゃろ」

ヴィンセントは口にしたワインが苦いかのような顔になった。ちなみに記しておくと、ここにいるメンツの中で一番ぴんぴんしているのが彼だった。あれだけの傷を負いながら、自然治癒能力というんだろうか、細胞が急ピッチで再生して、もう彼の身体には殆ど傷などない。もちろん着替えた後だから、何もなかったかのようにも見える。 彼は答えた。

「可能性はある」

「では、今回の事を期に、何らかの策を講じておくべきではないのでしょうか。今回はあなたたちの協力もあって退ける事が出来ました。……ですが、武力の無い場所に攻め入られては……」

ヴィンセントは依然として苦い顔をしている。シェーナがハッシェルと、そしてクラウドのクリームシチューのお代わりを運んできた。クラウドがすぐにむしゃぶりつく、そして悲鳴を上げる。

「……恐らく私は、食い止められると思う。もうこういう事が無いように。……こんな事はそもそも、私たちのような力を持つ者が居なければ起こり得ないことなのだ。だが残念ながら私たちに死ぬつもりなど毛頭ない。だから……力づくで食い止めるのが最善の策であると思う。人間は人間の、亡者は亡者の世界に住まうという、命と言うものが存在しはじめた時に定められた法に逆らう事は許されていないのだから……。私の力を持ってすれば、双方の行き来を、再び完全に封じる事が可能だと思う」

「ヴィンちゃの力……」

「そう。……地獄の門を完全に閉ざす。最もそれは私一人では無理だから、魔界から助力を頼むが……カオスの顔であればそう難しい事ではないだろう」

スケールが大きすぎて……。長い付き合いになる俺もユフィも、こういう話は聞かされても、分かったようなわかんないような。

「やるなら早い方がいいですよ」

ガラーハは、パンでプレートを拭いながら顔を上げて言った。

「コルネオがまた来ないとも限らないですし」

ヴィンセントはグラスを置いた。

「その点なら、心配はない」

「でも、奴はまた来るって言い残していたんじゃないですか?」

「そんな事は許さないよ。コルネオには罪を償ってもらう為に、地獄のようななまやさしい場所ではなく、魔界に転送した。魔界は厳然たる法に支配されている。カオスが……私の分身が奴を、二度と魔界から出られぬようにする。歪んだ魂を矯めて、その汚れを浄化して、……真っ当な人間になるまで」

ふーっ、ふーっとシチューを吹いていたクラウドが、ふと顔を上げた。

「ザックス、にんじん……」

「あら、ごめんなさい……。クラウドの分は抜いたと思ったんだけど」

「いいよ、シェーナ。……クラウド、おいしいから食べろ」

「うー……」

勇者様もにんじんはお嫌いなご様子だ。

「まあ、……だから」

ヴィンセントは少し調子を壊して、首を回した。

「心配はしなくていい」

俺は、俺の恋人がやっぱすごい怖い人なんだということを、今更に再認識していた。今みたいに、クラウドをいとおしそうに眺めている姿からは想像も及ばないけれど。カオスが地獄において、どんな地位の悪魔なのかは知らない、ただその非現実的な強さから計るに、もう、トップクラスなんじゃないだろうか。では、何でそんなすごい奴がヴィンセントの姿を借りて(しかもとんでもない用途にしばしば使い走られて)いられるのか? 俺はお腹がいっぱいになって部屋に戻るまで、ちょっと考えていた。今回の件でまざまざと見せ付けられたヴィンセントの強さとか、について。 そもそもルクレツィアの与えたカオスっていうのは、宝条が創り出したのと同系列の、古代の悪魔の細胞だった訳だ。それが生身の人間に宿ることによって、宿主に高レベルの戦闘能力を与える……。推測にすぎないけれど、ヴィンセントの身体にカオスは、作り手の考えていたよりも遥かに馴染んだ、カオスにとって居心地が良かったのか、それともヴィンセントの心がカオスを調教したのかは知らないけれど、とにかくヴィンセントはありえないほど強くなった。そして、カオスを介して魔界に顔が利く。……ヴィンセントが、カオスの何らかの弱みを握ってたりするのかもしれないな。

