スクリーマー

 『キール=セルボルト』、新堂キールは、新堂勇人の年上の弟として二十一世紀東京西部、例えばその精だって飲んでみたいと思うくらいその新堂勇人のことを濃く思う。炎天の屋上に出てカップアイスの蓋を開けて、、まだちょっと残ってる勿体無い、そう言って蓋の裏のをわざわざ舐める、その舌先がいやに赤く見えて、胸をちくちくさせるキールはまだ十八歳で、だからそういう思いを抱くことに少しの躊躇いも無くて、一番彼が恥ずかしがるであろう言葉を選ぶなら、恋をしていた。青春という胡散臭い実体の無い時空間に足を踏み入れていた。

 キールもアイスの蓋を開けて、木のスプーンをぐいと突き刺した。

 十一階の屋上に七月二十六日の午後一時五十一分、敢えて上る馬鹿もいないと思いきや、「な、暑っついとこで食べれば絶対美味いって!」とここにいる。キールはハヤトを好きと思うから、その提案を暑苦しい汗臭いものとは思わないで、苦笑いをして、「いいだろ、いいだろ」そう言い募る少年に頷いた。生来の色の白さ、日に焼ければ赤く痛むのに、……僕はバカか? 一番自分が判っているつもり、そうさ、僕はバカだよ。けれど、愛すべき者をやっと見つけたのにその子を愛せない自分がいたとしたら、そいつのほうがきっともっとずっとバカ。

「あぁ、美味しいなあ、なあ、キール」

 額に、鼻の頭に汗が浮いている、それを美味しそうと思うような、一歩踏み外せばタダの変態と断ぜられるような思想も、十八歳の若さ及び暴走しがちな性欲ゆえと許して。

「そうだね」

 キールは穏やかに微笑む。

 情熱だと、思うのだ、「キールってさ、こっちだと相当ハンサムなんだと思うぜ、学校また行ってみる? いっそ転校生になっちまう?」、君がそうお世辞みたいな評価をしてくれたこの顔の裏に潜むのは。

 自分に生きる理由を与えてくれた相手を愛せない法があるだろうか。あるとしても、それを超えられるほどの思いだと、キールは信じる。掴んだ手は二度と離せない。離したら二度と繋げない。それは嫌だから。だから自分は今ここに在る、少年の隣りに座っている。同性愛者として在ることを許されている。あと一歩近づくことが出来れば、もう後ろを振り返る必要の無い場所まで行くことが出来ると確信している。そう思わせる原動力は、キールにとって、ハヤトの存在に他ならず、そして己の中に存在する確かな情熱だった。

「いっつもはさあ、毎年はさあ」

 少年は最後の一口をぱくんとしてから、眩しげに笑う。

「部活ない日はタイクツでさ、クラスの連中は塾とか通ってるし、やることなくてさ。テレビ見てても面白くないし……、キールがいてよかったって正直思うよ」

 キールはその笑顔を、眩しく思う。そこに太陽が宿ったかのように感じられて、言葉を失う。

「……それは」

 やっと、甘い舌が言葉を紡ぐことを、思い出したかのように、不器用に。縺れてしまいそう、転んでしまいそう、こんがらがってしまいそう、なのを、堪えて。

「光栄だね」

「ああ、ほんとに。なあ、この後どうする? そうだ、昼寝するか」

 昼寝なんて、一人でしたって同じじゃないのか? そう思いながら、キールの笑顔はどこまでも穏やかなままで、

「それで構わないよ」

 そう答えた。二の腕がひりひりしていた。

「寝る前にシャワー浴びてさ、それからにしよう、汗かいたし。ってお前ぜんぜん汗かいてないな」

「体質によるよ……、本当はよくかくほうが良いんだろうと思うよ」

「そうかなあ。まあ、試合の時とかもさ、先にばーっと汗かいちゃったほうが身体のキレとか良くなるしなあ。けどさ俺、知ってるだろ? ガッコ行くときさ、チャリで飛ばすときさ、汗びっしょりんなるから替えのシャツ持ってかないとクサくってさ」

