土曜

 来なければいい、そう望んでいた自分がいたことも確かで、それは複合的な理由によるものだ。ストイックなつもりで、ちっともそうじゃない、だけどそれを隠したいと望む。欲しいものを目の前にぶら下げられて、手を伸ばさないでいるのが一つの美であり自分の望む姿と思い、愛する相手のことすら傷つけかねない自分に、ほとほと嫌気も指すが、短からぬときをそうして過ごしてきたのだから、容易に修正できるものでもない。

 そういうお前も大好きだけど、そうじゃなくってもお前のことは大好きだよ。

 そう笑うハヤトがいる、こんな幸せなことはない、しかしキールはすんなりと勃起したり射精したり出来るような単純な構造をしている訳でもなかった。だから、結局何の心の準備も出来ぬままに迎えた土日、母と父を「いってらっしゃいませ」と送り出した後、土曜の朝寝を楽しんでいるハヤトを起こしに行く気が進まない。進まなくとも、食卓には出発前の慌しい中に母が拵えたサンドイッチが皿に乗りラップのかけられた状態で待っている、進まなくてはいけない。

 そっと扉を開ける、ハヤトが曲がった布団に身体を合わせて寝ている。こっち向きの寝顔、よだれが少し、垂れている。

 「明日の、遅くとも八時には帰ると思うから」、母はキールにそう言った、明日の八時、までには何かの答えが必要。幕を引く手は自分のものではない、せめて、開けるだけは自分がするのだ。

「ハヤト」

 揺する。眉間にかすかな皺が寄り、「ううん」とうなる。疎まれている、そう思って、揺する手を止める、と、ハヤトがぱかっと目を開ける。

「……いまなんじ」

「九時を回ったところだよ」

 キールが答えると、「ああ」と微笑む。

「そう……、よかった。寝坊したかと思った……」

 ゆっくりと起き上がって、目を擦る、大きくあくびをする。

「……眠いの?」

「……いやあ……、せっかく二人っきりなのに、寝坊しちまったらもったいないなって」

 また君はそういうことを言って僕を喜ばせる。

 優しい微笑を形作るあちこちに、キールは刃を見る。その刃を見るのは自分だけだと判る、ちっとも嬉しくない。要するに人を好きになるとは不利なことだ。

「母さんたちは?」

「もう出かけられた。朝ご飯の支度が出来ているよ」

「そっか。……キール」

 ハヤトの手に腕を捕まれた。細身でもしっかりとした力のあることは知っている。そうされるだけで動きは止まる。

「……こっち来い」

 まだ慣れない自分を滑稽とは思わないのだ。畏れ多いようなこの幸福に、そう安易に慣れてはいけないのだと自重する、しなくてはいけない。しかし、ハヤトが抱きすくめ、髪にキスをする気配にまでそういった対応をし切れるほど根性の据わったキールでもないのだ。

 「頂いた唇」、キールはきっとそう表現するだろう。キスをして「頂いた」と。要するに、まだ対等ではない。ハヤトの方がずっと上だ、ずっと強い。しかし、この土日はターニングポイントにもなるはずだった。セックスは出来なくとも、性行為という場において明るいのは自分のほうだ。ハヤトを「リード」するべき役目を、キールは帯びている。そうなれば、自分のほうが圧倒的に――

 そんなことを考えながら、キールはキスを終えた。顔が赤らんでいるのが判る。

 ハヤトはにっこり微笑む。

「おはよう、キール」

「……うん、おはよう」

 瞼が少しはれぼったい、ひょっとしたら夕べはあまり眠れていなかったのかもしれない。何度も寝返りを打ち、トイレにも二度起きていたし、ベッドの上に起き上がって少しぼうっとしていた様子もあった。それらを全部知っているほど、キールも眠れなかったのだ。

