町田誓約者

 困惑に足る事態が目の前に浮上した。

 互いの中にある困惑、それに伴う数々のマイナス感情が、表出して力を持っては困るから、ハヤトはキールが入っている風呂に裸で入って、「きゃあ」とトンでもない声を上げたキールの背中を笑って洗って、とりあえず二人の関係は一件落着する。事実だけを見ればいい、付帯して色いろな面倒なものを見る必要はない。そんな時間がもったいないし、そうしない方が幸せなはずの自分たちだ。

 これから俺たちは何度もケンカするだろう、細かな衝突を避けようとしてハンドルに神経を払うのは疲れてしまう。だったら、アバウトに、でも、決定的な大怪我さえしなければいいやくらいの気持ちでいようよ。ハヤトは背の高いキールに背伸びをしてキスをする。冷静に「服を着ないと風邪をひいてしまう」と呟いて、目を逸らす。かっこいいなあとハヤトは苦笑いして、もう一度唇を重ねて、それから仕方なく、パンツを穿いた。

「……じゃあ、聞いてもいいかな」

 部屋のベッドに座って、キールに問い掛ける。キールは床の布団の上で、ぺたりと座っている。キールは観念したように、頷いた。そのしおらしい様子は、すこし可笑しくて、可愛くて。

「お前、そんな顔してるなよ。可愛いぞ。俺が抱きたくなっちゃうだろ」

「……抱きたいのかい?僕を?……僕は別に……」

 かまわない、言いかけるのに慌ててかぶせて、

「まず、あのトウヤ。深崎藤矢の恋人の茶髪の、あの子。お前、あの子と知り合いか」

 と問うた。

 キールはこっくりと頷く。

「じゃあ、続けて質問、というか確認な?あの子の苗字は『セルボルト』、ってことはつまり、お前の家族……、多分、兄弟、だ。……弟か?」

 キールの首肯は、少しく辛そうに見えたから、なるべく彼に言葉を使わせない方法を、ハヤトは探した。

「……あんまり似てなかったな、お前と。髪の色も違ったし。……オヤジは多分、あのひとだろ?オフクロさんが違うんだな?」

 頷いて、俯いたままになったキールを見て、ハヤトは今自分のすべきことは聞くことなのだろうかと思い始める。

「で。……トウヤが何であの子……お前の弟と一緒にいたか。トウヤも『リィンバウム』とか『サイジェント』って言葉をすんなり使ってたこととも併せて考えれば……、簡単だな、トウヤも俺と同じ、あっちに喚ばれたんだ」

 キールはもう頷かなかった。ハヤトはベッドから降りて、その顔を覗き込んだ。眉は八の字唇はヘの字、困惑しきった顔だった。

「……僕が喚んだんじゃない」

 キールは呟くように言う。声を出すのも辛そうでも、ハヤトは黙って聞くことにした。語ってくれると言うのならば、その言葉を全部とは言わないが出来るだけ多く理解するのが、自分のすべきことだと思ったからだ。

「僕が喚んだのは、君だけだ。……確信を持って言うわけじゃないけど……、でも、君だけ、だったはずだ。……あの……深崎君という子を『向こう』に呼んだのは、……きっと、ソルなんだろうと思う。けれど……」

 キールの顔色は青く白く、嘔吐しそうにも見えた。その唇に拳を当てたから、反射的に「おいだいじょぶか」とハヤトは短く問うたが、キールは少しだけ笑って見せた。無理に、安心させるように。

「……水持って来るよ。俺も喉かわいた」

 決してお前の為の負担じゃないよと含んで、ハヤトは必要以上に急いでグラスに水を注いで戻ってきた。父がニュースショウと睨めっこしている背中に、「おかえりなさい」と呼びかけて、「うん、ただいま」と返答されるのももどかしい。

 ハヤトの持ってきた水を、キールは「ありがとう」と、一息で半分干した。

「ありえない話をするよ」

 そう、妙な前置きをしてから、

「ソルは、確かに僕の弟だ。けれど……、さっき僕らが会ったソルは、……僕の弟じゃないのかも、しれない」

 訳が判らなくても、ハヤトは黙っていた。キールが二口目で、グラスを空にした。

「僕は、ソルを見たとき、誤解したんだ。きっとあの……あの子も、僕を見て、誤解したんだと思う。だから、……ごめんね、君には不愉快だったかもしれない、ああいう風に、つい、抱き合ってしまった」

