ナルセスツ

 「生活」を、生活と呼ぶために、どれくらいの日々をが必要だろうか。

 七時四十分、つまりギリギリの時間にいつも起床して、絶対に胃腸に良くないだろうとキールは内心思うのだが、ハヤトは駆け足で朝食を済ませるなり顔を洗い歯を磨きトイレに入り、どたどたとマンションの廊下を走ってエレベーターに自転車を転がして乗せる。八時丁度。下で一つ深呼吸、あと三十分ある、これならいつもの通り、間に合いそうだ。

「さっみ……」

 通りに出る。駅に向かう人、降りてくる人、みんな首を竦めて白い息を流し、辛そうな顔をして歩いている。ドラッグストアで百円だった手袋を、一旦外して、高いところのキールの頭に手を伸ばす。

「じゃあ、行って来る」

 気をつけてねの言葉にうんと頷いて、身軽に、二人にとっては魔法の乗り物にもなる自転車に飛び乗って、立ったまま漕ぎ始める。風のスピードで、あっという間に見えなくなる。それからキールはまた家に戻り、母と共にハヤトの朝食の後片付けをし、今度は父の朝食の支度をする。

 父を見送ったら、午前中は母の手伝いをし、午後は読書をしたり、散歩に出掛けたり。母の買い物の荷物持ちを、率先して手伝うこともある。そうこうしているうちに、呆気なく陽は傾いて、ハヤトが帰ってくる。試合がある日なら、隣りというにはちょっと離れすぎた駅まで、根気良く歩いて迎えに行くし、普段の日もツーブロックくらい先までは平気で歩いていく。そして、帰ってきたハヤトの、この季節なら冷たい耳や鼻を気にして、「おかえり」を一番に言う。

 とうにこれは新堂キールの「生活」だった。

 暗い森での「生活」、ちょっと騒がしい仲間たちとの「生活」、そして当然、この町田市の片隅の日々も、「生活」。今迄で恐らく、自分が望み、そしてそれが叶った、一番理想の「生活」だろうと、その真っ只中に在ってキールは思う。何より重要で、そして恐らくそれさえ有れば十分の、ハヤトが側にいてくれる。夕食にがつがつご飯をかきこみ、案の定噎せる、涙目の横顔、隣りにいる自分。

 ハヤトがキールにとっては一番重要な要素。いつでも二人称で呼べるところに居てくれるなら、即ち幸せな日々になる。

 「此方」へ来てから、半年が経過した。父も母も、「キール」という、長男よりも年上の次男がずっと前から居たような気になっている。あちらの世界では無かった風習にも殆ど慣れた。愛しき者と共にある幸福は穏やかでときに烈しく熱い。

 キールのは携帯電話を手に入れた。「これから一人で出掛けたりすることも多くなるでしょ。便利なものは使ったほうがいいから」と、母がくれた。分厚い取扱説明書と首っ引きになっている彼を見て、ハヤトが慌てた面持ちで「いやそんなの読まないでも使えるから」と止める。一日に何度も何度も、携帯がぶぶうと震えて、その度、二つきりのフォルダの片方にメールが届く。他愛も無い事にも、嬉しくて、三倍くらいの量の返事を書いてしまう。何もすることが無いとき、机の上に携帯を置いて、じっと待っている。そんな少女じみたことをしている。

 時折、もう一つの方に、手紙が届くこともある。そのために作ったフォルダで、当初よりあまり多く手紙が入るとも思わなかったのだが、それでも外すわけにはいかなかった。

なにしてる?

 無愛想なメールが入ってきた。

 勇人からのメールを待ってる。君は?

 藤矢からのメールを待ってる。

 そうか。お互い暇だね。

 暇ならどっかで会わないか。

 構わないよ。

 じゃあおれそっち行く。駅着いたらまたメールする。

 当然ながら相手は血を「分けていない」大切な兄弟、元「ソル=セルボルト」、現「深崎ソル」である。深崎家から新堂家までは私鉄とJRを乗り継いで、接続がうまく行っても三十分近くかかる。時計を見ると、一時半だ。木曜日だからハヤトの帰りは六時を過ぎる。いい気散じだと、キールは支度をする。

「おでかけ?」

「はい、ええと……、ソルが、弟が、近くまで来るそうなので」

 母、新堂人恵は、二人の息子たちにとっては奇跡的な母親と言えるだろう、そして、亭主関白を夢見る父・勇雄も結果的には。夢のようは話も息子の言葉ならと信じ、今キールを息子と扱うのだ。

「じゃあ、二人でお茶でも飲んでいらっしゃい」

 そう言って、千円札を渡してくれる母に、土下座して感謝したいような気になって、先月の小遣いがまだ残っているから大丈夫と言っても、キールのコートのポケットに突っ込む。

