宅地の開発は進んでも、のどかな景色の全てが失われたわけではなく、それでも「ない」ように見えるのだとすればそれは、要するに見るものの感性が錆びつつあるってことなんだよな、生まれたときからずっと町田市育ちのハヤトは、ちっとも変わらぬこの街に愛着がある。彼の目には、マンションのすぐ目の前の横浜線の駅も変わらなければ、スーパーの中身も変わらない。今も買って買ってと泣いて困らせた玩具屋の前を通るときは胸が疼くし、買って貰った時の飛び上がるほどの喜びも忘れられない。マイ・ホーム・タウン。

 ドーナツ屋でキールとオヤツを食べた土曜日の午後に、また自転車で法令違反をしつつ、走り慣れた界隈を走る。川に行こうか、動物園の入口まで行って見ようか、車庫の上行く? それとも、いつだったっけなあ小さい頃、両親に連れて行ってもらったあのリスの一杯いる公園、あれって近所だったのかなそれともものすごく遠いところだったのかなあ。あそこもいつかお前と一緒に行きたいよなあ。

 この、微妙に都会ぶってる街を隣りにした、古本屋中古屋の多い、一応は東京都なんです殆ど神奈川ですけどと、ぽりぽり後ろ頭を掻いてるような街で、ハヤトは恋人を見つけた。

 ぎこちないキールは、ハヤトには困ってしまうくらい可愛くって。

 でも違うそうじゃないよなとも、判りながら。ゴメンよキール、俺がもっと可愛かったらよかったんだけどなあ。けど顔の造作は今更変わらないし、例えば眉毛をもっと無理に細くすることだって出来るだろうけれど、お前が言うんだ、

「君は、今のままで、僕には、十分すぎるくらいに」

 震えた唇で泳ぐ目で、俺に。

「可愛いと、思うよ」

 キールといるのが楽と、多分最初からそう思っていたと思い返すハヤトだ。

 キールはこの幸せな街で過ごす自分の足がちゃんと、例えば今なら、ハヤトが自分のために買ってきて自転車に装着してくれたトンボの上に載っているかどうか、気になる。

 下り坂でハヤトの起こす風と少し伸びた髪がキールの花を擽り、少し寒くなった指先、言えばハヤトが温めてくれるんだろう、お前指細っそいよなあなんて笑いながら、温かい手で包んでくれるんだろう、それが、そこまで、リアルに、判る自分が、本当に申し訳ないと断らなければならないくらい幸せなのだと気付く。

 川沿いを走って、四時を過ぎれば少しずつ空が青みを帯び始める。この街にはこの季節、リィンバウムのようにトンボがたくさん飛ぶのだ。破壊的護岸工事によってそれは川のようで決して川と認められぬ代物、それでも、ハヤトが「この川はさ」と言ったなら。そんな「川」に反ったところにごく小さな公園、子供たちが遊んでいる。すいすいと、ハヤトの細いようで内側で引き締まった機能的な筋肉の息づく足がサドルを押し込んで、……この程度の上り坂ならば汗すらかかないぜ。

 一時間、無造作に街を縦横した。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も通ったはずの道目をつぶったってちゃんと信号で立ち止まれるような道行ったこともない家の表札すら屋根の色すら覚えているような道でも、楽しいね、楽しいな、何でだろな、判っているくせにハヤトは笑って言う、楽しいんだよ、楽しんだよ、お前と一緒ならほんとに、ほんとに!