「あー……、いや、不愉快ではなかったけど」

「……そう?なら、いいのだけど」

 キールは少し微笑んだ。自分とキールの隙間にある一人分がどうも半端に思えて、ハヤトは尻をずらしてくっついた。

「深崎君も、君と同じく、リィンバウムに喚ばれた。但し、それは、ソルによって。そして深崎君も恐らくは、君と同じように向こうの世界で『誓約者』となり、『魔王』を倒したんだ。……恐らく、彼も君と、そして僕と、まったく同じプロセスを踏んで今この街にいるんだ」

 じっと見詰めるキールの目が本気だったので、ハヤトはそれを信じたいと思った。もっとも、何を言われても結局それに縋りつくほかないほど、ハヤトは混乱していた。自分より賢いキールの考えたこと、言った事、ならば、信じるのが一番利口とも思っている。

 キールは少し、躊躇うように黙っていた。ハヤトは黙って待った。

「こうは、考えられないかな。……君と僕のいたリィンバウムと、深崎君とソルのいたリィンバウム。二つのリィンバウムがあった……。同じように、ガゼルやエドスや、リプレがいて、……ジンガや、スウォンや、……イムランたちも、……きっと、カノンも、バノッサもいた。鏡のように、まったく同じ世界が、この世界を軸にして、対称に存在していた……」

 それは、ちょっと、途方もない考え。と、キールも自覚してるんだろうなあ、顔が、どこか真面目じゃない、といって、不真面目に言っているわけでもない。無表情、真っ白な顔をしている。言っていて、どこか自分で信じていない。

 ハヤトはキールが押し潰されそうな自分の考えと格闘しているのだと思って、それが全部姿を現したなら、俺も一緒に支えてやろうと決める。

「そう……考えないと……、そうでも考えないと、説明がつかないんだ。だって……」

 キールは一度、目を閉じて、……閉じたまま、言った。

「僕の知ってるソルは、死んだんだから」

 開かれた目は、濡れていた。

「死ん……」

「うん。だからね、ハヤト。あの子が、僕の知っている『ソル』のはずがないんだ。鏡の中で、君が君ではなく、深崎君だったように、僕はあの子、『ソル』だったんだ。だから、恐らく」

 キールは俯いた。唇だけを微笑ませた。

「あっちの世界では、ソルではなく、僕が、何らかの理由でいないんだろうね」

 ハヤトは、暫し呆然として、それから、キールの乾いた唇を痛そうだと、一番最初に気が付いた。水を口に含んで、戯画的なキスをした。キールはそれに驚いた。けれど、良識的な拒否はしなかった。ハヤトから与えられた甘くとろりとした水を飲み込んで、抱き締めた。キールにはハヤトの心臓がどきどき言っているのが聞こえたし、同じようにハヤトもキールの心音を聞いた。不安のような恐怖のような黒い霧が胸の内に生まれてしまったのを自覚する。それでも、出来るだけくっついていればこの街で君と生きていけるよ、そんな気がするよ、歌みたいにハヤトは思った。

 俺たちは一緒にいられるだけで幸せになれるんだから、これくらいの恐怖心がなかったらかえっておかしい。強気な思い、本当は、不安があっても。

 

 

 

 

 『トウヤ』こと深崎藤矢は『ハヤト』こと新堂勇人と同じ公立中を卒業したのち、地域の公立高の中でも最も優秀とされる学校に入学した。ハヤトは「チャリで行ける」身の丈に合った公立高に入学している。この差は、要するに二人の成績の差がそのまま現れているものだ。ハヤトは完全なる体育会系、一方トウヤは文武両道の極みだ。考え方も不器用なところのあるハヤトに比べればだいぶ柔軟だ。現在高校二年生の『誓約者』二人の片方は剣道部、もう片方はバスケットボール部で、ともに天性のリーダーシップを発揮している。端から見たら、全く似ているところがなくて、とても気の合いそうには見えなかった。ハヤトの周囲にはトウヤと仲の良い者はいなかったし、トウヤの周囲にもトウヤ以外、ハヤトと込み入った話をしたことがある者はいなかった。それぞれが全く別のテリトリーに在って、それでも、彼らは互いのテリトリーに靴を脱いで上がって、そしてもてなしを受け合う。きっかけは中学二年で同じクラスになり、一度目の席替えで前後になったことだったはずだ。その程度の始まりで、今は同じ記憶を共有しあっている。

