今日も試合で、しかし自分は観に行くことが許されていない。
「だってさあ」
だってさあ、と言うから理由が語られることを待っていても、ハヤトは苦笑いして、まあ我慢しろよ、わざわざ試合なんて見に来なくても一緒にいるわけだしと誤魔化す。ハヤトが誤魔化そうとするならと、キールは誤魔化される。
少し寝坊をしたせいで、しょうがねえ筑紫野まで電車使うかと舌を打ってドアを開ける、その後をキールも駆ける。キールが駅までついて行く理由はないように見えるかもしれない、しかしハヤトが駅まで来てと言えば立派な理由になる。バスケットボール部ご一行の待ち合わせ場所の筑紫野駅まで、横浜線で一駅、私鉄で一駅、走れば三十分。無駄だよなあとエレベーターの中で苦笑しながら、うん、と頷くキールにキス一つ、ドアが開けばハヤトは平然とした顔でキールは真っ赤になって俯いて、そのまままた駆け出して変わりかけの横断歩道を渡って、丁度二階の高さに在るホームに電車が滑り込んでくるのが見える、ハヤトの足のギアが変わった、走りながらポケットからSUICAを取り出してピッと鳴らして改札を突破して、……階段の手前で立ち止まって、「キール!」、凛とした声で。
ぜえぜえと膝に手をついて息を整えることすらかなわないで、顔を上げたキールに、また走り出そうとするハヤトが唇に手を当ててひゅっとこちらへ放るような仕草を。眩暈を感じて、目を閉じて、またあけたときにはだんだんだんだんと駆け上がる靴音と発車ベルだけが残る。
「……はあ」
胸に甘すぎる疼きが走って喉が渇いた。
やはり試合には負けたらしいハヤトを筑紫野駅まで迎えに行って、予定通りの遠回りで帰る。ハヤトの機嫌は悪くなくて、何時だったか怯えたようにして帰った記憶は、大切だけれど滑稽だ。
「お前に話してたっけ」
「なにを?」
「話してなかったよなあ」
「……うん?」
丁度中間地点に当たる、横浜線のガードを潜ったところでハヤトがそんな風に尋ねた。少し笑って、目を逸らして。
「母さんと父さんがさあ、来週、温泉行くんだって」
「……うん? うん」
「でさ、そう言うときは大体、お前も会ったことあるだろ? あの世話好きの中山のおばさんがさ、面倒見に来るんだけど」
「ああ、うん」
「今回来ないって。『キールがいれば安心でしょ』って。だから来週の土日二人きりだぜ」
キールが立ち止まった。
そして、呆然と、
「えー?」
そんな声を挙げる。
「えー、て何だよ」
ハヤトが唇を尖らせる。
「だって……」
「いいだろお前、ウチの家族の一員って、立派に認知されてるんだ」
「そういうことではなくて……、ふ……、二人きりで……」
「大歓迎じゃないか。二人っきり」
そういうことではないのだと、ハヤトに説明するだけの言語能力は有していないキールだった。
「まあ、だから、そのつもりでな」
ぽんと尻を叩いて、ハヤトはまた歩き出す。
……キスをした舌を絡めた、互いに、ズボンの上からなら性器を含む肌にも触れた、多少ペースは速いのかもしれないが、自分の、一番初めの告白からは半年以上の時間を経て今だ、降って湧いた、これは、チャンスと言ってしまえないこともないような気もするのだが、そこで一般的な男性とはやや違い、どうしても臆病なところのあるキールは青信号が灯っていてもまだ右見て左見てまた右を見ているうちに今度は左が気になり始める。
そこから家まで、極端に口数の少なくなったキールを、心から愛らしく思いながらハヤトは一歩前を歩く。触りたきゃ何処でも触ればいいのにな、っていうか、触ってくれないかなあ。
健全な十七歳男子として、他の誰とも変わらずに性への興味を持っている。自慰行為に耽るときにはキールが自分の身体を臆病そうに震えて歩く様を夢想するし、自分も出来るならキールを気持ち良くしてあげたいなと思う。