「……キール、……キィル」

「ん……、なんだい?」

「……最初の……チャンスをあげるよ」

「なに? ……っ」

「へへ……」

 ハヤトを掴まされてキールは固まる。

 だが、辛うじての冷静さ。

「……いいかいハヤト。こういう、タイミングでの、勃……っ起というのは……、朝だから、その、つまり、睡眠中、一度もトイレに行っていない、その……ええと、そのう」

「知ってるよ。けど、お前のこと好きって言うのも、本当だ。ここがそう言ってるんだってば」

「……朝っぱらから」

 苦しい言葉と共に、無理矢理手を解いた。

「……サンドイッチが硬くなる前に、朝ご飯だよ」

 俺の硬くなってるこれは放置かよ、とハヤトはブツブツ呟いた。まあ初球はスラッガーも見ていくよなと、少し笑って。

 キールはハヤトに興された性欲の渦をどうやり過ごそうか、とにかく台所へ行ってコーヒーを入れ始める。

 やはり、どうしても、と思う。やはりハヤトが可愛い、どうしてもハヤトを抱いてみたい。向こうがそれを望んでいてそれを出来ない自分は単なる臆病者か。断じてそうではないのだということを、ハヤトが判っている。だから簡単に手を離した。そして、誘う、しかし、強姦するようなやり方は択ばない。ああやって自分を丈夫に見せるのだと、キールはそういうハヤトを神々しくも思う。

 俺はお前なら平気だよ、どこ触られたって。だから俺もお前の何処触ったって平気だよ。触りあおう、舐めあおう、愛し合おうよ……、ね、お前がそうする勇気を身に付けたら。最後の条件を、ちゃんと待ってくれているのがキールには判る。

 朝食を摂り、片付けをし、簡単に掃除をし。ハヤトはその間、「あんまり面白いのやってないなあ」と独語しつつテレビを見たり、新聞を広げて時間をかけて読んでみたり。そうこうしているうちに、十一時を回った。平日ならば三時間目の終りには購買で買ったやきそばパンの半分は齧っているようなハヤトである。ソファから起き上がって、

「昼ご飯どうするよ」

 いつも母と簡単なもので済ませているし、時間も一時頃ということが多い。だから健全な十七歳の食欲を、久しぶりと思う。フラットでは、いつもハヤト、そしてジンガは、かなりの量の飯を平らげていた。それでも居候三杯目にはそっと出しで、途中からは「キール飯……、なあ、キール飯、キールご飯、キール、キールライス」「ねえねえ、スウォン、それ残す? お前ご飯残すだろ? な? ついでに魚も残すよな」などと、食の太くないキールやスウォンに絡んでいた。「人を丼飯みたいに言わないでくれないか」「いい加減にしてください僕の食べるものがなくなってしまうじゃないですか!」、そしてリプレに二人して怒られていた。

「……食事代は置いていってもらってるから……、じゃあ、晩ご飯の買い物も兼ねて、外に行こうか」

「デート?」

「……そう言ってもらっても、差し支えないけれど……」

 電車で一駅移動すれば、そこはもう多摩最大の都会であって、カラオケもあればゲームセンターもあるしショッピングモールもあるし大きな本屋もある。急行に乗ればあっという間に新宿だ。

「何食べる? 何食べたい?」

「僕は……なんでも。君の食べたいものでいいよ」

「んんー……じゃあどうしよう。……ん、肉、肉食べたいな、吉牛行って豚丼食べよう」

 そしてきっと晩ご飯も肉になるのだなあ。

 キールはハヤトと二人で暮らす遠い日を夢想して、献立は僕が立てる、そしてご飯は僕が作る、決める。ハヤトの健康管理は僕がするのだ。それはキールにとっては力強く拳を握って決意するような事案だった。

 豚丼の大盛に「自腹飯じゃないから贅沢しよう」とけんちん汁と半熟卵までつけて、払う段になって二人で千円に届かないことに、キールは新鮮さを覚える。まだこの世界は知らないことだらけだ。

「はー食った食った……、っぷ。ごめん、どうする?」

「そう……だね、……まだ十二時だ」

「キール、あんまりこういうゴミゴミした場所好きじゃなさそうだね」

「……まあ、うん……」

 あちらの世界でも雑踏に進んで足を踏み入れる気にはならなかった。それがこちらの世界では行楽地へ向かう車の渋滞が何十キロも連なると聞いた。「父さん免許持ってるんだけどさ、母さんが渋滞嫌いだからいつも旅行は電車なんだ」、新堂家はキールにやや「正常」と思える感覚を持っている。

「じゃあ……、買い物して帰る? 晩飯のおかず、売ってる場所わかる?」

 以前、母に連れられて来た事があった。キールは頷く。じゃあ行こう、と、土曜の昼の人ごみ、ハヤトは臆することなく、一歩進む、キールはハヤトの後ろを影のようになって進む。それに気付いて、ハヤトがキールの手を掴む。

「離すなよ」

 ……離さないよ……離すもんか。

 

 

 

 

