ラヴァーズフィールド

 汗っかきで寒いの嫌い、冬になると家族内にて割り振られた朝のゴミ出しも覚束なくなるハヤトである。それでも学校があるときには何とか定時に目を醒まし、自転車は寒いからヤだと電車を使って通学して、何とか遅刻せず学校へ行ってはいたが、冬休みに入るやすっかり怠惰で、起床時間九時十時は当たり前、俺の恋人はお布団、あああったけえなあ、気持ちいいなあ、ぬくぬく、いつまでだってこうしていたいと、重力にすら負ける身体、重力に逆らう頭髪。

「……そろそろ……」

 ちょこんとベッドの下、枕元に座り込んで、キールはハヤトの顔を覗き込む。んんんと唸って、壁の方を向いてしまうハヤトが、数秒遅れてピクンと震え、またのっそりと寝返りを打つ。寝すぎで腫れぼったい瞼で、それでもまだまだ寝足りないというような目で、どろりとキールを見て、それが自分の本当の恋人であると気付くのに、数秒かかる。

「……キール……、あのさあ……、……うう……、おれの代わりにさあ……」

「うん」

「おれのかわりに、おしっこ、行って来て」

「……それはちょっと無理な相談だね」

「じゃあ何かあきびん……」

「……お願いだから起きてちゃんと行ってくれないかな」

 キールの青褪めた顔と懇願に、布団が重たくて仕方ないというようにどっこらしょと起き上がり、ベッドから降りる。フラフラとトイレに向かって、ドアは半開きのままでもちゃんと立って用を足し始めたのを見て、やれやれと息を吐く。

 キールは改めて、ハヤトと自分の、洋室六畳を見た。学習用の机、背凭れ付き回転椅子、本棚にクローゼット、オーディオセット。自分の部屋にテレビを置くという贅沢はしていない(かつては「テレビっ子」だったハヤトが部屋に引き篭もるのを避けるため、母が許さなかったのだ)が、まずまず恵まれた部屋であろうと思う。本棚の中、以前はマンガがずらり並んでいたが、キールに半分分け与えたため、少しは知的に見えなくもない下半分。

 キールは被っていた手ぬぐいを、改めて結びなおして、窓を開く。低い冬の日が、真っ直ぐに光を放ってくる。凛とした空気が風に乗って入り、カーテンが泳ぐ。ハヤトの平手がキールの後ろ頭を打つ。

「さっみーだろお前馬鹿か!何開けてんだよ馬鹿!」

「だ、だって、大掃除……」

「しめろ、今すぐ、今すぐしめろ!殺す気か!」

 半泣きなのは、キールもハヤトも。

「だ、だって、だって、お母様が『夕方までに部屋の大掃除しておいて』って」

「大掃除なら俺学校のやったからいいよもう」

「でも家の大掃除はまだ……、寝ててもいいから、窓は開けさせて。ホラ、埃舞ってる、こんな部屋にいたら風邪をひいてしまうよ」

「じゃあキールは今夜から居間で寝ろ。居間は母さん掃除したから綺麗だろ」

 眠さ寒さに任せたわからないことを言っているうちに目が醒めてくる。キールが本気で困っていることに今更のように気付き、キールがいつでも笑っていられるようにいるはずの自分が何をやっているのか、急にそんなシリアスな考えが去来する。

 まだ歯磨きもうがいもしてない、ベタベタの口だけどと、背伸びして、キスをした。そして震えながら、パジャマの上からジャージの上下を着て、靴下を履いて。

「……そんな散らかってないだろ、でも」

 部屋を見回す。

 この部屋が自分だけのものでなくなってからというもの、キールが綺麗好きで真面目であるから、部屋は見違えるように綺麗になった。それでもしばらくは、ハヤトのテリトリー即ち机の上やオーディオ周りなどは、広げっぱなしのノート、蓋の空いたままのボールペン、中身とジャケットの異なるCD、鼻をかんだティッシュ、食べかけのマシュマロ、脱いだ下着、靴下、などのものが乱雑に散らばっていて、トータルとしてこの部屋の品格を貶める結果を招いてはいたが、ハヤトもキールを見習って、不必要なものは日常的に視界から排除するようになった。実際、今机の上に乗っているのはペンケースと数学Uの問題集及びノートだけで、それ以外は全て鞄及び引き出しの中にしまわれている。

 それでも綺麗好きの目には、まだ掃除の余地は在るらしい。

「で。俺はどこをどうすればいいんだ」

 肩を上下させて聞くと、キールはまだ気弱な上目遣いで、「……手伝ってくれるの?」と。

「いいよ、確かに埃っぽくはある。夜に布団の上でバタバタするから舞っちゃうんだな」

 ちらりと、「俺だけのせいじゃない」と匂わせた。

 確かにこのところ、ハイペースではある。あんまりやりすぎると尻の穴壊れちゃうんじゃないのか、自分で心配になる部分はあるけれど、ちょっと痛いくらいで、他に問題は生じない。それはキールの優しさ故と信じている。「可愛いよ」「綺麗だよ」、そんなことを言われながら、いくらだって善くなってしまう自分がそもそも男として、男子高校生としてどうなのかという気はしたけれど。