 嗅いだ事は無いけれど、臭くはないよ。だってハヤトのだもの。と、予め断らないと問題の生じるようなことをキールは考えた。

 家に入り、ハヤトはガスの電源を入れて、部屋で着替えを揃え戻ってきた。

「君のほうが汗をたくさんかいているのだから、君から浴びれば良いよ」

「それでいいの?」

「うん、もちろん」

 結局、一緒に入ることになる。キールは内心で激しい狼狽を収めるのに躍起になり、ハヤトは何を考えているのだと怒りたくなってくる。

「……でもさ、いいんじゃない? フラットでは一緒に入ってたんだし」

「しかし……、あれは止むを得なかったからだろう。あれだけの大所帯で順番待ちが長くなるからと」

「でも、入れるだろ、別に。俺平気だし」

 違うのだ、

「僕は同性愛者なんだぞ?」

 何を主張しているのか、けれど、それが正解だ。

「……もしも君が女で、僕が男で。……君はそれでも僕と一緒にお風呂に入れるか?」

 キールが汗をかいている。それを、ハヤトは笑った。

「洗ってやるよ」

 そう言って、ぐいと腕を引っ張る。

「何怖がってるのか知らないけどさ」

 何よりも誰よりもただ君だけが怖いよと、キールは思った。

 怖いもの知らずに、笑顔のまま、さっさと服を脱いで、一応前は隠して、だけど、「早く脱げよ」と急き立てる。

 人を好きになるというのは辛いものだ。

「……わかった……、わかったよ、脱ぐ」

 こんな風に振り回されて、幸せを感じてしまう。人を好きになるのはきっとマゾヒストのすることだ、きっとそうだ、そうに違いない、そんな乱暴な、自己体験だけに基づく規定をしてしまう。

 これくらいでいいかな、とハヤトはシャワーの湯に手を当てる、それから唐突にキールの顔面目掛けて噴きかける、思わず顔を覆ったキールを面白がって、笑い声をけたたましく立てながら飛沫をびしゃびしゃと上げる。

 ようやく急襲の終わった頃には、二人とも腰のタオルをタイルに落として、全裸になっていた、キールは焦って拾い上げようとする、ハヤトが足で踏ん付けてそれを許さない。

「俺はお前がゲイだってこと知ってて一緒にシャワー浴びようって言ったんだぜ?」

 言葉の合間には湯の音が耳を塞いだ。

「俺はお前に告白だってされてるし、お前がどんな風に俺を考えてるか判ってるんだ。だから、お前が何を怖がるってんだ。俺がお前を振ることを怖がってるのか。俺に嫌われることを怖がってるのか。馬鹿馬鹿しいだろそんなのにうだうだするの。面倒臭いだろ」

 な、だから、さ。

 ハヤトは天真爛漫に裸だった。

「怖がんなよ。俺、お前を怖いなんて思わないから。俺だってお前のこと大切に思ってるんだ」

 座れ、と腕を引っ張られたまま、キールは腰掛にへたりこんだ。温かな湯が降り止むと、ハヤトがシャンプーを手のひらに載せて、そのやや長い目の髪の中へ指を差し込む。首筋にどきどきするものが走った。

「かゆいところあったら言えよな」

「……ん」

 今はしおらしく寝ていて、どうか、どうか、息をかけないで。

 願うのだ。

 遮るもの無く、頭越しに覗かれる、僕の全てへ。

「大丈夫?」

「……ん」

 ふたたび、優しいシャワーが降ってくる。キールは潤んだ目を閉じた。

「じゃあ、次、お前洗えよ、ほら」

 と、シャワーを握らされる。戸惑ったまま、ハヤトの髪は少し伸びたなと思いながら、息をして、何とか立っている、何とか今、僕は、こうして、こんな風でも、生きているのだ、そう、わざわざしなければいけない自覚。僕ってダメだ、本当にクズだ、そう、してしまう自虐、そして、それでも君が本当に好きだと……、自白、君の心も身体も独り占めしたいと、髪の破片からでもいい、僕の手の中でこうして抱く。

「……もうちょっとこう、力入れてやってよ」

「……君が、痛いと思ったら困るから」

「大丈夫だよ、ちょっとやそっとじゃ痛くないよ」

「……そう、なの、かな……」

 キールは何処までも臆病に沈んでいく。興奮は峠を越し、寧ろココからは下りで転ぶことのないよう、気をつけたいところ。

「お前さ」

 本当ならば殺傷能力をも秘めたキールの指に濯がれながらハヤトは問う。

「はい?」

「キールさ、ここ来て、もう一ヶ月? 二ヶ月? くらいは経ってるよね」

「……そうだね、もうすぐ二ヶ月になる」

「その間さ、オナニー一回もしてない? ……いでっ!」

 手に力が入らなくなって、ハヤトの脳天にシャワーをすべり落とす。

「なな、何、すんだよ……バカっ」

「ご、ご、ご、ごめん、ごめんなさい、すみません、ごめんなさい」

 しかし、これはハヤトの方が悪かったろう。

 この場ではこの一つの落下が救済となりはするが、この言葉はしばらくの間、キールの中で蟠りつづけることとなる。そう言えば、ハヤトはいつ、どこで、オナニーをしていたんだろう? 誰もが寝静まった頃、息を潜めてトイレに行って、窮屈に掻くことしか出来ないキールは、うすぼんやりそんなことを考えながら、焦り服を着た。

 

 


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