アウトライン

 堪えようのない寂しさが時に襲い掛かった。

 つながりが解けた後は、産み落とされた赤ん坊のような気分だ。臍の緒も切られ、寒くて寒くて仕方がない、誰かに抱きとめて欲しくて、泣きじゃくるばかりの。自分たちは確かに今、互いの身体を抱き締めあっているはずなのに、そして相手の身体を温かく感じているはずなのに、どうしてだろう、心は、身体は、こんなに贅沢だ。

 甘くなった、優しくなった、バノッサは自分を思う。それを素直に出す術はもちろん持っていないが、あの頃と比べたら、ずっとカノンを思うようになった。結局は虐げるようなやり方しか択べなくても、そこに一つ、加わったことは疑えない。

 傍目にはいつもと少しも変わらぬ行為の後でも、奇妙なほどカノンの顔には、苦しみも陰はない。ただ解けた寂しさだけで、バノッサの身体にしっかりとくっ付いている。

「ありがとございます」

 短く、呟くように。あるいは、零れるように。それは息と共にバノッサの肌を伝った。聞き返さないで居ると、カノンはもう一回言った。そして、「側に居てくれて……、ぼくの、側に居てくれて」。

 今、こうして一緒に居られない方が自然の二人だ。『運命』などというものを信じたくはないが、それが存在することを認めるとすれば、『運命』こそが、二人を切り裂こうとした。事実、バノッサはカノンを、カノンはバノッサを、既に一度、失ったのだ。狂わんばかりの、あの痛み。世界が光を失い、自分の存在もまた価値を失した。互いが、互いを、実体と思っていた。自分はその影の中でのみ呼吸が出来るのだと思っていた。それが消えたなら、自分も同じように。

 ハヤトとキール、トウヤとソル。二組の誓約者と召喚士が二人をこの世界に導き、再会させた。もちろん、彼らに感謝しているし、今の自分たちは畏れ多いほど幸せだと思っている。ただ、その一方で、どうしても消えないのは、カノンのこと、バノッサのこと、死んでしまった相手のこと、自分のこと。

 キールとソルとは状況が異なるのだ。ソルを失ったキールにはハヤトという恋人が居、ソルにはトウヤが居る。弟が、兄が、幸せになれる世界があるのだ、それが判るだけで十分である。一方で、カノンとバノッサは、互いが互いを失った。今こう在るのが、正しい形だと、誰にも証明は出来ない。残酷な言い方をすればしてしまえる、「まやかし」だと。

「大好きですよ、大好きです。大好きです」

 自信もない。相手の「自分」はどうだった?どんなだった?今の自分は、相手の「自分」と同じように、相手のことを愛せているのだろうか?そして。自分の中のどこかに疑う気持ちはないか?相手が自分と「自分」を比べていないか?自分に不満を抱いてはいないか?

 「どれほど似ていても……」、そんな風に思う、自分はいないか?

 裸になって抱き合っていてもなお、薄い膜に包まれている自分を思う。その一ミリ以下、体温さえ伝わるような非浸透膜、けれど、けれど。

 肩を冷やさぬように。沈黙で互いを気にし合う、密やかな音が証。

 

 

 

 

 彼は不意にバノッサの元を訪れた。土曜日で、ハヤトは練習試合を隣りの高校とするので、今日は夕方まで帰ってこない。「負けてくるよ」、見送ってからから三十分間迷ってから、結局、家を出た。既に何度か通った道、しかし、一人で来るのはこれが初めてだ。

 カノンは丁度、買い物に出かけていて居なかった。居留守を使っていたバノッサも、台所の窓越し、いつまで経っても帰る気配がないし、どうせもうすぐカノンが帰ってきてしまうのだ、誰だか知らないがと扉を開けた。とりあえず、邪悪な顔をして。

「……アア?」

 目が合って、それが礼儀と言わんばかりに顔を顰める。

 キールはキールで、当然カノンが出てくれるものと思っていたから、言葉を失う。

しかしそういう表情をする相手と判っているから、平然と見つめ返す。それが二十秒ほど続いただろうか、後ろ、カンカンと階段を上がってくる靴音がして、膨らんだ買い物袋を抱えたカノンが首を傾げる。

「お兄さんじゃないですか。……何してるんですか?どうぞ、上がってください」

 バノッサとキールは平和そのもののカノンの顔を見て、無言のまま、もう一度目線を合わせる。今お茶入れますからね、こんな野郎に茶なんか出すんじゃねェ、バノッサさんのぶんも今入れますからね、テメェは人の話を聞いてンのか、そんな遣り取りを、狭苦しい部屋ゆえすぐ目の前でされる。本当ならカノンのものであるはずの湯飲みをキールに使わせて、自分は飯碗に注いで、卓袱台で、三人、茶を啜る。色いろな意味で義兄弟の彼らである。

