遠い唇

 まだ町田市のごく限られた範囲がキールにとっての世界である。しかし、勉強熱心な彼はテレビのニュースで新聞で、どんどん知識を蓄えていく。行ったことはないけれど「行け」と言われれば、一人で電車に乗って新宿までだって行けるだろう。そしてさらりと帰ってくることが出来るだろう。

 つまりキールとは頭のいい男だ、器用な男だ。人付き合いは苦手でも、常軌を逸した行動をするわけでもない。落ち着いた物腰で、必要最低限のコミュニケーションなら差し当たり何の問題もなく取ることが出来る。ハヤトから貰ったシャツを来て、父から貰ったジーンズを穿いて、例えば近所のスーパーまで行って母の代わりに木綿豆腐と長ネギと豚挽き肉を買って来ることに、少しの危うさも感じない。お釣りは好きに使っていいわよと言われても、何も思いつかないでそのまま母に渡してしまうような真面目な少年である。

 とにかくハヤトのことが好きで、好きと思ったならもう、一途にハヤトのことばかり考えている。そしてキールは一応十八歳の男であるから、健全に不健全な性欲を持って生きている。それの発散は一人、深夜のトイレで、壁に身を任せて、かすれた声で思い人の名を寂しく囁きながら。その事を、恐らくハヤトは知っているだろう。キールがハヤトを好きということを、ハヤトも知っているということは、キールのなけなしの勇気を更に萎ませるには、これ以上ない材料だった。いっそ知られていなければ良いとキールは途方に暮れる。だったら、はじめからはじめることが出来た。中途半端に、「僕は君が好きだよ」なんて言わなきゃ良かったんだ。ハヤトは僕がハヤトを好きって判っているものだから……、余計に。

 ハヤトが遠い。果てしなく遠い。

 九月も末になってすっかり涼しく、柔らかな風が駅から降りてくる。ポケットの中には買ってもらった携帯電話。まだメールを打つ手は覚束ない。二つしかないアドレスの一つが当然新堂勇人で、来るメールの十割が同じくその人から。気軽に送ってくるものだ。願いを数文字に詰めて。三駅隣りの高校で行なわれた定期戦を終えて、いつもより疲れた土曜の夕方のハヤトが、もうすぐ帰ってくる。

『ひま?』

『なら筑紫野まで来い』

『ついた』

 坂の上の駅の前で、制服姿のハヤトは十人以上の高校生を前に、何かを語りかけていた。それから、ぱん、と手を叩き「解散」と宣する。その場の全員が一斉に頭を下げて「っした!」、そして、三々五々散らばっていく。

「おう」

 右手を上げる。集団に近寄れなくて、何となく遠巻きに立っていたキールは、大げさに言えば救われたようにハヤトに歩み寄った。

「はい、これ持って」

「……うん」

 肩に、ハヤトのユニフォームの入ったバッグをぶら下げる。

 ハヤトの汗塗れのユニフォームである。邪な考えの一片すら浮かばなかったと言えば嘘になる。そんなことを考えてしまう自分が呪わしい、十八歳が、男が、汚らしい。

「……試合は」

 黙っていると考えが横転しそうだった。一歩半斜め前の後ろ頭に話し掛けることでやり過ごそうとする。

「試合は、どうだったんだい?」

 観に行きたいと言ったキールに「ダメ」とハヤトは譲らなかった。「どうして。君の走っている姿を見たいよ」と言っても「絶対ダメ」。理由はさっぱり判らなかったが、結局キールは留守番を余儀なくさせられた。

「そりゃあ負けるよ。うち弱小だもん」

「……そうなんだ」

 それきり会話が途切れた。並木道をずうっと、家に向かって降りて行く。坂の途中で五時の鐘を聞いた。ハヤトは何も言わないで、普段より早い角で右に折れた。キールは黙ってついていく。あまり機嫌が良くないんだな、そう判って、心がぎゅっと縮こまる。

 ハヤトは元々、あまり気の長いほうではないようだった。ストレスには案外弱いらしいというのは、リィンバウムから付き合ってみて、そして今こうしてこの街で一緒に暮らしてみて、よく判る。阪神が負けると途端に不機嫌になったりするあたり、端的に現れているだろう。しかしそんなハヤトを不愉快と思うなら、いつも怯えている自分の意気地のなさを思って、ハヤトの要素の一つに「我儘」というのがもしあったとしてもそれはそれで構わないのだ。

 並木道からそれて、それでも家に近づいている。違う沿線の駅がハヤトの家の最寄であって、マンションのエレベーターを降りて横断歩道を渡ればすぐに駅。今日は一応「遠征」で、乗換えを疎んでわざわざ三十分の距離を歩いて帰っているわけだ。