 この季節は見るモノがないとハヤトは零しながら七時にNHKを択ぶ。「何言ってるんだか全然判らないな」と呟きながら、ちゃんと向き合っている背中は可愛かった。「キールが来るまではねえ、目が悪くなるんじゃないかってくらいテレビばっかり見てて」と母が言っていたのを思い出す。自分が少なくともテレビ以上の娯楽としてハヤトの側にいられるのだと知って、嬉しかった。池脇千鶴は今も好きとは言うものの、その「好き」は例えばカレーライスの好きなのだなと思って、妙に得意げになる。

 ハヤトの目には魔法がかかっている、そんな陳腐な物言いで、キールはハヤトの目の力を評する。魔眼とか眼力とか、そういった物騒なものとはまた違おうが、ハヤトの目はしっかりとした光と力を持っている。二重瞼に縁取られた大きな目は、ともすれば童顔を形作る要素となるし、幼年期には女の子と間違えられる理由にもなった。キールはハヤトの目にをいつも追いかけ、その目の先にあるものを択ぶつもりでいる。だからこそキールも阪神が好きになったし、バスケットボールのルールを勉強しようと思った。そしてあまり強い目で自分を見てもらっても大丈夫な自分に、早くならなくてはなと思いもした。

 ハヤトの要望のメニュー、夕飯は以外にも煮魚になった。

「いつも骨が面倒臭いと言っていなかった?」

 ハヤトは苦笑いする。したまま答えなかった。真剣に、煮魚と向き合っている。見かねて、キールはもうハヤトよりも器用に扱える箸で、身と骨を魔法のように分けて見せた。

「あとは風呂だな」

 手伝いは割に殊勝にするほうで、今日も帰ってきて風呂の掃除をしていた。母がそれなりに厳しく、それでいて優しくハヤトを育てたことは、ハヤトの言動を見ていれば判る。母というものを少しも知らないキールでも、「いいお母さんだな」と思える。

「うん。僕は後でいいから、ゆっくり入っておいで」

「ん?」

 お茶を啜りながら、キールの言ったことに、ハヤトが訝る。それは恋人としてのルールだった。

「ん?」

「いや、一緒に入るだろ?」

「……え?」

「いいじゃないか、二人きりなんだし、他人じゃないんだし、恋人同士なんだしさ」

 十八歳の性欲と十七歳の性欲にどれほどの差があるのだろう。少なくともこの二人に限って言うならば、ハヤトの性欲は先鋭的なものではないがゆえに、先鋭的なものとして在りたく思い、また顕在化を許されたいとして下腹部に微熱を孕んでいる。キールの性欲は既にして先鋭的なものであり、その尖った先端がハヤトを傷つけてしまう恐れのあることを認識しているから、何よりも恐れているのだ。

「しかし」

 にこりとハヤトは笑う。

「洗ってやるよ」

「しかし……」

「怖がるなってば。な、判るだろ? 俺はお前を誘ってる。お前が俺にいつになったらえっちなことしてくれるんだろうって、楽しみにしてる。俺はお前に、襲うようなやり方で無理矢理にさせることは多分、出来ると思うし、時々しちゃおうかなって思う。けど、それは何だかやっぱりアンフェアだと思うし、……だから、待ってるんだ。お前が少しでもその気になってくれるように、誘いながら」

「君は」

 何て子だ。怒った方がいいのか。いや、しかし、なんだ、……キールがハヤトを怒れるはずもないのだ。

「タオルと着替え用意してくるな」

 すいっと立ち上がって、さっさと行ってしまう。その姿を目で追うキールは、要するにとても情けない。

 据え膳食わぬは、と言う。据え膳が美味そうな匂いを醸しているのだ、食え食えと言っているのだ。ただの膳ではなく、言ってしまえば男体盛りであるわけだ。食わなくとも箸くらいつけなければ失礼に当たる、それは重々承知していながら、どこまで言っても新堂キールという男には人を望むように傷つける為の度胸が決定的に欠けていた。

「入ろ」

「……う、ん、ん」

「ほら今うんっつったぞ、入ろ」

「……うう、んん……」

 ぐいぐいと引っ張られて、セーターを引っ張られて、「わかった、わかったよ、自分で脱ぐから」、仕方なく上から、それでも不必要な時間をかけて、ゆっくりと脱いでいく。

 一緒に入浴するのは、あの夏の日以来。あの日もたまたま両親が不在、二人きりだった。ハヤトがこの機会を楽しみしていたことは、判る。もうハヤトは、寒い風呂場で裸なのだ。裸。ハヤトの肌を直に見る機会は、このところ増えている。ハヤトが自分に見せようとしているからだと判っている。そして、呆気なくその肌に目が行く。すっきりと筋肉のついた裸は、見ていて少しも飽きない。それでもじっと見ることに罪悪を感じるから、すぐに目を逸らす。ハヤトの乳首は可愛い色をしているな、そういうことだけちゃんと覚えておいて。