 マンションのすぐ目の前の駅に、ソルを乗せた電車が入ってきたのは、キールが改札にぼうっと突っ立ってから二十分後のことだった。要するに大幅に遅刻である。

「……未だによくわからない」

「にしても。判らないなら駅員さんに聞けばいいのに」

「それって……、なあ。まるで田舎者みたいじゃないか」

 妙なプライドを張っても、結局ソルとキールは田舎者である。「田舎者」で済めばいいほうだ。それでもちゃんと電車を使って目的地まで辿り着けるようになっているのは、十分に偉いと言えるだろう。一人で最寄駅で切符を買って、方向を間違えないように電車に乗って、乗り換えて、また切符を買って……。

「ちゃんと間に合うように長津田出たんだ。そしたら、何かここ停まらないで、違うところ連れてかれてさ。戻ろうとしたら、また停まらないんだ」

「ああ……、快速に乗っちゃったんだね」

 「此方」への順応力という点では、ソルよりもキールの方が高いようだ。二人でドーナツ屋に入り、「ソル、何にする?」「これ、とこれ、と、あとこれ、と」「お金は」「わからん」、適当に頼んだ甘いドーナツとコーヒーをトレイに載せて、二人で向かい合う。

 嗜好も仕草も声も匂いも、全部互いの知る「互い」と同じであることが、どうして幸せではなかろうか。

「お前のところの、あいつ……、ハヤトと」

 ソルは、その名を呼ぶときの自分が、きっとトウヤを呼ぶ時のキールと似たような心のざわめきを感じていることを意識する。

「お前は、……してる?」

 キールは聞き返す。ソルは何気ない風を装って、目をドーナツのショーケースの方へ向けて、

「だから……、してるのかって」

 意味を理解して、キールは即座に返答出来なかった。

「恋人同士なんだろ?あいつと」

「……それは、……そうだね、光栄なことに。君が深崎君と恋人同士であるのと同じくらい、幸せなことだと思っている」

 微妙な言い回しに、ソルは少し笑うしかなかった。

「まあ……、そうだ。それはそうだ。俺も、あいつと、確かに、してるよ。お前としてたようなことをね」

 キールはちらりと視線を逸らして、

「……こういう場所に相応しくない話題だね」

 と低い声で言った。

「外は寒い」

 ぶっきらぼうにそう言い放ったソルは、キールの右手をちらりと見た。

「だからここで話す」

「……話題を変えないか」

 キールの溜め息混じりの言葉に、ソルはぎこちなく微笑んで、

「聞きたいんだ」

 と。

「……どうして?」

「どうしても。……って言うか……、そうだな、お前に妙な気を使いたくないからかもしれない」

 キールは首を傾げた。ソルはその顔をじっと見詰めたまま、しばらく言葉を飲み込んでいた。

「つまりさ……」

 もう、甘いドーナツは全部食べきってしまった。あとには甘苦いコーヒーだけ。有線の音楽と、周囲の話し声とに溶け込むボリュームで、ソルは言った。

「……俺はお前と、……『あっち』で、恋人の真似事みたいなことをしてたから。たぶん、お前も『あっち』ではそうだったろ?だから……、……だからってわけでもないんだけどな、とにかく……、確かめておきたかったんだ、いい機会だし……」

 あまり歯切れのよくない言葉を聞きながら、キールは自分の顔が無性に優しくなっていくのを感じている。ハヤトよりも耳に慣れたソルの声を聴きながら、自分のよく知った命を目の前にして、嬉しい気持ちが溢れ出す。

「君が幸せになれるなら僕も幸せになれる」

 キールは言った。

「僕は、君にもう会えないと思っていたから一人で勝手に幸せになってしまった。たぶん君もそうだろ?お互い、それでいい。僕たちは兄弟だ。互いに恋人が居る、居てくれる。その事実だけで十分幸せだよ。僕は君が深崎君とどういったことをしていても気にしない、寧ろ君が幸せになれるなら嬉しいと思うし、深崎君に感謝したくもなるよ」

 店内の目を、多少は気にしつつ、キールは手を伸ばしてソルの頭を撫でた。茶色い髪。そう言えば、ハヤトと同じだと思った。そして自分の髪は深崎藤矢と同じと。代替物として見る可能性に初めて突き当たって、しかし苦笑して、そんなことはないよと。そして更に、それでもいいよ、と。幸せになる方法を択べるほど、僕らは傲慢であってはならないはずだから。

 ソルが、うん、と頷いた。それで十分だった。

 改札まで送った。見えなくなる手前で、くるりと振り向いて、小さく手を振った。それから、急に歩調を速めて、階段を一段飛ばしで上がって行った。それを見送ってから駅を出ると、まだずっと遠いところにある姿に、視線は吸い込まれた。きょろきょろしながら自転車に乗っている。今日はまだ来てないのかと、訝っているハヤトだ。はっとして携帯をポケットから出すと、メールが入っている。慌てて走り出した。


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