三人で、一戦を交えてから一緒にシャワーを浴びた。勇者様なのにひぃひぃ泣かされて、クラウドは意気消沈床に就いている。俺はそんな推論を彼にぶつけてみた。

「なるほど……」

彼は俺の背中に柔らかいお湯をかけた。

「お前にしては良く考えた方だな」

細かい言い回しに関してはもう聞き流す事を覚えた。

「違うのか」

「いや……近いと言えば近い。カオスが、……ルクレツィアと、そして宝条が」

彼は「宝条」を言うとき、少し顔を顰めた。

「私にここまで馴染むとは、当初から予想していたかどうかは解らないが、確かにカオスは私の身体に、もはや何の違和感も与えない。私が求めればこの羽根を開くし、その力を貸す。そして、彼は……カオスは、この世界で生きるためには私の身体を借りていなければいけない、私は奴に身体を貸す……」「じゃあ、あんたはカオスが求めたら、身体を貸さなきゃいけないのか」

彼は俺の髪を十分に濡らしてから、シャンプーを手にとり、上手にマッサージする。絶対禿げなさそう。

「そういうことだな。だから例えばカオスが、現世を支配したいと思ったなら私の身体を借りて『魔王』として君臨するのだろうな。そうなったらどうか私の事を斬ってくれ」

「な……」

俺は目に沫が入りそうになった。

「冗談だ」

「悪すぎだ」

「悪かった。……カオスは、悪魔のくせに人間を愛している。よく自分も人間に生まれてきたかったと愚痴を零しているよ」

「……悪魔があんたに愚痴を」

「誤解してほしくないな。悪魔といっても、考える、想う、普通に生きる。悪と言ったって、それは名前だけのものだ。地獄に落ちた人間の慣れの果ての方がよほど悪……だ。コルネオのようにな。 話が逸れたが……、とにかく、カオスは、彼が必要を感じたとき……そうだな、例えば人間と話してみたいと痛烈に感じたときなどには、そう求めるのだ、そして私は身体を貸す。……こう言っては何だが、少し憐れにも思えるし……。私が役に立てるなら立ってやろうという気になるのだ」

「じゃあ俺が今まで、あんたと普通に話してると思ってた相手はひょっとしたらカオスだった、なんて事もあったのかな」

「それはないな。お前たちの前では常に私さ、カオスも私のプライベートを乱すような事はしない」

「ふーん……」

何だか、悪魔との契約って言うと、魂の売買とかそういうこと考えてしまうけど。ずいぶんのどかな話だなと思った。ヴィンセントがお湯をかけて沫を流す。俺たちは立ち上がって、湯を張った浴槽に入った。膝を曲げて、向かい合って座る。

「解りやすく、あんたとカオスの関係を言うとしたら、どうなる?」

ヴィンセントは少し困惑したような顔になった。

「難しい質問かな」

「……というか、普通考えないだろう。お前だってそうだったろうが」

「……それもそうか」

ヴィンセントはしばらく考えてから、

「強いて言うなら……双子の兄弟……か」

と呟いた。

「そうか。どっちが兄で弟なんだ?」

「……さあ。私が兄ではないかな」

「まあ、俺からしたらあんたが二人もいるっていうのはあんまりありがたくない話だけどな」

馬鹿者が、ヴィンセントは手を湯の中に入れて、俺の足の毛を引っ張った。

「でも、今一つイメージできないな」

「何がだ?」

「コルネオを魔界に閉じ込めたり、地獄からの流出を封じたり、それこそあんたが使うようなとんでもない力を持ってるような悪魔と、あんたの説明した『人になりたかった』なんて想うような奴と……。ギャップが」

ヴィンセントは苦笑いを浮かべた。

「私も……初めて会ったときにはそれは……、これが悪魔なのかと疑念を抱いてしまったよ」

「じゃあ、すごい人間臭いわけだな」

「そうだな。人間臭い……。お前なんかよりもずっとな」

「見た目は? あの悪魔の姿のが、魔界にはたくさんうろうろしてるのか?」

「いや……あれは、武装した姿だ。生身の時には我々とそう変わらない。ただ、羽が生えていたり角が生えていたり。……我々と違うのはそれくらいだよ、……あと、そうか、服は着ていない」