「入ろう」

「……うん」

 きっちりと前を隠して、前のハヤトの尻をじっと見ている、ああ、可愛い、そう、可愛いんだ、しかし可愛い以外の何かちゃんとした言葉はないものかな、そういうことを考えないで今はハヤトの尻を見るのだと、雑念を妙な決意で打っ遣る。

「……かわいい?」

 お湯をかぶるハヤトが、不意打ちのように尋ねる。

「……え?」

「俺の尻、可愛い?」

 罪の無い笑顔でハヤトはキールを見た。ざっと髪をかきあげる、おーるばっくのはやともかわいい、キールはもちろん、そう思う。

「ずっと見てるんだもん、そりゃ気付くって普通」

 キールの呆然とした顔を見て、ハヤトは笑顔で、キールの黒い髪に触った。自失、両手だらんと下げて、局所を隠すことも忘れて。黒い髪と黒い陰毛、自分と形の違うペニスを順に見る。

「な、キール。触ってもいいんだよお前は。俺の体の何処にでも触っていいんだ、許されてるんだ」

 ハヤトの誘い方は強気に見えてその実とても健気なものだと判っているから、キールはまた二の足を踏むのだ。

「……ハヤト」

 どうしても好きだ、どうしても愛しい。どうしてかを考えるよりも、どうしてもの方が強い。

「お前も知ってると思うけどさ」

 ハヤトは浴槽の蓋を開けて、縁に座った。依然、裸を隠さないままだ。

「……寂しいじゃない、オナニーした後って。……お前が俺を好きって言ってくれる、それが凄く嬉しくて、俺もお前が好き、なのに、同じ気持ちよさを何でわざわざ別々に味わうんだろうな? お前が俺とえっちなことしたくないんじゃないかとか思っちゃうよ」

 そう言われて、嬉しくないはずがない。

 それでもキールの目は耳は、ハヤトの指が、声が、微かに震えているのをつぶさに感じ取るのだ。

 触れて欲しいと言いながら、怖がっている訳だ。つまり僕がいま君に触れるのは、――正答か誤答か――

「とりあえず……、身体を洗って、お湯に入ろう。風邪をひいてしまってはいけない」

「洗ってくれるの?」

「……そう……だね」

 少し温めに入れたんだと、背中を現せながらハヤトが言う、どうしてと聞いたら、お前とゆっくり入っても上せないだろ。

「前は……じ」

「自分で洗うよ」

「……うん」

 左腕から洗いながら、

「全然恥ずかしくない訳じゃないよ、本当のところを言えば」

 所在無く後ろに座りながら、キールはハヤトの、石鹸の流れる背中から腰、尻にかけて、その区間を何往復か。髪を良く濡らして、シャンプーを泡立てながら、ハヤトは言葉を続ける。

「……ちんちん見られたりとかさ、そんな、することじゃないからさ。まあ、何て言えばいいか……、裸でいるだけなら、まあ、平気だけど、……そこばっかりとか、尻ばっかりとか見られるのは恥ずかしい、よな」

 手桶になみなみお湯をついで、ざっぱりと泡を流す。立ち上がって、……顔の高さにそれがある。うわ、と怯んだキールに、苦笑いをして、

「俺もお前の背中、洗う」

 激しさも和みも同じようにくれる。

「ほんとに久しぶりだよな、考えてみると。あっちではいっつも一緒だったのに」

 細い背中だなあ、腰細いなあ、改めて感心したような声を出す。腰周りを辿られると、少しくすぐったい。力の強いハヤトが、キールに痛い思いをさせないようにと、柔らかな力で歩くからだ。

「前は、自分で洗うよ」

「……ん」

 ハヤトは少し残念そうに、でも素直に、キールに返した。そして、キールの背中でちんまりと座って、見ている

「君はもう洗い終わったんだから、入ったらどうだい? 寒いだろ」

「お前と一緒に入る」

「でも……」

「お前と一緒に入るために一緒に入ってるんだから一緒に入るんだ」

 そう言われては、キールもさっさと髪を洗わざるを得ない。

 すっかり冷えてしまったようなハヤトは、温いお湯に浸かるときも「あっついなあ」と言って震えた。

 フラットの浴槽に二人で一緒に入ったことはない。あの頃は、キールが洗っているときにはハヤトが入るように、効率的なスタイルを取っていた。二人には窮屈で、膝を抱えて座って、少なめに入れたお湯が溢れ流れぬように気を使いながら。