 『ソル』、ソル=セルボルトの世界において、キール=セルボルトの姿はない。幼い頃より唯一許しあえた相手であった兄は、既に過酷な召喚実験に伴って発した病で不帰の客となっていた。キールにとってのソルもまた、同様だった。二人は、例えばキールとハヤトが全く正反対の性格をしながら今分かり合えているように、違うところばかりだから分かり合えていた。互いの足りぬ部分を互いが補い合えて、それゆえ貴い関係を築くことが出来ていた。キールにとってソルがハヤトであるように、ソルにとってのキールはトウヤだった。ぽっかりと出来た自分の空白を、キールはハヤトに、ソルはトウヤに、とても上手に埋められた。鍵のようにあてはまったから、彼らは今、思い合う。

 一日空いて、町田駅側のコーヒーショップで、『誓約者』と『召喚士』の二組は顔を合わせた。微笑んでいるのはトウヤだけで、三人の表情は硬い。トウヤはコーヒーをブラックでのみ、キールはミルクだけを入れ、ソルは砂糖だけを入れ、ハヤトはどちらも入れた。

 切り出したのはトウヤだった。

「……昨日まで、ソルとじっくり話をしてね」

 誰より先にカップに口をつけた。

「僕なりに考えてみたよ、色いろと。それで、……どうしても、君と僕が、やっぱり『あっち』の世界を知っているということ、そして、……僕のいた方と君のいた方とでは、明らかに異なる点があるということ……、そして、今僕の側にソルがいて、君の側にキール君がいるということ、……照合すると、答えはそう多くない」

 俯き加減だったキールが顔を上げたことに、ハヤトは少しだけ驚いた。

「……『ソル』が、そして、君が、いた世界では、僕はいなかった。同じように、ハヤトと僕のいた世界では、僕はいなかった」

「……そう。僕たちのいた世界は、君たちのいた世界とは別の、だけど、怖いくらいよく似た世界だったんだ。恐らく、お互いに踏んだプロセスも驚くくらいに同じだろうね」

 ソルの目は、縋るようにトウヤを見た、キールを見た。

「……『ソル』」

 キールは彼を見る。

「僕は、君の知っている『キール=セルボルト』ではない。そして、君も僕の知っている『ソル=セルボルト』ではない。僕の世界で、……君の世界で僕が既にいなかったように、君も、もう、いなかったんだ」

 けれど、とキールは微笑んで見せた。

「それは、そう大きな問題ではないと、僕は思う」

 トウヤが頷く。

「僕も同意見だな。今、ここにいるキール君と、君の知っていた君のお兄さんと、少しも違うところがあるとは思えない。確かに僕と勇人君は違う。別人だ。だけど、同じ道を辿って、ここにいる。それが、ソルと僕とが、キール君と勇人君とが、出会うためのプロセスだった。そして、今こうやって君とキール君が再会するために必要なことだった、そう思えないかな」

 ソルの目は、真っ直ぐにキールの目に吸い込まれた。

「キール……」

「君が生きていてくれて、良かった。大切な人を見つけられたんだね、……本当に良かった」

「キール……、……」

 ハヤトはソルを見た。第一印象……、長津田駅ではじめて見た瞬間は、向こう気の強そうな、多分俺とはよく衝突するタイプだろうなと思った、ソルの顔が、今、とても華奢に見えた。そして、普段は頼りないキールの顔が、とても男らしく見えている。無色……「セルボルト」の名を背負って生まれてきた辛さを分かち合った二人の兄弟の間には、トウヤも自分もそう容易に入り込めないものがあるのだと、皮膚で感じた。

 そして、とても優しい気持ちになるのだ。

 こんな風に嘘を許された光景を見るのは初めてだと思った。それが、とても温かに思えた。かすかな苦さを含まずにはいられなくても、甘く、甘く、柔かく、優しい。ソルが、微笑むのを見て、ハヤトはとても満足する。

「……うん……、俺も……、キールが、生きててくれて、良かった」

 ハヤトは、にこにこと微笑むトウヤと目があって、自分の微笑みがより深くなるのを自覚する。よかったね、うん、本当に。

「ここに来るまで、実はすごく心配だったんだ」

 トウヤがソルの頭に手を置いた。

「……僕の推測が的外れなことだったらどうしようって思ったし、君たちが同意してくれなかったらとも。でも、僕に考えられたことはどうしても一つしかなくて。もし正解だったとしたら、少しだけ寂しいかもしれないけど、でも……ね、とても、上手くいった方だとも思う。何よりも一番に、僕はソルが幸せでいてくれることを望むし、ソルが幸せを望む人も、同じように幸せでいてくれたらと思うから、キール君にも幸せでいて欲しい。だから、今こうやって四人で会えたのは素敵なことだと思うんだ」