 黙ったままのキールの代わりに、カノンが喋り出した。

「ついこないだ、お兄さんとこのお兄さん、来てくださったんですよ」

 妙な言い回しだったが、キールはすぐに反応する。

「ハヤトが?」

「ええ。……ご存知なかったですか?」

「全然。……いつのこと?」

「先週です。火曜日だったかな。お土産まで持って来てくださって」

 先週の火曜日のことを、キールは思い出す。そうだ、家で昼食を食べた後、図書館に出かけたのだ。ハヤトが帰ってくるのは、火曜日だから夕方だと思って。

「職員会議で早く終わったって、おしゃってましたけど」

「……ああ……、そうなんだ」

 何も、聞いていなかった。少しくショックを受けるのは当然。

 そもそもこのところ、――ハヤトが案じていたのと同様――正常なコミュニケーションが取れているとはとても言いがたい。一緒に入浴しなくなった、抱き締めあっていない、キスをしていない、手を繋いでも。理由が何かは、判っている。原因が何かも、判っている。全てあの夜だ。

 ハヤトは自責している。時々、ぽつり、ぽつり、言うのだ。「悪かったな」とか、「あんまり気にしないでくれよ」とか。その度に、キールが自責する、弱くてごめんよ、臆病でごめんよ。大好きな大好きなハヤトが、自分の身体を痛烈に求めてくれた。安心させるように微笑んで、ああいう形をとってくれた。なのに、動転した自分は、射精まで至ったのにハヤトを抱き締められなかった。そのせいで、どんなにかハヤトは傷ついただろう。取り返しのつかないことをしてしまった。

 ない勇気を振り絞って、彼がこの部屋を訪れたのは、もちろんそのことがあったからである。一方で、彼より少し、しかし間違いなく早く、問題解決の為にハヤトがこの部屋を訪れていた。それは一つ、何かを満たす。

「……何か……、話していたかい?」

「バノッサさんとぼくが最初にえっちしたときのことを聞かれました」

「は?」

「どんな風にしたのかって。だから、教えてあげたんです、襲われちゃったんですよーって」

 キールはぽかんと口を開け、バノッサはしばらくの間唇を戦慄かせた。カノンは曇りなく、いつものようににこにこと微笑んでいる。

「……」

 声にならない。そういうときには、手が出た。

「いたたたたたた、っ、いた、いたいですよぉ」

 ツンと尖った耳を引っ張る。

「あ、あ、アホかテメェは!何話してッ……アホか!アホか!アホかテメェは!!」

 唾を飛ばしながら罵倒する。しかし、白い顔の頬はみっともなく染まっていて、キールはただおろおろするばかりだ。

 ようやく離された耳を擦りながら、カノンは涙目で、「だって、聞かれたから答えなきゃって思ったんですもん……」

「アホか!何処の世界に……」

 テメェが強姦された時のこと離す奴がいるのか。

 言いかけて、ああ、ここに居る、側に居る、自分の影の中に居る。

 ガックリと項垂れて、深い深い溜め息を吐く、風呂付き六畳間木造二階。

「とにかく、そしたらしばらく考え込んじゃって、どうしたのかなって思ったら、『ありがと、帰る』って。……何かあったんですか?」

 キールはなかば、呆然とした。

 存在する構造が屹立する。それは推測でしかない、しかし、一応はまだ「恋人」で居させてもらっている(現状が続けばどうなるかの保証は一切ない)つもりのキールであるから、かなり正確に読み取れているはずだった。

 今日、キールが来たのと同様の理由で先週の火曜日、つまりハヤトは、「どうしたらいいか」、聞くつもりだったのだろう。この、既に成熟した一組の恋人が、如何にして「成熟」したかを、……言うまでもなく、自分がだらしないから、ハヤトに恥をかかせた。「どうしたらキールとセックスが出来るか」、そのヒントを得ようと思って。

 カノンの口からは、斯様な答えが齎された。

 「もう強姦しちゃった……」、そこまではハヤトも言わなかっただろう。無理強いをする形でぎこちなくなったことを自覚している彼が、どうしてまた、キールを襲えよう?しかし、キールはバノッサではない、仮令性欲が存在しても、ハヤトを襲うことなど、考え付くはずもない。

 性欲。性欲があるからいけないのか?ハヤトはそう案じたかもしれない。「俺が一人で、キールのちんちん欲しくてガツガツしてるからいけないのか」、なおのこと、ハヤトは苦しみを味わう。キールはキールで、ハヤトが欲しい。欲しいけれど、ほんの一ミリでもハヤトの眉間に皺が寄るのを見たくない。

 だけれど。

「……そうか……」

 キールは立ち上がる。

「ありがとう。帰るよ」

 空箱のようなものだ。蓋を開けたら、中には何もない。そこに何を入れるかが重要というだけ。今後自分たちはそこに色いろを詰め込んで行く。その重さが箱の重さになる。ものがたくさん入っていれば、叩かれても潰れない。

 空箱を手にして途方に暮れているハヤトの中に、早く。

 今この部屋を出ても、ハヤトは当分帰ってこないと判っていながら、急かされるように、キールは飛び出した。

「テメェは……なァ」

 まだショックの抜けきらないバノッサは、がっくりと項垂れて言う。

「はい?」

 耳をまだ擦りながら、カノンが問う。バノッサは、罪の意識のまるでないその顔に、腹の底から声を突き出す気力が削がれ、ごろんと横になった。それにカノンが寄り添う、「暑苦しい」、昨夜はあれだけぴったりくっ付いていたことを忘れたかのように言う。カノンは猫なら、喉を鳴らした。


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