 目の前に裸のハヤトがいる、完全に気を許してそこに在る、そうなるべく意識しないようにしているから、だから、キールの下半身は一応、大人しい。それはしかし、このお湯のようなもので。

「なあ、キールさあ」

 膝を抱えて身体を小さくしたハヤトが、左膝に顎を置いて、上目遣いに言う。

「……こういう状況さ、チャンスと思っていい?」

 何を言われたのか判らないで、キールは聞き返す。

 ハヤトは腕を解いて、キールに少し近づいた。ちゃぷんと浴槽に波が立つ。

「……だからあ……、例えばな」

 もうひとつ、近づく、たらりと浴槽の淵から一筋、湯が零れた。ハヤトは右手を伸ばし、キールの頬に触れた。

「例えばな、……キスとか、してみたり、したい……」

「……え……」

「恋人同士のつもりだから、俺も。キスくらいしたい、とりあえず、……キスでいいから」

 そう、じっと目を見詰められて言われては、キールとしても無碍には出来ない。キールも腕を解いて、こっくりと頷く。ハヤトはすぐに笑顔になって、まずキールの額に一つ、頬に一つ、それから、そっと唇に。

 離れるのが惜しいと言うように、ハヤトはしっかりとキールの裸の肩に腕を回す。キールは、いけないと思い始める。このままでは、と。

 あっさりとハヤトは口を開き、キールの唇を舐った。キールの腕が湯の中を掻いた、ずるりと尻が滑って、二人揃って沈んだ。盛大に湯が零れ流れた。

「……ぶはっ……、はぁっ、はぁっ……」

 鼻に水が入って、涙目になって、キールは咳き込む。ハヤトはそんなキールを笑う。

「慌てすぎだよ」

 無防備になったキールに、またしっかりと抱きついた。はぁはぁと荒い息を吐く、その息を飲み込むような近さで「ごめんよ、悪かったよ」、謝って、息が緩くなるまで待って、

「舌を、入れたい。そういうキスが、したい」

 改めて言った。

「ダメだよ」

 キールはすぐに言う。

「どうして? それだけじゃ終わらないって思うから?」

 ハヤトは、少しも自分の裸を隠さない。突きつけられて、キールは戸惑うほかない。

「……それは……」

「いいんだよ、キール。二人っきりだ。俺は、ちっとも怖くなんかないぞ、お前が優しくしてくれるって判ってるんだもの」

「優しくしてあげられるかなんて、判るものか」

「判るよ。どんなに興奮したって、お前が俺を苦しめたりなんてするもんか」

 もう、返答は待たないで、ハヤトはキールに唇を押し付けた。無理矢理に舌を捩じ込む。歯の扉を開けばそこにぬめった舌が在る。その舌に味なんてなくても、ハヤトにはしっかりとした甘さを感じ取ることが可能だったし、それはキールにとっても同じ事だった。誘うように歯列を上顎を舐めて、どうすればキールの「理性」という邪魔なものを脱がすことが出来るだろう、ハヤトは考える。怖くないはずはない、しかし、それはジェットコースターに乗るようなもので、大げさな言い方をしてもせいぜい、バンジージャンプをするようなものだろう。キールは要するに、安全装置でありロープをしっかり持っているから、信頼の置ける遊戯装置としてハヤトも安心して誘うことが出来るのだ。舌を深く差し込んでも、まさか噛まれるとは思わない。

 だから、ハヤトは水の中に手を伸ばし、キールの芯に触れた。

「ん!」

 キールが一つ身を強張らせる。ハヤトはキールの舌を一生懸命舐めることで、お願い、お願い、どうかお願いと、強請る。

 ズボンの上からではなく、直接、キールの感触を知る。自分のものとは、矢張り違う、輪郭からして違う。そして、大きさも。これくらいあったら自信になるだろうとぼんやり思い、しかしキールはちっとも自信があるようには見えないなと、単純ではない構造を知る。