「ヌーディスト?」

「というわけではないが、まあ……人間ほど欲求の歯止めの聞かぬ生き物ではないのだな。人間よりもはるかに、高等なものであると考えていいはずだ」

「なるほど」

「会ってみたいか? カオスに」

俺は首を振った。

「別に。そういう人たちがいるんだな、って。そういう不思議な気持ちになったけど、あいたいとまでは思わない。でも、感謝してるよ、いつもありがとうって、伝えておいてくれ」

「直接言ってやったら喜ぶぞ。何なら、今、お前と魔界を繋いでみようか」

俺はちょっと身を引いた。

「そんなことが出来るのか。……戻ってこられないなんて事ないだろうな」

「向こうへ転送するわけではない。インターネットのようなものだ、お前の意識を、魔界との交信が可能な状態にする……。目を閉じろ、それから、もう少し寄れ」

「……怖い所じゃないだろうな」

「怖い所?」

「血飛沫が上がってたりしゃれこうべが転がってたりゴキブリがいっぱいいたり」

「クラウドのような事を言うな。おいで」

俺は気が進まないながらも、ヴィンセントが広げた胸の中に落ちた。あたたかいなと思いながら目を閉じる、ほどなく彼の掌が後頭部を抑える。そこからじんわり、何だか頭がはっきりとしてゆく、そして。

「ぅわ!」

目を思わず開けてしまった、ヴィンセントの乳首があった。

「閉じていないと接続が途切れてしまうぞ」

「悪い……。驚いたから」

もう一度、おそるおそる目を閉じた。

 

 

 

 

瞼の裏に広がっていたのは、目を開けているときと同じほどに鮮明な輪郭を持った世界だった。俺は何だか、不気味な感覚を味わっていた。胸まで湯に浸かっている感触がある、俺はヴィンセントに寄りかかったままの状態で、その世界の中に居るのだ。しかし周りにはヴィンセントの姿は見えず、もちろん俺がいるらしい所は浴槽の中ではない。灰色っぽい、色彩の酷く乏しいだだっ広い部屋だった。離れた場所にに白い球体が浮いているのが目に付いたが、それが何のためにあるのかはわからなかった。

「やあ」

イキナリ、陽気な声がして、俺は目を開けそうになった。だが、恐らくヴィンセントが抑えているのだろう、俺の目は開かなかった。俺は意識の中で、そちらに顔を向けた。

「な……何だ、ヴィンセントか……」

彼は風呂の中と同じ、裸だった。傷のある裸、俺が大好きな裸だ。背中にはカオスの羽根を広げ、その端正な顔をにっこりとほころばせている。

「なんだよ、何でそんな機嫌がいいんだ? カオスに会わせるんだろう?」

「会いに来てくれたんだってね、ヴィンセントに聞いたよ。嬉しいな、ぜひ一度君と話をしてみたいって思っていたんだ。ヴィンセントが心から愛してる人が、どんな話し方するのかなって」

え?

「今まで想像でしか会えなかったけど……ああ、夢みたい。嬉しいな……もっと近くに寄ってもいい?」

「ヴィンセント……?」

ヴィンセントはにこにこと相変わらず嬉しそうに微笑みながら、首を振った。

猫の……猫のヴィンセントを思わせる。

「僕はカオス……、この世界を統べるもの。そして、君の知っている、ヴィンセント=ヴァレンタインの、彼の言い方を借りれば『双子の弟』……いわゆるドッペルゲンガーって奴だ。この世に同じ姿をした人間が、七人はいるっていう、あれだよ。僕はたまたま魔界にいたっていうだけで……。びっくりしてるみたいだね」

彼は、唖然としている俺の傍らに座った。目をそらせないまま俺は、彼と真っ向から見詰め合ってしまった。気持ち悪いくらいに、おんなじだ。ほくろの位置も、目の色も、髪の毛の質感、笑い方、……まつげの一本一本までも、俺の知っているヴィンセントと同じだ。