 ハヤトは俯いて、笑った。

「……いいなあ、トウヤはそうスラスラ出てきて」

 キールの腕を、握った。

 立ち上がって、ファミリーレストランに向かう道。さすがに四人並んでは歩けない。ハヤトとトウヤは、キールとソルに並んで歩かせた。二人の手と手の間のぎこちない距離に、自然と微笑みが浮かんでくる。

「……でも、すんなり行ってよかったな」

 トウヤがうんと頷く。

「僕たちは……、時たま自覚がなくなるけれど、一応彼らの世界では『誓約者』らしいからね。どんな肩書きがあったって、好きな人を幸せにして上げられなかったら意味がない。肩書きに負けないようにいたいよ」

 ほんとにそうだ、とハヤトは思う。彼自身、『誓約者』という単語を、今また自覚なく忘れていたのだけれど。

 俺にもしそれだけの力が在るのなら、出来るだけ多くの涙を、流させる前に止まらせたい。嬉しい涙は構わないけれど、恐怖や悲しみの、胸が捩れるような涙は、出来れば流さなくて済むように。手の届く範囲くらいは、……そして、出来たらもっと広く、たくさんの人の笑顔を護れたら。大それたことかもしれないけれど、今、二人の笑顔を護れた自分なら、そう思うことも許されているように思うのだ。

 

 

 

 

 ハヤトの最寄駅で、一旦四人ともホームに降りた。発車のベルが鳴り終わる直前まで、キールとソルはしっかりと握手をしていた。二人の笑顔は、事実が嘘であっても、本当のものだった。俺はこれからもキールの笑顔を護るぞと、ハヤトはしっかり決意をする。

「じゃあ、またメールするよ」

「うん、気をつけてな」

 ドアが閉まって、電車が走っていく。暗闇に引かれたテールランプの余韻が消えるまで、ハヤトはキールと並んで見ていた。

 白い息が流れる。

「ハヤト」

「ん?」

 キールが、しっかりとハヤトを抱き締めた。十時近いホームに、人影は疎ら、それでも、振り返って見る人がいた。普段は絶対こんなことをしないようなキールだから、ハヤトは仰天する。しかし、いつもは自分が抱き締めろと誘わなければ抱いてくれない。貴重な機会だと、ハヤトはすぐに目を閉じて、その胸に収まった。

「……ありがとう……」

 どういたしまして、と胸の中で言って、口に出したのは。

「俺は正義の味方だからな。困ってる人がいたら助けてやるのが俺の仕事だ」

 と、冗談めかして。

 キールはまだじっと、ハヤトを抱き締めて、

「本当に、君は僕のヒーローだよ。……大好きだ」

 と、温かな息をハヤトに流しながら、言った。

 それからバスターミナルを抜けて、エレベーターに乗って、部屋の扉の前まで、ずっと手を繋いだまま歩いて、両親に「遅くなってごめんね、ただいま」と言って自室に入るまでの間だけ、手を解いて、そして風呂に一緒に入る。

「ハヤト、キール。お母さんたちもう寝るから」

「うん、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

「明日資源ゴミの日だから、忘れないで頂戴」

 スリッパの音が遠ざかって、扉が閉まってから、二人一緒に服を脱いだ。寒々しい脱衣所がこんなに温かいんだ。キールは少し背中を屈めて、ハヤトの頬に、唇に、何度もキスをした。くすぐったくて、温かくって、ハヤトは笑った。

 もうしばらくしたら、あいつらも家に着くだろう。絶対おんなじことするんだろうなあ……。で、あいつらも絶対、俺たちが今こういうことしてるって、知ってるんだもの……。

 そう考えると恥ずかしいというよりも、誇らしい気持ちのほうが浮かんだ。

「ねえ、……キール」

「……うん」

「……すごい、今夜したい。……すごいしたい、キール、大好き」

 キールはもう一つキスをして、

「僕も、ハヤトのこと、大好きだよ」

 そして、一段上のキスをする。

 ろくに身体も洗わないで入った浴槽、湯温はすぐに上がった。


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