最悪の唾液

 救済措置として延べられた手の、指の隙間からするすると、滑らかに軽やかに音を立てずに転がり落ちていく砂だ。元々は、形があったはずだ、綺麗で無くとも、愛らしい単純なつくりの想い。

 潰れかけシャープペンシルの先が一ミリ伸びた。ピリオドを一つ、打ったところで、またすぐ次、「I」から始まる英文をつづり始める。カンマを打つ、さすがに痛くなってきた、閉じた瞼、指で押す。

 クーラーをかけっぱなしの部屋は、涼しい。キールは上に一枚羽織る必要を与えた。温かいコーヒー、ミルクだけ入れたものを飲む。少し考えてから、再び筆記体で走り始める。するすると音を立てて、シャープペンシルの芯が描く軌跡。

 変哲の無い銀色のシャープペンシルを握っていないほうの左手が、時折無意識にその頬に触れた。それは本当に無意識で、意識が働いていようものなら、それを疎んで咎める理性も存在しよう。しかし、ほんのかすかな空白を塗って、左手は動き、その指はキール自身の頬に触れた。ハヤトの唇が裸のまま触れてきた、その場所。

 ハヤトがキスをすると、キールは英語の長文問題を解くのだ。

 こういう前例を作ってはいけない絶対に作ってはいけないいけないいけないけないけないったら絶対にいけないっ。

 重々重々重々、重々、理解していたはずが、ハヤトがキスをすると、やはりキールは英語の長文問題を解くのだ。

 ハヤトの学業成績は、特筆するところの無いものであって、例えば一学期末試験における二年四組出席番号八番新堂勇人の主要教化の成績は以下の通り、現代文76点古典72点数学II38点英II31点リーティング25点地理71点日本史66点物理58点化学44点。国語社会で稼いだ貯金を英語数学で吐き出すどころか新しい借金を拵える。

英語は中学時代から大の苦手で、それは「Tom rides on his car.」を「トムは車で彼に乗りました」と訳した試験解答をクラス全員の前で発表されるという苦い思い出に因り、それ以来道端で外国人を見ると横断歩道で反対側に渡るし、英語のテストはとにかく単語の丸暗記だけをする。故に、長文読解が最大の弱点であり、「お、これは判る、this、これ、だな。……これは、thatだから、あれ、だ。あれってどれだ?」という状況におちいり、判るのは「下線部の単語の意味を答えよ」だけとなるのだが、長文読解のそういった問題はえてして「文脈に則した答え」が要求されるわけで、頼みの綱はぷつりと切られる。当然、長らく通信簿には「2」が続いている。たまに国語で80点代後半を取り、現代文で燦然と輝く「5」を頂いても、「2」があるから人には見せられない。

 余談だが、それでも新堂勇人という少年は、例えば家庭科は「4」、保健体育は「5」であって、「いいんだよ俺英語出来なくたって体育大行くから!」と妙な開き直りが出来る程度のモチベーションを保っている。他の喫煙少年とは一線を画している。

 ハヤトがキールにキスをするとキールが長文問題を解く。ハヤトが英語をブロッコリーと同じ以上に苦手としているのをキールは知っていて、またよりによって夏休みの課題として出された長文問題集に全くと言って良いほど手をつけないままに八月二十日を超えて今在ることを知っていて。

 キール自身、ハヤトが好きで好きで大好きでしょうがなくて。

 だから、ハヤトがキールにキスをすると、キールは長文問題を解いていく。と言っても、キールの字で直接書いてはどんなに鈍い教師だって「あの新堂がこんな字の上手いはずがない!」とバレてしまうので、キールがノートに書いたのを、左に座るハヤトが書き写していく。

 リィンバウムでは、ハヤトの言語、即ち日本語が罷り通っていた。ということはと、ひょっとしてと、冗談でキールに「ハロー?」と話し掛けてみたら、キールはすらすらと英語で返答し、途中からはハヤトの許容範囲を完全に超える能力を発揮し始めたので。

 キールの左頬に、ハヤトはキスをしたのだ。

「なあ、お前のその英語力でさ、俺を助けてくれよ、宿題たまっちゃってるんだよ」

 キールの心は七回裏のような大盛り上がりを見せた。ライトスタンドレフトスタンド一塁側三塁側バックネット裏、一斉に色とりどりのジェット風船が甲高い笛の音とともに舞い上がった。それは、ハヤトと一緒に見た昨日のナイターの光景だった。試合には負けてしまったけれど、そしてハヤトは中継が終わった後ぷりぷりと「コンビニ行くぞ」と連れて行かれたけれど、ハヤトと二人で見たテレビの中の、夢のような景色だった。あれは一種の儀式なのかい、そう聞いたら、「そうだね、まあ、儀式っつうか、ラッキーセブンの始まりーって、甲子園に神様降りて来ーいってゆう、だからまあ、儀式か」、確かにキールの中にはその時神が下りてきた。