 唯一、そうだ、こめかみから生えている螺旋状の角が……、悪魔だ。

「僕とヴィンセントはね」

硬直した俺を置いて、カオスは話し出した。

「元々が多分、同じなんだよ。ほら、人間はみんな、最初はサルでしょ? その前をさかのぼれば、元々細胞一つから出来ていた訳で。枝分かれの根本が、僕とヴィンセントは一緒だったんだ。だから同じ。細胞が彼の身体に移植されたときに気付いたんだ、ああこの人は僕とおんなじなんだなーって。そのお陰で、僕は君とこうやって話す、幸せを知れた。そしてヴィンセントが教えてくれる『人間の視点』を楽しむ事が出来る。その為なら、って、僕は彼に僕の出来る事を全部、させてもらってるんだよ。君も知ってるように、魔法を……空を飛んだり魔物を殺したり、あと、君やあの可愛い仔猫ちゃんにイイ想いをさせてあげたり、ね」

彼はヴィンセントと同じ声で、ヴィンセントは絶対しない喋り方で喋る。しかしそれはまるで、ヴィンセントがわざとそういう喋り方をしているようにも思えるのが、何だか奇妙だった。

「さっき、ヴィンセントに頼まれたんだ。君らに迷惑をかけた人間を、ここに止めておくようにってね。……ラビィ、こっちに連れておいで」

ふと、空間の一部分が裂ける。そこから少年とも少女とも付かない人間(但しこちらもこめかみから耳の後ろへ伸びる角付き)が現れる。下半身を見る限りは少年なのだが、その顔は少女のそれだった。彼……ということにしておこう、彼は音も立てずてくてくと歩き、宙に浮いていた球体のを見えない糸で手繰り寄せると、ヴィン……カオスの前まで運んできた。

「いい子だね」

ラビィと呼ばれた少年ははにかんだように笑う。

「ご褒美を上げる。部屋の引き出しに入れておいたよ」

少年は、クラウドが浮かべるような「ぱぁっ」という笑顔になって、現れた空間の亀裂へ戻っていった。

「今の子は何だ?」

「ラビィ。僕の側近だよ。大人はあんまり好きじゃないなんだ……、子供の方が頭は良いし、間違えなければ優しい」

本当に、そんなところまでそっくりだ。

「……そう、それで、……このボール、覗いてごらん?」

「覗くって」

白い球体のつるりとした表面が見えるだけだ。

「よく、見てごらん」

俺は言われたままに、球面を睨んだ。といっても、目は瞑っている。意識を集中させたのだ。

白いだけに思われた球面が、水面のように透き通る。

「僕らが今いる場所はね、君たちの言うところに、刑務所なんだ。いや、ただの刑務所じゃない、僕のプライベートルームでもある。罪人をここに運んできて、もう二度と悪事を働けないように、罰を与える所なんだ」

俺の目には球体の中で悪態を喚き散らす、コルネオの姿が小さく写っていた。

「見ての通り、コルネオはここに収容してある。ここから二度と出さない事も可能だし、この球を潰して仕舞えば彼はライフストリーム加わる可能性を完全に失う。魔界の法治社会の中で更正させて、彼がまともになったかどうか、僕が判断して決める……。彼が正しくなれなかったらその瞬間、彼の命は終わり。ヴィンセントには、僕に任せるって言われてるんだけどね、どうしよう」

「……」

俺は目を離した。球体は透き通らなくなった。

「殺してもいいよ、なんならクラウド、君の手で」

カオスは侮るように言った。

「君にとっては嫌な奴だろう。君の大好きな仔猫ちゃんを怖がらせて、苦しめた。それだけじゃない、コイツの召喚した亡者たちがヴィンセントの身体に傷をつけた。……今回はさすがに僕も、ちょっと疲れた。君はコルネオを憎いと思ってる、そうだろ?」

「……何を言わせたいんだ?」

「だからさ。殺したいって思ってるなら、出来るよって」

「俺がそんなことをする必要はないよ。……わかんないけど……更正する可能性があるなら、やってみればいいと思うし」

「優しいんだね」

彼は球体から興味を失したように、それを遠くへ押しやった。カオスは……俺の頬に触れ、真紅の瞳で俺を、じっと見つめた。言いようのないイゴコチの悪さと、しかし同時に「同形」である故の愛しさが、俺の中に生まれてきた。 そっくりだな、と。 口調はまるで違う、なのに、やはり根底に流れるものが同じだからか。こんなことを言うのはいけない事なのだろうけど、ううん……。