 空が青から赤へ変わり、赤から黒へと変じていく。小さな川を渡って、ガソリンスタンドの隣りを抜けて。高いところを横浜線がごうごう走っていく。

「……重たいか?」

 久しぶりにハヤトが振返った。その顔がさっぱりとしていることに、キールは安心する。

「大丈夫だよ」

「悪かったな、わざわざ。遠いのに」

 にこりと笑った。うん、とキールも微笑んで頷く。

「いいんだ。僕は……」

「俺のこと好きだから?」

 黙り込む。

 ふっ、とハヤトは笑って、また前を向いて歩き出す。

「なあキール。俺って怖いかな」

 優しく凛々しい顔をした君を怖いと思うのは多分僕だけだろうと思っている。ああ、そうだね、確かに君のことが好きだから、君はどんどん怖くなっていく。

 怖いのに、キールはハヤトが大好き。大好きだから怖くなる。怖くてもキールが大好き。ハヤトはどんな子だったか。優しかったことがあったかどうかも覚束ない。ただ、ただ、それでもただ、キールはハヤトが大好き。

「……怖くはないよ」

「じゃあ、そんなビクビクしないで欲しいよなあ」

 またその言葉でビクビクしてしまうキールを背中で感じながら、ハヤトは見えないことをいいことに苦笑いをする。

 顧みれば、リィンバウム、フラットの浴室にてキールから告白をされてから今まで、一度だってハヤトはキールに答えを出したことはない。出してあげないと可哀想かとも思うが、自分にだって考えるところがある。

「ビクビク、してる、わけじゃない、……よ」

 どこで切り取ってもそれは恐怖に慄いている人の言い方だ。

「俺は怖がられるようなことした覚えはないんだよなあ。怖いとしたらそれは、お前が勝手に怖がってるだけだろ? 違うか?」

「だから……、僕は怖がってなんていないよ」

「……逆なんだろうなほんとは。俺がお前怖がんないといけないんだろうな。なあ? ゲイの側で無防備晒して、何されたって文句言えないよなあ」

 唇の端を上げながらの言葉に、キールは言葉を見失う。

「それもさあ、俺、キールのこと怖いなんて思わないからなんだよなあ。お前、ちっとも怖くないんだよ」

 てく、てく、てく、キールはハヤトの後ろを途方に暮れて追っていく。線路下の細い道を抜けて二つ横断歩道を渡れば、もう家に着いてしまう。だから、この話のケリは早いところつけてくれ。夕食後君とまたゆっくりと会話を楽しみたい。君が怖くても。怖くても好きだから。

「怖がらないでよ。ね、キール」

 ハヤトは立ち止まる、振返る。すっかり暗くなって、ハヤトの足元を常夜灯が照らす。そこだけ見れば、舞台のようだった。他の誰よりも特別な子が目の前にいるのだと思った。

「俺もお前のこと怖いなんて思ってないんだからさ」

 キールの返答を待たず、くるりと身を翻し、歩き出す。一人で、

「腹減ったなあ……、晩飯何だろ」

 言いながら。

 エレベーターの狭い箱を経て、六階の新堂家に入る。玄関空けて最初に感じる「匂い」が、もう気にならないほど、キールはハヤトの側にいて時を連ねた。

「お帰りなさい。負けたのね」

 母はあっさりとそう言う。キールはただいま戻りましたとぺこり頭を下げてから、ずっと肩に下げていたバッグをどうしようか少し考える。

「おかげさまでね。……キール、ありがとう」

「は。あ、うん」

 ハヤトは汚れ物の入ったバッグを受け取って、洗濯機にひっくり返す。

「いつになったら勝てるのかな。俺がキャプテンやってる間に勝てるのかなあ」

 うがい手洗いしながら、ハヤトは一人言う。

 キールは何とも言えないまま、ハヤトが顔を洗い出すのを一方後ろで見ている。手には、ハヤトが顔を拭くためのタオルを持って。

「うわあ……超さっぱりした。……はぁ。……お前もこれ使う?」

「……石鹸?」

「んー、まあ、石鹸、か。石鹸って意識しないけどなあ」

 青いチューブのフェイスウォッシュを、ハヤトから手のひらに貰って、キールも顔を洗った。

「お前、肌が無駄に綺麗だよなあ。にきびも出来ないしなあ」

 ハヤトが、タオルをくれる。嬉しく思いながら顔を拭いてハヤトの顔を見る。なるほど、よく見れば前髪のかかる額に、ひとつ赤いものを見つけられる。気にするように触りながら、