 曲がりなりにも神様なものだから、どんな障壁ですら――そう彼の強い理性でもって「絶対いけない」と決めていたことでさえ――超越してしまう。

 何て優しくない子だろう。何て性格の悪い子だろう。

 これは一種の虐めと言える。一種も何も、完璧な虐めだ。

 人の心を、人の思いを、君はそんなにも簡単に傷つけた。

 僕が絶対に、絶対、絶対……、断れないということを知りながら。卑怯者。

 ハヤトがキールにキスをすると、キールは英語の長文問題を解くのだ。

 キールは、ただ手を動かす機械のようだった。

 

 

 

 

 全部で二十五題あって、その二十五題目だから、要するに最後の一問、その、七問あるうちの七問目をハヤトが乱雑に塞ぐ。

「おわっ……たあ!」

 それはまるで今夏休みの始まったような笑顔だ。キールは目がしみるように感じて、しばらく目を閉じて、潤ませて目を開いた、ハヤトが改まって、正座などして座っていた。深々と頭を下げる。

「っした!」

 バスケットボールの試合が終わったときと同じ、凛と張った声。

「……いや、役に立てたならそれでいいよ」

「っした!」

「……うん……、ハヤト、顔を上げて」

 ぱか、と顔を上げる少年の顔はすがすがしい。眩しいくらいの七月下旬の笑顔がそこに。

「キールがいてよかったよ」

 ハヤトにそう言われて、キールは何も考えないで、ただ唇が紡いだ言葉を聞いた。

「僕が、英語が出来るからかい?」

 言って、急に心臓がどきどき言い始めた。顔が張り詰める。

 ハヤトはいいやと首を横に降った。もし縦に振られていたなら、その瞬間キールの運命は決まるところだった。キスをされるたびにハヤトの言うことを聞く犬、……冗談と他の誰が思っても、キールは泣きながらその冗談を否定する。

「一人でやるって考えたら、泣きそうになるよ。お前が側でいてくれて……っていうか、実際お前が全部やってくれたわけだけど、嫌なことでもさ、いっしょにやってくれる奴がいると助かるよ。安心する」

 キールは息を止めてそれを聞き、溜め息混じりに「それは、どういたしまして」、と答える。

「野球もさ」

 ハヤトは苦笑いを浮かべる。

「負け試合でも、お前と一緒なら最後まで見る気がするもんなあ」

 そう、言ってもらえて、キールにはある種の感情が、胃壁から滲み出てくる。

 これは、嬉しいっていう気持ちなんだろうか。――キールは機械ではない、だから――これを、嬉しいって思って、いいんだろうか。

 今まで味わったことのあるどんな嬉しさとも、今味わっているものは、違うのだ。まだ、ハヤトにキスをされた頬は、優しい熱を帯び、濡れているように思える。

 整理しようがない事実を、几帳面な正確ゆえ、必死に整理し様と試みて、しかしそれは問題を解いている間、幾度と無く頓挫し、結局頭を真っ白にするという結論に至ったのだ。……ハヤトは僕がハヤトのことを好きだということが判っているのだ、好きということがどういうことかも判っているのだ、焼肉が好きブロッコリーが嫌い、そういうのとは違うということも。好きなものは食べたい、いや、僕は確かにハヤトを食べたいけれ、ど、も! そうではなくて! 普通じゃないことが全く平気で起こるような世の中になっちゃったなあと昨日お父様が言っていたけれどもそれを踏まえないでとにかくごくフツーの場合においてキスって言うのは恋人同士がするものであってはやとはぼくがどうせいあいしゃであるってことを、 大体そのあたりで「relation = <<名>>……との関係(to)」などと思考は途切れ、キールの頭はパンクを回避した。

 ハヤトは、キスをして。そして、頼んだ。キスをしたことを、一度だって口に上らせてはいない。だから、ハヤトがキスをしてきたことなど、キールの幻想、幻覚なのかもしれない。

 ああそうだ、きっとそうだ。もし本当にハヤトが僕にキスを? そしたら僕は今ごろ、あっちの世界まで飛んでいるだろうさ。

「じゃあ、そうだなあ、無事終わったし、お礼するよキール。何が良い、本、また買ってやろうか。小遣い出たから高いのも買ってあげられる」

 キールは、柔らかな笑顔を浮かべていた。

 ここで、……もし、「キスが欲しい」と言ったら、ハヤトが本当にキスをしてくれたのかどうかが判る。判りたくないから、僕は言わないのだな。キールが自分のことぎり、何もかもが判らなくなっていた。

「いいよ。お礼なんて」

「でも」

「いいって。……お小遣いなら、僕も今月から貰うようになったんだし。ね、ハヤト、コーヒーでも飲みに行かないかい?」

 また、自転車の後ろに載せてもらおう。そして、ハヤトの風を受けよう。それ以上の勇気があったなら、とっくにこの六階のベランダからダイブしているさ。

 


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