「ヴィンセントが君の事を愛する理由が良く分かるよ。君も、仔猫ちゃんも、とても優しい。僕ら、一応悪魔だからね、結構嫌なものを見たりもする……、気持ちが暗くなったりもする、多分、人間である君たちよりもずっとたくさん、そういう機会がある。僕が荒まないのは、君らを見ていられるからかもしれないな。だから……ヴィンセントは救われるのさ。僕を、そしてたくさんの罪を心に抱いていながら、笑える強さは君たちが居るからこそだよ。君に会えてよかった、僕も、彼も、そう思ってる。……ありがとう」

と、感謝の意を表明されてしまった。……大悪魔に。

「いや……こちらこそ、いつも、守ってもらって……感謝している」

彼は微笑むと、

「相手が君たちでなければ、僕も守らないよ」

そして俺に許しを請わず、頬に口付けた。

「甘い」

「え?」

「甘くて、すごい、生っぽい……。ヴィンセントに怒られちゃうな」

カオスの言葉の通り、俺の、この世界への接続状況が突如として乱れはじめた。

 

 

 

 

That's ALL」
ヴィンセントはそう言って、カオスがしたのと全く同じ場所に、キスしてきた。

「短期間でずいぶんと仲良しになっていたな」

嫉妬してるんだろうか。俺は少しだけ調子に乗らせてもらう事にして、くすんだ色の乳首を噛んで、ちょっと引っ張ってみた。後頭部をひっぱたかれた。ヴィンセントは叩いた所をなぜてくれながら、俺の背中にお湯をかけた。しばらく湯の上に出しっぱなしだったから、ひんやりしていた所だったので有り難かった。

「コルネオは生かしておくのか」

「生かしておく……っていうか、もう死んでるんだろう? あそこから先はアイツ自身が上手くやるかだと思うよ」

「『優しいんだね』」
ヴィンセントはカオスの口調を真似た。

「誰からでも愛される、うらやましい限りだ」

「俺が愛し返さなかったら意味がないだろう?」

「それはそうだが」

俺は、言葉の通りにした。すなわち、その心臓を、胸板の上から舐めた。何故か舐めてる俺の耳の奥がぞくぞくする、奇妙に官能的な行為、だと俺には感じられる。ヴィンセントは特に感慨は抱いていないようだったが。

「愛してる……、愛してる?」

「……お喋りな悪魔がいたものだ」

「愛してるよ、ヴィンセント」

「……」

俺のあごを持ち上げて、彼は存分に視線で舐め回した。それだけのことで、顔中彼の唾液でべとべとにされているかのような、生々しい快感を、俺は覚える。俺は、背筋とそして腰がちょっと痛い、このエビ反りの姿勢のまま彼に見惚れた。いつまで待っても彼は俺の唇にキスはくれず、そのかわりに俺の身体を裏返しにして後ろから抱えると、耳を齧った。

「……明日、が、最後だ」

ヴィンセントが僅かに苦しげな声で言った。

コルネオを倒し、ドラグーンたちとクラウドに平和が訪れた。それはつまり、親しくなった仲間たちとの別れを意味している。俺は不意に胸を針で刺されたような痛みを感じた。すぐには言葉で反応出来ず、戸惑ってしまった。

ドラグーンたち……、とりわけダート、ハッシェル、メルの三人とは、とてもこんな限られた期間の関係であったとは考えにくいほどの情を、俺は感じはじめていた。クラウドがよく懐いたということはつまり、彼らが非常に善良な心の持ち主だったからに他ならず、ウータイで迎える事となったいくつかのトラブルを、彼らとともにクリアしていく過程で、形容しがたい信頼関係が俺たちには根付いていた。 確かに、クラウドを取られるんじゃないかなんて、狭量な想いに駆られた事もあったけれど。

「……俺は平気だよ」

「……」

「でも、問題はクラウドだ。そう言いたいんだろう?」

ヴィンセントはうんともすんとも言わなかった。言うのを結局最後まで拒んで、後ろから俺の胸板へと手を回した。両の乳首を摘み上げられ、やっと「愛している」という言葉をかけられたころにもまだ、俺は彼らとの別れを割り切って考える事は出来ずにいた。

最後の晩か。分かってはいたけれど……、そうだな、どうせなら、メルのベッドにクラウドを寝かせてあげてもよかったかもしれない。無論、友達として。クラウドの、永遠の心残りにならなければいいと、願い、祈る。