「じゃあ、本棚とか、窓枠の上とか……、あと机の裏だね、ベッドの下もそう、埃の溜まりやすいところ、掃除機かけて雑巾かけて……」

 毎年の大掃除、キールが居ない頃には、もっと大事だったっけなあと思い出す。ベッド退かしたら石のように固まったティッシュの中やら埃の塊と貸した靴下やらに紛れて、親指大の黒い虫が引っくり返っていて、「俺はゴキブリの子を産んじゃったのか!」と悲鳴を上げて逃げ惑った。決して新しいマンションではないから、夏になると害虫も出現するが、キールと一緒にいるようになって、少なくともこの部屋で遭遇することはなくなった。

「キール、ありがとな」

 屈みこんで机の下に潜り、掃除機のノズルを伸ばす背中に言う。振り返って頭をぶつける恋人の、ズレた手拭いが本当に美味しそうだ。

 

 

 

 

 かつては半日仕事だった自室の大掃除が、十時に起床したハヤトの腹が昼前にぐうと鳴る頃には終わったのだ。日頃の整理整頓、そして家事が得意な恋人の存在は、本当にかけがえのないものだとしみじみ思う。上機嫌で、冷蔵庫の中に三食ラーメンを見つけ、鍋を火にかける。ラーメンが得意料理、こんなの料理じゃねえやと思いつつも、そう胸を張って言う、インスタントは口に合わないらしいが、ハヤトの作る生ラーメンは美味しいらしい。

 危なっかしい手つきでキャベツを細切りにし、たまねぎをスライスする。そこで初めて、それらを洗っていなかったことに気付き、ザルにとって適当に濡らす。

 テーブルに座って、恋人が自分のためのラーメンを作ってくれるのを、すごく嬉しそうな顔をして待っているキールを、ハヤトは呼んだ。

「ん?」

「こっち来て」

 そう呼ばれれば、当然手伝いの要請だろうと思っていく。ハヤトはにーと笑い、こっち、と手招きする。

 言われた通り、すぐ近くに立ったキールを見て、

「なあなあ、後ろからさ、ぎゅってしてよ」

 ハヤトはそんなことを言った。

「俺奥さん、お前の奥さん。お前のための、美味しい昼ご飯作る、可愛い奥さん」

 言ってる目が、何とも言えない笑いの形。なあ、俺、奥さんでもないし、可愛くもないし、ご飯美味しくもないよ、エプロンだって男物だしね。だが、そんなハヤトのふざけきった言葉にも、キールは常人に理解し得ない――多分ハヤトにだって理解できない――構造に基づいて、感動を覚え、ハヤトの身体を、後ろからぎゅっと抱きしめた。どこか、緊張したような腕、初々しい新婚の夫に見えなくもないと、ハヤトは好意的視座に立つ。

「愛してるよー、キール」

 後ろから手を伸ばして、首を撫ぜる。キールは、埃っぽいかもしれなくとも気にせず、ハヤトの髪に鼻を当てて、「愛してる」、そう呟く。

「なあ、本当の新婚さんだったら、台所とかでしちゃったりするんだろうなあ。ラブラブでさ。……将来……大学入ってからかな、二人で暮らすようになったら、そういうことしような。母さんたちの目も気にしないでいいんだから、そういうこと、いっぱいしような」

 そう、夢想するような口調のハヤトに、真っ直ぐにキールは応じる。

「君が欲しいと思うものは、僕が全部揃えてあげる」

 嬉しくて、ハヤトはキールを十分に理解する。感動した、危うく目が潤みかけたのは、さっきスライスしたたまねぎのせいじゃない。

「君の欲しい未来の生活だって、僕は叶えてみせるよ」

 歯の浮くようなと、笑う事だって出来ないなら、その甘さに虫歯になって歯を全部失う覚悟で側に居続ける。大丈夫寝る前に、ちゃんと歯を磨くから。

 ハヤトは瞬きを二つして、心の底から、微笑んだ。

「っていうかさ、なあ、キール」

「……ん?」

「今でもいい」

 首に回した指先を、耳にそっと差し入れた。背中にくっついた胸が腹が、びくんと震えた。

「今でもいいじゃん、予行演習しとこうよ……、どういう風にするかとか、さ。その時のために」

 戸惑うキールの腕を、右手はしっかりと掴んで、……なあ、こんな力強いの、ホントに可愛い奥さんじゃないよな、しかしスムーズに行為に移行することには十分役立つ、可愛くなくても、新堂勇人、キールの奥さん。


back