 困っちゃうくらいにさ……、だってお前は俺の『恋人』だからさ。

 もし本当にこの夢が叶ったならば俺はすべてを擲って構わない――この先ずうっとキールと幸せに生きていけますように――

 緩い上り坂を経由して、駅近くまで戻ってきて、そのまま通り過ぎて、また少し上って、一本入ったところの公園に忍び込む。自転車を入口に引っ掛けて。体の陰でハヤトの手はキールの掌を触る。キールの指が緊張する、そこに、しっかりと絡みつける縛り付ける。

「冷たい手ぇしてんな……」

 この公園にはあまり来たことがない。キールが思うということは、ハヤトもあまりここには来ない。老人ではないのだし、無目的に公園に来たりはしない。つまり、するべきことがハヤトの中にはしっかり定まっていて、キールはただ無目的、目的を挙げるならそれは、ハヤトの側にいるだけで叶う。

 起伏のある公園の中を、ハヤトは歩いていく。五時の鐘がなった、子供も老人も影はない。殆ど空は紺色で、木は土は光を吸う色をしているから、活力の在る色を成しているのは自分たちだけのように思えた。

「この辺でいいか」

 ハヤトは立ち止まり、鼻をくんくんさせる、

「……って、トイレの裏か」

 舌を打って、でも、仕方ないかと笑う。

「……ハヤト?」

「うん、あのさあ」

 まだ、手を繋いだままだ。

「家じゃ、あんまり大っぴらにはベタベタできないだろ? 俺は父さんも母さんも許してくれると思ってるけど、お前に勇気がないのはしょうがないからさ」

 繋いだ手を、振る。キールは、振られる。

「ねえ、キール。また、聞きたい」

「……また……って」

「嬉しいんだよ、誰かにあんなこと言われたの初めてだったからさ」

 暗がりで判るのは色というより、キールの一度高まった体温のほうだ。

「……そんな……」

 ハヤトに悪気がないことは判っている、悪いのは自分だと飲み込んで、それでもなお、心はどこからでも責められそうな後ろめたさを孕んでいるように思える。

「好きだよキール、俺はお前が好きだよ、キール、大好きだよ」

 ハヤトの目は真っ直ぐにキールの瞳孔の奥の脳神経を確実にレイプした。

 その唇が本当を言うときにしか動かない震えをしていたから。

「言ってよ」

 まるで、ハヤトが先にキールに惚れたような物の言い方で、自分より十五センチも高いところにある目を射抜く。

「ぼ、く、も」

 機械のような動きが、普通の人間よりずっと、人間らしい。

「ぼく、もき、き、君の、ことが、……すっ、……好き、だよ」

 一番最初に言った時が一番スムーズだったね。「僕は同性愛者だ君のことが好きだ」、今、こんなに楽な状況でもまだ、キールは言えない。

 怖がるべき存在ではないと思うから、ハヤトを怖いとはもう思わない、その代わりに、神々しく思うのだ。神様みたいな少年と、一個下であるだけの少年を崇め奉りたい。実際に、確かに、ハヤトは勇者だ。

「好きって証拠を見せてよ」

 湿っぽくて微妙な悪臭の漂う場所でもハヤトがそう言う。

「しょうこ」

「そう、証拠。お前が俺を好きって言う、……言葉が嬉しい、でも、それだけじゃないってことを教えろよ」

「……しょう、こ、を」

「まだ、お前からしてもらったこと、一度もない」

 濃くなった闇の中で、ハヤトの唇が光っているという幻想はある程度正しい。キールは熱い耳からの指令に基づいて、性急に二秒間キスをして唇を離した。

「……へへっ」

 お返しに、キールがもがくまで、キスをして、ハヤトは素直に、恋をしていると言う、恋をしていると認める、同性相手に本気で盛る自分を、別に恥ずかしいとも思わない。

「……大好き、キール」

「……僕も……」

「お前も?」

「……僕も、大好き……だ……」

 ハヤトは、手をずっと繋いだまま、キールの頬に髪を預ける。キールの心臓を聞く、キールの首筋に鼻を当てて、頭の中をキールだけにする。寒いんだけど、とキールに言う、何を言われたのか判って、またキールの心臓が一跳ね、壊れ物を扱う手つきで、その背中に手が回った。力の逃がしどころを探して、指先がハヤトの背中を指圧した。