その日の朝クラウドに、昼にはここを出ると告げたとき、クラウドの顔は一瞬青ざめた。彼はそれを悟られまいとして、俺の手からトーストを齧った。口の端をバターで光らせながらしばらく考えた後、目を一旦閉じて、それから開いた。

「食べおわったら、メルたちに挨拶してきてもいい?」

「もちろん。帰りの支度は俺たちがしてくるから、ゆっくり遊んでおいで。……多分、もうここには来られないから」

彼は素直に肯いた。駄々をこねたりせず、「最初から分かっていたよ」と言わんばかりの態度で、振る舞うのを見ていると、何だかこっちが辛くなってしまう。こんな事を考えてもしょうがないのだが、そもそも俺が腰なんか痛めなければ、彼らに出会う事だってなかったのだ……、「出会いは別れの始まり」なんて、カッコつけてきれいぶった言葉に、納得なんてしたくないから。と言って、「出会えてよかった」と思えるほど、クラウドは老けてもいない。だいたい俺が既に納得できていないのだ。

メルの家へ走ってゆくクラウドは、どこか焦っているようにみえた。それがとても可哀相に思えるのは、俺も幼稚な証拠だろう。もっともっともっと、ずっとここにいたいよ、なんて、そんな事を考えてはいけないのだ。元の生活に戻る時が来たのだ。

「ここも、不便だけどのどかでよかったけどねえ」

食後の紅茶を飲み終えたユフィが、白い湯気を吐き出しつつ言った。

「仕方がない。ここに来るのが私たちだけならば良いが、どこから機密が漏れるか解らない。この森のこのままの形を、今後も守ってゆくためには……。それが、さだめだ」

「んー……」

ユフィはしんどそうに、笑った。

「アタシんトコから、アンタたちが帰るときはいっつも、思うからねえ。寂しいなー、帰したくないなー、って」

俺は長く長く、息を吐いた。

「クラウドは、解るよ」

彼は話しながら茶器を片付ける。

「……自分が生きていくと言う事は、どういう事か。あの子は賢い、私たちと同じように、痛みを、自分で和らげる方法を心得ている。それに、多くの人間が生きていくにつれて友を失うのに比べたら、私たちには好むと好まざるとに関わらず、側にいる者がいる。その事の贅沢さにも、あの子はとうに気付いているだろうさ」

借り物のティーカップを布巾で丁寧に拭う。

「迎えには、私が行く」

「……俺も行こうか?」

「必要ない。大丈夫だ、あの子は私たちを困らせたりはしないよ」

しかし、泣き喚いたりしない事に、俺たちは一番困る。俺たちの生きる理由は、クラウドの笑顔。その笑顔に、寂しさや悲しさの雲がかかってしまうのを、防ぐ為に俺たちは生きている。常にその心に太陽を、幸せの光を降り注がせる為に。俺たちはクラウドに数え切れないほどの笑顔を貰っているから、……だから、その攻めてものお返しに俺たちも、するんだ。

皿洗いを終えて、ヴィンセントが部屋の隅から旅行鞄を引っ張り出してきた。

「忘れ物をするなよ」

「ああ……」

鞄の底に、家を出るとき有り合わせで持ってきた湿布薬と膏薬が潰れていた。

痛いのは嫌だけど……。

どうせなら一生ずっとあのまま、腰痛だったなら、今、泣きたいキモチを我慢して、大切な友達に別れを告げさせたりなど、しないのに。

俺の方がよほど子供じみている。

ヴィンセントはクラウドと一緒に、メルとダートとハッシェルもつれてきた。メルは、二人でいる間に、少し泣いたのだろう、白い顔に鼻が、紅かった。

「さみしいなあ」

メルはいつもと同じ、今一つ真面目さを感じさせない声音で、笑って言った。

「せっかくお友達になれたのにー」

「お友達か。お友達で止めておいてくれたんだな」

「そりゃあ。だってザックスにはクラウドもヴィンもいるじゃん。ボクにだって、ガラーハいるしー」

「ああ、そうだな。その形が一番、無難だ。俺としても今のままがありがたい」

「んー?