「邪魔なんだよな、これ。でも潰すと他から出てくるしさ。俺もお前みたいな綺麗なのがよかったよ」

 それでも君のほうがずっと可愛いからいいんだ。怖いから口に出せない愛の言葉。

 

 

 

 

 側にいるだけで幸せだから、夜一緒に部屋でハヤトのおしゃべりを聞いているだけでも満足だ。しかしそれはあくまで精神的なもの。肉体は三日に一度の放熱を求めて荒れ狂う。深夜のトイレで一人で息を殺し、快感を得た後に抱くのはただ、ただ、敗北感。今日も欲を抱えて生きている自分への失望。

 ハヤトは「お前、何時何処でオナニーしてるの?」と聞いた。それにはもちろん、答えていない。けれど、判っているのだろうな。どんなにコソコソと息を潜めていても、数日に一回、規則正しく必ずベッドを空にしているのだ、ハヤトが気付かぬはずはない……。

 ハヤトはそもそも、キールの気持ちは全部、他ならぬキールから聞かされたから判っているのだ。それで居て、平気な顔でキールの前で裸になる。背中流せよと風呂に誘う。キールを苦しめる。なんて危なっかしいんだと、余りに天真爛漫としすぎるハヤトに警鐘をならしてあげたい気も、……しかしどうやって鳴らせというのか、キールは途方に暮れることくらいしか出来ない。自分は今日もハヤトを妄想で汚した。大好きな大好きなハヤトが自分を「そういう」風に愛してくれる日の来ることを祈って、狭苦しいトイレの中で。

 恋愛において閉塞状態こそ性質の悪いものはないだろうとキールは思った。ドラマにも本にもなりはしない。それはつまり、恋愛に於いて閉塞状態の時期というのが実は一番長いということの証だろう。こういう時期に無理矢理考えることは、大抵ろくでもないことだ。

 ハヤトは僕に告白されたことを、心底迷惑に感じているんじゃないか。

 本当は僕に帰って欲しいと思ってるんじゃないか。

 実はゲイを軽蔑しているのでは。

 気持ち悪がっているのでは。

 僕が嫌いなのでは。

「……うう」

 ダメだ、やめよう。キールは立ち上がって、トイレットペーパーを丸めて流す。トイレを出て、食卓を抜けると、奥が父と母の部屋、手前が二人の部屋。

 ハヤトはキールが部屋を出るときと同じように眠っていた。すうすうと、案外大人しい寝息を規則正しく立てている。

 僕は君のことが好きだよと、空ろな言葉を吐き出すたびに、君を怖いと思うようになるんだ。

 馬鹿な循環だとキールは思いながら、その循環から容易に抜け出せない自分なのだと判っている。そして何よりも確かさを持っているのは、「ハヤトは僕のことが嫌いじゃない」という……その一点。しかし、それも救いにはならないほど、ハヤトのことが好きなキールだった。

 眠りが浅くなった。その分、早く目が醒める。僕は老人かと溜め息を吐いて起き上がって、机の上の時計を見ても、まだ五時になったばかりで、これでは五時間しか眠れていない計算になる。しかし、もう眠くはない。呆然と床に敷いた布団の上で座って、反射的にハヤトを見る。トイレから戻ってきたときには向こうを向いていたはずだが、今は寝顔をこちらに向けている。乾いた唇はどんな味がするだろう。

 無垢に見える寝顔だ。今は何も喋らない、だから、ただ、ただ、ただ、いとおしい寝顔だ。今世界で一番弱いハヤトを、彼より多少は強い自分が守っているのだと……大それたことを考える。起きている君は、僕より明らかすぎるくらい、強いから。

 二学期が始まって暫く経って、十月の半ばには中間試験があるという。試験ということは、当然またハヤトは英語で苦しむわけだ。いいんだ、ハヤト、英語なんて喋れなくって。僕が君の代わりに喋ってあげる。――怖くても怖くても怖くても、泣いてしまっても、いい、君からキスがもらえるなら――僕が英語を喋ろう。

 要するに、自分は馬鹿で変態だ。キールは判っていて、それでもハヤトを好きだと思う。きっと十八歳の男ならこれが自然だと思う。

 キスをしたら、目を覚ましてしまうだろう。だから、じっとその顔を、ベッドサイドで見詰めながら、息を潜めて。ただ、見ている。優しい寝顔、今は、優しいだけの寝顔、キールの気持ちも安らぐようだった。

 目覚ましの鳴る八時までの三時間をそうやって過ごすつもりだった。


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