簡易密室、エレベーターの中で、自分の汗の匂いを少しだけ気にしつつ、してほしいという欲求に負けて、ハヤトはキスを強請る。六階までの、長くはない時間。恋人同士なんだからして当然だろうと判りながら、ロボ的ギコチナサで手を伸ばした末、五階を通過するギリギリで、キスをする。
「まあ、だからさ、前向きに考えておいてよ。俺は楽しみにしてんだ」
扉を開ける前にそう言われた。
キールもまた健全な十八歳男子として、ハヤトよりも強い欲求を内に秘めている、もとい、秘められていない。ハヤトは殆どそれを知っている。それでも無理でも隠そうと、している努力を知っている。
欲しいのだ。
ハヤトの身体が欲しい、その裸が欲しい。それは水や空気を欲しがるようなものだった。唇の感じがまだ離れない。本当はいつだって重ねられるような自分でありたい。しかしそういう自分が何処に行けば手に入るのか知らない。だとしたら例えば今度の土日、神様がくれたみたいな絶好機を逃してはいけないのだと、判っていながら、それでも。
自分も男でハヤトも男なら、いっそ自分が女なら良かった、あるいは逆の立場ならよかった、そういうことを考えてしまうキールだ。
同じ屋根の下、同じ部屋で、下手をすれば同じ布団で生きているのだ。どうしてぎこちない? それは全て、自分の責任なのだと、キールは思い、ハヤトを幸せにしてあげられない自分が辛い、悲しい。
「もう寝る?」
「……んー、あーあ、そうだなあ」
「試合で疲れてるだろう?」
「……あー、それはまあ、なあ」
ベッドの上であくびを二つしたから、聞いたのだ。それなのに、ハヤトは「ああこいつすげえ、やっぱり俺のこと判ってるよ」そんな都合のいい幻想に埋もれて、笑顔になる。
「ハヤト?」
「うん……、……キール、こっち」
「……ベッドの上?」
向かい合って、座る。じっと顔を見て、あああああ、俺コイツ好きだぁ、首に手を回して。キールが戸惑いながらそれに応える。脈が指を当てなくても判るくらいの近くで、盛りながら、このまま寝ちゃいたい、でもそしたらキール困るんだろうなあ、そんなことを考えながら、どうしてもキスをして欲しくなった。
歯を磨いたし風呂も入ったし一応は綺麗な俺です。実際、ハヤトにまつわる多少のことなら気にしないで飛び越えてしまうポテンシャルを秘めたキールではあるが、ハヤトから優しい香りがしていればそれはまたそれで嬉しく思う。
唇を、耳まで赤くしながら、寄せて、重なった瞬間に、ハヤトがペロリと舌を出す。
「ん!」
逃げようと、するのを、しっかり捕まえて、お前のも出せよと舌で挑発する。こんなことをして、また夜にお互い、寂しい深夜、自慰をするんだろうに。……いや。
「……お前……、今夜、トイレ、行くなよ」
「……え……?」
「いや……、おしっことかなら、いいよ。そうじゃなくって……オナニーしにトイレ行くなよ」
「……」
ハヤトはまた舌を伸ばす。キールが仕方なく応える。下半身が硬くなる。
いっしょにしたいよ。ナンセンスだろ、同じ時間に同じことを考えて別の部屋で、なんてさ。そういうハヤトの気持ちが判りすぎるくらい判る。キールの心の中で閃光。君が好きだと喉の割れそうな声が行き場を失い、音になり損ねたまま、舞う。
「……僕は……」
キールの喘ぐような声を美味しそうにハヤトは聞く。ぴったりと抱擁して、し返せよ待ってるんだ、そういう我儘を抑えられる自分をいとおしくも思いつつ。
「僕は、怖いんだ」
「怖い? なにが」
「……君をね、傷つけてしまうことがさ」
「俺が?」
「うん、僕は……。僕は、やっぱり嬉しいよ、今度の土日にさ、二人っきり、すごく幸せなシチュエーションだっていうのは、わかってる」
「……じゃあ」
「うん、そう、なんだと思う、僕もこうして君に触っていると、……すごく、興奮する。この先のことも考えている。今だけじゃない、君とキスをしたとき、君と手を繋いだときにだって、僕は君と過ごす未来を想像する。その未来の中には、当然君と、そういった行為をすることも、含まれている」