「お前みたいなのと年がら年中側にいると思うと、目眩を感じるよ」

「むき〜〜〜〜〜」

ああ。 こんな風にはしゃげるのも最後。

「世界がすごい広いって事、教わったよ、君たちに」

ダートは首から提げた神竜王のドラグーンスピリットを掲げて見せた。

「それに、……愛する誰かを守るときに、人は何より強くなれると言う当たり前の事を、再確認した。君たちと戦った事は、忘れないよ」

と、手を出されても。何だか、……照れてしまう。こんな、若々しい。見た目はダートの方が男っぽいし大人っぽく見えるけれど、俺は三十なのだが。って、そんな事を考えながら応えないのはおとなげないので、俺はもちろん応じたけれど。

「有り難う。俺も忘れないよ。ダート、それに、ハッシェル、あんたのことも」

「ふぉふぉ……。こんな老いぼれがお主の永久の記憶に残ることが出来るとは、光栄じゃのう」

「永久の記憶、ああ、一生、死ぬまで忘れない……俺は死なないから、もう永遠に忘れないよ。この思い出を大切にしていくから」

クラウドは始終一言も発さず、メルの隣にしゃがみ込んでいた。メルも、さっきはしゃいでいたかと思ったら、今はただ黙りこくって、立ち尽くしている。 俺はまた、胸が痛んだ。俺が泣きそうになっても仕方がないのだけど。クラウドが我慢してる、その事の痛みだ。

ヴィンセントが、俺にしか解らない溜め息を吐いた。ちらり、と時計を見る。

「……では、そろそろ行こうか」

かすかに明るい声で、繋げる。

「生きていればいつか会える。だからサヨナラは言わない」

ヴィンセントがクラウドを見た。俺も見た。

クラウドがゆっくり立ち上がった。静かに、メルの首に腕を絡めた。目を閉じて、その胸に顔を埋めた。メルは優しくそれに応える。金髪を何度も何度も、柔らかく撫ぜて、そして、頭を、優しく抱きしめる。その手は、とても暖かそうで、もちろんとても優しそうで、そして何より強く愛情が篭っていて、最高の友達と分かれるときにしか使ってはいけないチカラのように見えた。

「クラウド」

メルが耳元で囁く。

「忘れないで」

クラウドが小さく肯く。

「ボクは、クラウドの事ずっとずっと忘れないからさ」

クラウドが小さく肯く。

「ボクはずっとずっと大好きだから」

クラウドが小さく肯く。

クラウドは顔を上げた。その目はちゃんと、乾いていた。その事に俺は、何だか感動を覚えた。だけど今は泣いた方が楽だと、その方がきっと正解だと、思わずにはいられなかった。

「俺の過ごした時間に、メルは、みんなは、いたんだ」

その目は……俺たちを守るために、アルテマ神竜砲を撃った、強い少年の目だ。

「大丈夫だよ。……俺は大切にするから」

メルは肯く。肯いて、我慢できないと言った感じにクラウドを強く抱きしめた。また、彼女の鼻は紅くなった。

「クラウド……。クラウド」

俺たちにとっての一瞬が、誰かにとっての一生の長さになる未来が必ずやってくる。その時、その人と重ねた出会いは、交わした言葉は、俺たちにとってどれほどの言葉を持つのか? 俺たちは「生」の象徴かもしれない、だけど俺たちは他の誰よりたくさんの「死」を見つめていかなければならない。あと六十年七十年して、クラウドもヴィンセントも俺も、今と全く変わらない姿で、三人の墓標を思うのかもしれない。 それが俺たちに課せられた十字架。俺たちが、時間に狂うことなく人間であり続ける事と引き換えに背負っていかなければいけない業なのだ。

飛び立ったバギーの、窓にへばりついてクラウドは何も言わず、メルの事をじっと見つめている。俺もユフィも黙りこくって、俯いていた。クラウドも何も言わない、口を真一文字に閉じて、ずっと、ずっとずっと。 彼の視界に、地脈の森が完全に捉え切れなくなってから。彼は椅子に背中を委ね、はっ、と息を吐いた。上を向いて、ゆっくり、息を吐いて。

そして俯き、目を両手で抑えて、押し殺した声で泣きはじめた。

 

 

 

 

僕らが知らなくてはいけない事、触れなくてはいけない物、僕らが生きている意味、僕らが生き続ける意味、僕らが生き続ける上で感じなければいけない痛み。当たり前に生きているんではないんだということをわかるために。