「こういうところじゃないとラブラブできないのも、何か悔しいけどさ」

 殆ど真っ暗、寒い、アンモニア臭、それでも、

「まあ、いいよな……、俺は俺で、上手に幸せになれちゃうから。お前を連れて……さ、お前連れて、幸せの方にさ……」

 家、部屋さ、やっぱカギつけてもらおうか、ハヤトは言う。

「けど、アパートだとつけらんないのかな。一応ノックはしてくれるけどさ、さすがにお互いに裸だったらまずいじゃん?」

「はっ……はだっ」

「え? だって……、するだろ? ああいうこともさ、そのうちに」

「あ、ああいうことって……」

「セックス」

 キールの体温が三十八度にまで上がる。

「そんなに軽々しく言うものじゃない」

 ギリギリのところで冷静さを取り戻して、何とかロボではなく人間だと証明するために、声を落ち着かせて。

「君は、……どういう風にするのか、知らないだろう……、どういうものなのか」

「知ってるよー?」

 寒い、ちゃんと抱いて。そんな言葉には素直に応じる。

「尻の穴使うんだろ?」

 こういうときやっぱり性格の悪い自分を知る。

「お前の、これをー……」

「ひっ」

「俺の尻の中、入れるんだろ? 判ってる、知ってる」

「そっ……そんな君は知識を何処で仕入れて何時……どうやって!」

「さー」

 キール、あったけえとハヤトは微笑む。

 キールはやっぱりこの子怖いのかもしれないと思いつつ、でも後は自分が一歩踏み出せば落下するにしてもそこにはハヤトがいてくれる或いはハヤトが抱きとめてくれると判っていて要するに勇気がないのだ。

 薄ら熱い場所を掌がしっかりと捉えている。その手だって、決して滑らかな動きをしてそこに至ったわけではないことを、キールは判っている。ハヤトだって、緊張していることを知っている。それでも十七歳なりの無茶な性欲と愛情が彼をここで自分と二人っきりで夜でトイレの裏で性器を握って――と、判る。そしてそれが興味本位程度のものではないということも。

「俺平気だと思う。お前と違って丈夫だから」

 怖がっている、それでも、……多分、僕を好きだから……、こんな危ないことをしようとする。それに応えられないでどうする。僕は好きな子を喜ばすことも出来ないの?

「……君には、まだ、早い」

「一個しか違わないくせに何言ってんだ」

「でも、でも……っ」

 へっ、とハヤトは笑う。

「……まあ、確かにな。まだ、キスするのがやっとって感じだもんな、お前」

 も……俺も、は飲み込んだ。

 左手で触っていたキールを離した。その代わり、手を引っ張って、俺のもこうだよ、教えて。ね、キール、やりたいね、キール。俺怖くない。怖いけど、怖いって顔はしない。俺嬉しんだよ、お前がいてくれて、……ああそう、そうさ、お前のこと大好きだから、……大ッ好きッ、だから。ホントに。

 人を好きになるって不思議だな。何時からだろ。まあいいや……、恥ずかしいから言わないよ。

「なあ……、もう一回、キス、いいか?」

「……うん」

「お前から、して欲しい。今度は、ゆっくり」

 仔猫のように。

 臆病な俺にキールの唇、優しくて。優しくて丁寧。あー……。

「ハヤ……ト?」

「いいから」

「ん……んっ!」

 いいものか。いいのか、……いいの、……いい。

「んん……っ」

「……! っ」

「……ん」

「あ……っ」

 俯き加減で、でも手は繋いだままで、自転車に戻る。足取りがゆっくりなのは、それだけ寒くなった街を走る風に、火照りを冷ましてもらう為に他ならない。

「……あー、あーいう、あーいう感じなんだな」

 ハヤトは少しだけ不器用に笑って言う。

「……ああいう、とは?」

「いやあ……」

 繋いでいない左手で、唇を撫でた。少しまだ、あったかくて、くすぐったい。

「映画とかでトロンとなってるの見て、そんなもんなのかなって思ってたけど……」

 いっちゃいそうになったよ。

「……嫌だったなら、やめればよかったのに」

「嫌じゃないよ。してほしかったから俺から誘ったんだ」

 ぎゅ、と左手握り締められて、キールの幸せはそこで不格好に滲む汗にも混じる。ハヤトがその手を、まだ離さない。


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