愛する相手の裸を見て勃起する男、自分を含めて、「異常ではない」と想像する。ならばその逆が異常かもしれない。だが自分の恋人を異常と思いたくないのは当然であって、早速ハヤトは迷い込む。
そう何度も、逆レイプのような真似はしたくない。しかし、キールに、バノッサがカノンに向けたようなヤケクソの如き度胸があるとも思えない。となれば、やはり手段も限られてくる。一番最初の夜から今に至るまで、結局一度もそういうことをしないまま過ごした。深夜のトイレで自慰をする、かつてキールの味わっていた苦しみを、今度はハヤトが味わう。眉間に皺を寄せながら、それでも眠れる恋人の顔を踏ん付けてベッドに戻ろうかという気にもなる。……そう、一緒に眠らなくなった。慣れていたはずのこと、なぜか、ハヤトの眠りは浅くなった。
「……ただいま」
ハヤトがドアを開ける。キールが、外出する格好で、途方に暮れたように部屋の前に立っていた。
これまで当たり前だったこと、ルール、それが次々破られて行く、壊れて行く。メールの往復する回数が明らかに減った。「これから帰る」のメールが無くなれば、当然、キールも迎えに行きようがない。そろそろかと思って出て行けば、何十分も待たされ、まだ大丈夫だろうと家に居れば、玄関で不機嫌なドアの音がする。空気の抜けたタイヤみたいに、習慣が弛緩し、張りを失い、互いが互いであることの意味すら、失われて行く気がする。
「……おかえり……」
ハヤトは鞄をキールに渡してから、うがいを、手洗いを、洗顔を、済ませる。目を瞑って一番に考えるのは、相変わらずキールのことばかりで、そう、自分は何でこうささくれ立っている? キールがセックスに答えてくれないからか、キールが俺に欲情しないからか。そうではない。自分の中に在る老廃物がそう思わせるだけだ。乳酸のようなそれを適度に排出していれば、何も問題は無い。
そして思う。キールには俺がいなければダメなのだ。あいつに帰る所は無い、何処にも無い。カノンが、バノッサが、互いが「いない」と思った時点で簡単に絶望してしまえるのと同様に、キールもまた、ハヤトが居なければ安易な答えを択ぶだろう。それが判っている。
ともすればそれは負担だ。
しかし、曖昧な他者の思考よりも、確かな自分を省みて、俺がキールいなきゃダメなんじゃん、気付く。触れてもらえないだけでこんなに寂しいのだ、キスまでの時間がこんなにもどかしいのだ。どうしてその存在を。
まず第一に側に居てくれることが大切なのは言うまでも無い。性行為は二の次だ。
だが、しかし、……だけどなあ。
「……母さんは?」
「出掛けられたよ、……新宿へ」
「何時に帰るの」
「……遅くなるからと言って、これを」
二千円札を一枚。つまりは、二人きりを表す。現在時刻四時二十分、夕飯済むまで戻らないならば、八時過ぎ、即ち、三時間半余。
「……何食べたい?」
此方に来て暫くは、此方の食べ物の何もかもが(美味いかどうかは別問題にして)珍しく、控え目に「はんばーがー、って、どういう食べ物なの?」とか「ぶたどんのつゆだくって、美味しい?」とか聞いて来ていたけれど、最近では、
「君に任せるよ」
この一言で済ます。
隣町は多摩随一の都市であって、そこまで出ればいくらでもあるが、彼らの住まう町はアップダウンの烈しい長閑な街であって、確かに駅前には居酒屋レストランの数軒およびファミリーレストランが存在する、自然志向の弁当屋だって側に在る、が、それでも選択肢には乏しい。
「……まあいいか、今すぐ決めなきゃいけないもんでもない……」
ハヤトは制服のネクタイを外し、ソファに座った。
しかし、その話題が終わった途端、空気が澱む。
この空気が嫌だった。ちょっと前まで、互いは、互いが側にいるというそれだけで、嬉しくなった。心の表面が弾けて、無条件にだらしない笑顔になった。きっかけなんて、何も要らなかった。
しかし、今はそうではない。隣りに来て欲しいな、そう思って、それを口に出すことが、ちっとも自然ではなくなった。「キール」、何かにつけて、理由が要る、「お茶が飲みたい。入れてよ」、そんな不必要だった言葉が、今はこんなに。
湯気の立つマグカップを二つ、並べて置いて、やっと、隣りに来てくれた。
「……着替えないの?」
まだ制服のブレザーだって脱いでいないハヤトをちらと見て、キールは尋ねた。
「お前こそ、出かけないんだから上着脱いだら?」
「……うん」
言われて、キールは素直に一番上を脱いだ。
これくらい素直に、してくれれば、問題はこうややこしくもならなかったのに。
「ねえ、ハヤト、……晩ご飯、さ」
キールはマグカップを掴んで、飲むでもなく、置くでもなく、ずっと膝の上に乗せたままで、言葉をぶつりと不格好に切った。それで暫く黙り込んだ。ハヤトはいつものことだと、黙って待っていた。
「……何時くらいがいい?」
ちらりと時計を見る。四時半、日が短くなったと思う。
「七時くらいでいいんじゃないか? いつもと同じで……」
「じゃあ、あと二時間半だね」
「そうなるな」
キールはマグカップを置いた。後からハヤトが想像するにそれは、やけどをしないためだった。
ハヤトがカップをテーブルに置いて、あくびをしながら、背中をソファに委ねた。そのタイミングだった。
「お」
ハヤトの口から余韻のような湯気と共に零れたのはそんな短い「音」だけであって世界は塞がれた。非力でも勢いをつければ百六十五センチ五十四キロの身体を横転させるくらいは出来ることをキールは証明する。勢いの生れた場所が例えば「性欲」と呼ばれ疎まれるものでありながら恋人が一番欲するものだと知っている。緩やかな動きならば震えていることを感づかれてしまうから彼は焦る。それでも手の動きがスムーズだったのは母が出かけてから何度も繰り返したシミュレートの賜物だ。
「キ、ィ、ル?」
ある程度の時間、一緒にいたなら、大体のことは判るつもりだ。その思考回路もある程度は把握しているつもり。キール=セルボルト、新堂キール、「こういう人間」と。気弱で慎重で引っ込み思案の、素直に「好き」と言わない、俺の身体に触れない、そういう、男としてはかなり問題がある人間、と。しかし、それがキールと判っていたから、それはそれでそれ以上の問題を、特には感じていなかった。性欲というただ一点でのみ、物足りなさを、寂しさを、覚えていただけのこと。
「二時間半もあれば、十分だろ」
かすれた声で、キールが言う。
「ね?」
何で笑ってるんだ? ハヤトは凍りつきそうな気持ちになる。
少しでもキールの手が震えていると感じられた。
どんなにか救われたろう。
「大好きだよ、ハヤト。……大好き」
キールという袋の一番底でいつまでも使われず錆び付いていたのがこのヤケクソな勇気だったなら、当然それに触れた手は汚れよう。
「キール」
しかし慌てて手を振ったりしない。その勇気を賛美しなければ、自分が性欲を抱えていることが問題視される。汚れているのは自分も一緒ならば、同じステージで、「俺だけは」(僕だけは)「お前のことを」(君のことを)「美しいと称えよう」。
そんなハヤトの気持ちに届かないまま、キールは後悔していた。自分の目の前で起こる現象に。