それでもタオルから硫黄の匂いが消えるまではずっと覚えていた。そしてそのタオルを目にするたびにも思い出し、それが消えてなくなっても折りに触れ思い出すのだ。

「にゃ……!」

帰ってから二日、さあ明日から学校というときになって、クラウドが声を上げた。俺たちは二人で、明日からの学校に持っていくために必要な道具を用意している最中だった。タカハシ先生言うところの「お道具箱」にはさみやら分度器やら三角定規やらを詰めているときに、クラウドは不意に一声鳴いたのだ。

「……どうしよお……」

「どうした? 何がないんだ?」

「……色鉛筆ないや……忘れてきちゃったんだ!」

クラウドは青褪める。俺は頭を柔らかく叩いた。猫はこれで安心する。

「焦るなよ。始業式の日からイキナリ色鉛筆なんて使わないだろ? 新しいの買えばいいよ。明日、学校帰りにでも、一緒に買いに行こう? 確か消しゴムも小さくなっていたよな? だからその一緒に揃えればいい話だ」

「うー……、ごめんなさい」

「謝らなくてもいいって。これから気を付けてくれればいいよ」

「にゃうー……」

実は俺も、Tシャツを一枚忘れてしまったから、責められないのだ。

「じゃあ、明日は早いんだし、今日はもう寝よう」

「……寝る……?」

「何だよその目は。寝るだけじゃつまらないのか? それなら……」

「にゃ、にゃうっ、違うっ、寝るのっ」

「わかってるよ。そんな焦るなよ……ショックだから」

クラウドをパジャマに着替えさせて、先に手術台に乗せる。

「ザックスは? 寝ないの?」

「すぐ寝るよ。でもその前に上行ってヴィンセントに金貰ってこないと」

「ああ……、うん、ごめんね」

「だから、謝るなよ。……おやすみ」

「ん……」

ちゅ、とキスをして、その額を撫でて、明かりを点して。

扉を開けると、地下室からの扉を開けると、ヴィンセントが立っていた。

「忘れ物だ」

と、その手には色鉛筆。署名もちゃんとある、「C.VALENTINE」って。

「あれ……? 鞄の中に紛れてたのか。クラウドもおっちょこちょいだな、誰に似たんだか……」

「明らかにお前だろう。Tシャツも忘れて……。おっちょこちょいというか注意力散漫というか馬鹿というか阿呆というか」

「ああ、それも……。悪かったな、わざわざ持ってきてくれたんだ」

「私ではない」

ヴィンセントは「棺桶部屋」……彼自身が寝かされていた部屋を指差した。木の扉が開いて、中が覗けた。 そこに。

「忘れてたから、とどけに来てやったんだよっ。ついでにクラウドのカワイイ寝顔も見にね」

「……?」

俺は首をかしげた。

ヴィンセントの側にいると、神経が図太くなっていけない。

「どういうことだ?」

ヴィンセントは特に表情を変えることなく答えた。

「四次元の世界において、時空を歪め、その扉と地脈の森を繋げた」

「何だそれ」

「解りやすく言えば『どこでもドア』だな。これなら第三者に出入りが発覚することなく、あの森とこちらを行き来出来る」

「……ふうん」

「嬉しいでしょっ、年がら年中ボクと会えるんだよっ」

「これは……インターネットの常時接続みたいにいつでも?」

「ああ。まあ……多少魔法を発動させたりしなければならないが、基本的には好きなときに出入りが出来る」

「無視したなっ、むき〜〜〜〜〜〜」

メルは一頻り騒いだ後に、はっと我に帰る。

「そだ。クラウドは? ねえねえザックス、クラウドどこで寝てんの?」

「……」俺はヴィンセントを見た。ヴィンセントは俺から目を反らした。

……全く。

「……その扉の向こう」

「ほんと!? ねえ、会ってきていいでしょ、いいよねっ、会うよっ」

俺の返事など待たず、彼女はさっさと地下室の扉を、開けてしまう。

「クラウド!!」

彼女の嬉しそうな声に、俺とヴィンセントは頭痛を感じ、そして、また少し幸せに、なるのだ。例えばそんな痛みだって、俺たちがただしく生きていくためには、必要なもの、触れなければいけないもの。これからも持ち続けなければいけないもの。


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