焦んない。焦んないよ。俺はだって、お前のことが好きだからね。信じて待つしかない、そう思ってさ、待ってる。お前と一緒に過ごす時間がとても幸せなら、「そういった行為」無しでも、例えばこうしてべったりくっつく今だってとても幸せだからさ。
でも寂しい気持ちがあることも確かだと、ハヤトは飲み込む。
こんな寂しさは初めてだった。
「待ってれば叶う?」
キールの顔を、覗き込む。こういう風に目をあわせられるの嫌なんだろうな、そう思いながら、ついじっと見てしまう。
「……僕がそう、殊勝にいつまでも我慢できるとは思えないからね」
モドカシイ、けれど、それがキールだ。そういう相手のそういう部分をひっくるめて好きと言える自分でいたいとハヤトは思う。
「……一応、言っておくとさ。俺は、セックスするの、怖くない。痛いと思ったら、俺痛いってちゃんと言うしさ。お前が優しくしてくれんなら、……お前が優しくしてくれるって信じられるから、ちっとも怖くないんだ」
「……わからないよ。僕だって、今はだいぶ我慢している。今よりもっと興奮したら、どうなるか。……きっと想像よりもずっと痛い思いをさせてしまうと思う。……君を泣かせてしまうかもしれない……」
優しくて可哀想なキール。
彼は思う、君は僕が僕の想像の中で君を、どんな風に酷く汚すか知らないだろうと。
しかしハヤトは思う、お前は俺が俺の想像の中で、俺がどんなに醜くなってるか知らないだろう。セックスなんて綺麗なモンじゃないだろ、俺童貞の割についでに処女の割に、そのへん結構割り切ってるんだと思う。
クラスメートやら、部活の仲間やら、「彼女とやってさあ」、そういう言葉を今まで少しも羨ましいと思ったことのなかったハヤトだ。それを「まだ早い」と思っていたのが違ったことを思い知る。
現に今、こうして、キールとしたい。キールにされたい。初めて連中を羨ましいと思った、俺もキールを俺の想像するやり方で愛したい、キールの想像するやり方で、愛されたい、思いっきり、思いっきり、かなぐり捨てて裸で。
「……なあ、キール、……なあ」
腕を解いた、キールが座りなおす。
「なんだい?」
キールはすまなそうに笑っている。ああ、その笑顔が好きだ、しょうもないくらい好きだ、好きだ好きだ好きだ、大好きだ、わかりもしない歌の文句で言おう、愛してる。
「……じゃあさ、土日は、諦める。セックスするのは諦める」
「……ごめんね」
「いや、いいよ。それは……しょうがない。お前のほうが物知ってるんだから、言うことは聞いておいた方がいいんだろうし」
ハヤトの下半身に甘い疼きが走る。想像するだけで、キールならきっと「甘い」と表現してくれるであろうはずの、息が溢れそうになる。
「けどさ」
手を握る。細いなあ、綺麗な指、たまに突き指する俺の指とは全然違うね。
キールはそれだけで、少しばかり、緊張して。
「……けどさ、俺、早くして欲しいんだ、心底な、……いいよ、前言撤回、お前、トイレ行っていいよ、オナニーしていい。でもさ、俺、我慢できないんだ。お前にちんちん触ってもらえたらいいなって思う。……ジーンズの上からじゃなくて、生で、直に。お前に触ってもらえたら気持ちいいんだろうなってすごい思うし、お前のも生で触ったら、お前も気持ち良くなってくれるんじゃないかって思うんだ」
虹の中で赤や青やビビッドな単色ばかりを見ていると案外に目が眩むもので、それが並んで美しい色彩を作っているのだということには気付かない。
「……キール?」
「……うん……」
「だからさ……、いいよ、セックスは、もうしばらく俺、我慢するよ。……けど……、そういうことは、したい。どうしてもしてみたい、お前と」
十七歳の真理、誇れもしなければ、捨てることも出来ない、扱いに困るような、ハヤトの中の正義が、キールに望む自分の未来だった。