 触れた、というのが、嬉しかった。キールに触れた、キールに届いたということが。そして、次には、キールのそこが平常の状態ではないと言うことを知って。

 ハヤトは舌を抜いた。キールの頬に、頬をつけて、耳朶を舐めるように、囁いた。

「大好き。……キール……、大好き」

 ――いつからか俺はキールを理想の恋人にしちゃったみたいだ。でも、それくらい好きでそうなったんなら、いい。

 キールの爪は、バスタブの底を掻いた。

「はやと」

「……お前が、好きだ。なあ……本当に、大好きなんだ」

「……ハヤト……」

「嬉しいんだよ。お前と、裸でくっつけて、こうやって触れて……、なあ、キールも俺のに触って。俺の……、キスしながら、触って。もう寂しいの嫌だ。俺、お前が一人で気持ち良くなってるって思うと、嫉妬する。でも、俺も一人で気持ち良くなってるって思うと、なんか、すごい、苦しい、申し訳ないような気になるし、辛い。一緒に気持ち良くなりたい。なれるのにならないなんて、そんな逆さまなこと、嫌だ」

 こう言われて、それでも「理性」に拘れる男ではない、少なくとも、そうまで感心なキールではないのだ。

 がちがちの指で、ハヤトのペニスに、触れた。

 所謂、糞度胸という奴だ。

 それでも、ハヤトとしては構わない。過程は如何あれ、結果が重要だったから。

「……んー……」

 今、すっごいこと、してる自分たち。意識すると、赤面しそうだ。いっそ、メチャメチャ意識して、真っ赤になっていた方が潔い。

 ハヤトの手の中で、キールが段々硬くなっていく。そしてもちろん、ハヤトの砲身はとっくに硬い。

「キール、指、……いいな……」

 言ってる意味が自分でも判らなかったから、言い直す。

「キールの指、優しくって……。細くて、すべすべしてる……、いいね」

 キールの耳には入らない。ハヤトが自分の顔色を意識する以前に、キールは耳まで真っ赤なのだ。

 そういう風にして、静かに、互いの性器を愛撫していた。そうだ、こういうのを「愛撫」っていうんだな、ハヤトは考えながら、愛撫し、愛撫される互いを、幸せと思った。

「出よう」

 不意に、キールが言った。

「……ん?」

「出よう、いつまでもこんなことをしていては……、風邪をひいてしまう」

「えー……?」

「……うん……、でも、……出よう、ね?」

 ハヤトは不満そうな目でキールを見る。

「……なあ、お前はこんなので満足なの?」

 キールの顔は、ハヤトの目には普通の顔色に見えた――あくまで、ハヤトには。実際にはキールは、本当に耳まで真っ赤なのに――。キールは困ったように笑う。

「肉体的にはちっとも満足じゃない。けれど、心は凄く満足だ。……君が側に居てくれるだけで、僕は幸せなんだよ」

 ハヤトは、何だか悔しくなった。肉体的な満足がもらえないと、不機嫌になってしまうような自分は、キールを愛するには未熟なような気分になったのだ。実際に、この状況で、キールがずっと触れてくれるならば、浴槽の中でだって射精するつもりでいたのに。

「……いやだ」

 それは、興奮状態に願ったことだから、絶対に叶えたい。

「俺は、お前にもっと気持ち良くして欲しい。満足なんかしない。俺はお前とずうっと幸せに生きてくんだ、こんな程度で満足なんかしないぞ」

 我儘を言っていると自覚をしているから、キールが眉を八の字にしたのを見て、悲しくなる。でも、どうしても、それだけは我儘と言われてもどうしても欲しい、「二人」でする「経験」だった。なるほど、手を繋いだ、キスをした、自転車でいろいろなところにも言ったろう、しかし、積み重なって、「次へ」「次へ」、続いていきたい、つなげていきたい。

 差し当たり今は、ハヤトはキールでいきたいし、キールをいかせたいと痛烈に思った。我儘でも叶えたいと。

「……けど……、風邪をひいてしまっては……」

「お前なあ」

 低い声で。途端にキールの表情が強張る。

「……じゃあ、タオルで身体拭いて、俺の部屋だったらいいのか」

「それは……」

「だってそうだろ。風邪ひかなかったらいいんだろ」

 屁理屈かもしれない、けれど「とにかくダメ」なんてことはキールは言わない。

 だから、ハヤトはすっと立ち上がる。

「出よう。……部屋に行こう」

 勃起しながらそうやってぷりぷり怒るのは、なんだか滑稽だと思いつつも、キールが愛しくて仕方がない。どうしてか、どうしても。乱暴に髪を拭き身体を拭き、

「早く来いよ……、もう、我慢できないんだ」

 そう言い捨てる。途方に暮れたようなキールと目が合った。……ちょっと可哀想だったかなと思い、少し憂鬱になりはしたが、願いが叶うのだ。また「次」の未来が見えてきて、ハヤトの視界は明るく開けた。


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