高速スライダー

 汗をかくのも暑いのも、ちっとも疎ましいとは思わないらしい。「チャリンコでちょっと走るけどさ」、ハヤトはまだ宿題が半分以上残っているのに、マンションから飛び出した。キールを後ろに立たせて。

「……暑いだろう、ハヤト。僕が漕ぐよ」

 そう言ったのに、自転車で十五分のところにある市営公園の広大な芝生、この暑さでは犬一匹いないのをいいことに、キールにグローブをはめさせて、キャッチボールを始める高校二年生。自転車を立ち漕ぎしている間からしてすでに滝のような汗でそれをジャマとハヤトが頭を振るその汗の滴がキールの顔に当たるキールは年齢相応に恋愛対象には変態であるから、当然その汗を信号待ちで止まったときに舐めたわけだ。それが恋するキールにとっては何よりものイオンサプライ。

 十五分も立てば汗の出にくい性質のキールもさすがにシャツを濡らす。もとより、さほど体力のあるほうではない。体育会系部活動に勤しむハヤトは、短身ながらすばしこく、スタミナのある体をしている。バスケットボール部でのポジションはPGであっていわゆる花形ではないがチームの支柱とも言える。

「ハヤト……、少し、少し、休もう」

 膝に手を置いて、キールは鼻の頭から汗をぽたりぽたりと垂らした。

「なんだあ、もうヘバったのかよ、情けないなあ」

 ギラギラの太陽に頭が割れそうに熱い。ぽん、ぽん、自分のグローブにボールを入れて出して。

「しょうがないな。じゃあ、ちょっと待ってろよ。お茶買って来てやるから」

 べたん、と芝生に尻をついた。ハヤトは元気良く走っていく。その後姿は愛しいが見るのも辛い。

 もしも仮に僕たちが恋人同士になったら、ここへまた来ようとは思うけれど、出来ればそれはこの季節じゃないほうがいい。君とするならキャッチボールだって楽しいよ。ハヤトのカーブ、ちゃんと曲がるんだね。フォークだと言って指で挿んで見せてくれてから投げたのは、僕の頭のずっと上を飛んでいったけれど。楽しい時間、だけど。君と幸せな恋人同士になるために僕に必要なのは、もっともっと体力だ。

 実際、キールの息はハヤトが公園の外のコンビニエンス・ストアでよく冷えたペットボトルのお茶を買って、戻ってくるまで、収まらなかった。

「ほら、タオル」

「……ありがと……」

 目から涙のように汗が滴り落ちる。

「復活した?」

「いや……、まだ……、もう少し」

 ようやく呼吸が平常に戻った。走ってコンビニまで行って帰ってきたハヤトなのに、少しも息が転がらないのはどういったことか。

「キールお前、もう少し体鍛えたほうが良いよ。背ぇ高いくせに、痩せすぎだよ」

 従順に頷く。

「……それは、僕も、思ったよ」

「百八十あって五十八キロだっけ? ……俺と十ニセンチ違うのに五キロしか違わないんだもんなあ」

「……ハヤトは百六十八だったっけ?」

「悪かったよ、百六十五ですよ。……うるさいなあ」

 可愛いよ、と言ったら怒られるし、思っただけでもぶたれるかもしれないから、そう思わない努力をした。

「……小さいって馬鹿にしてるんだろう」

「馬鹿になんてしないよ」

「嘘つけ。顔見れば判るんだよ」

「え……、本当かい?」

「思ってたのかよ!」

「……いや、……でもハヤトは足が速いし運動神経は僕なんかよりもずっとある」

「でも、じゃねえよ。何だよもう」

 ハヤトはプンとむくれる。キールはそれだけで焦りを感じる。どうしようもう口を聞いてもらえなくなったら。そう思えば、また新しい汗がぷつぷつと色いろなところから湧き出てきて、蒸れた足が遠く冷たく感じられる。

「そろそろいいだろ。続きやるか」

 ハヤトは、なんでもないように立ち上がって、ぽいと軟球をキールのグローブに放った。キールは全身安堵で弛緩して、筋肉痛を感じる。それでも、立ち上がらないわけには行かないのだった。

 

 

 

 

 来た道とは少し外れて、自転車で二人乗りの帰り道。電車の車庫を、長い跨線橋で渡る。ギラギラと照りつける太陽はその蒲鉾の屋根に映じて上から下から目を焦がす。知らない景色が多くなって、少し、キールは困惑する。

「まっすぐ帰らないのかい?」

 両手両足が張ってしまっているし、明らかに自分は汗臭い。匂いに関しては汗かきのハヤトのほうが発しているだろうが、生憎キールはハヤトの体臭を「芳香」と感じるような男なので。

「うん、寄ってくから」

「どこへ」

「ガッコ」

 しばらく自転車が漕がれて、不意に知ったような道に出れば、間もなくハヤトの通う高校に到着した。

「よしじゃあ、お前はここで待ってること。フラフラするなよ」

「……君は?」

「……別にお前置いてどっか行ったりなんかしないよ。このあいだ部室にマンガ忘れたから。取って来るだけ。すぐ戻る」

 と言ったのに、キールはたっぷり十分待たされた。その十分はこの少年には二十五分にも四十分にも感じられた。

 戻ってくるときに、同級生だろうか或いは、後輩だろうか、数人を引き連れてハヤトはやってきた。全員ハヤトよりも上背がある、しかしキールにはハヤトの背景でしかなかった。

「ああ、こいつ、キール。ええとな、俺の弟」

「先輩のっすか? ……始めましてえ、って、弟なら俺らとタメ?」

「いやあ、いろいろあってね、こいつ、俺より年上なんだ、一コ上。何故弟が俺より一コ上かという件に関しては諸君らの立ち入ってはいけない領域なのだ。……キール、駅までこいつらと一緒に行くことにしたから。構わないよな?」

 こっくりと、キールは頷く。

 他愛ない話を左耳に聞きながら、キールはハヤトの転がす自転車を壁と感じる。こんなことでいちいち気分を害していても始まらないと、思ってはいながら、それでも、どういう表情を浮かべていればいいのか判らない。表情筋がぎこちなく強張っている。

「先輩、どうっすかこれから、ゲーセン。行きましょうよ」

「ゲーセン? ああ、いいなあ」

 ポケットから財布を取り出す。千円冊一枚を見つける。

「金ならある」

「じゃあ行きましょうよ、ね」

「けどなあ……、いや、やっぱいいや、今日は俺行かない」

 不満げな声を上げた後輩たちに、ハヤトは誤魔化すように笑った。

「考えてみたらさ、これ、俺、ラストの千円なんだわ。コレ使っちまったら、ちょっとな。だから、また今度誘ってくれよ」

 駅前の商店街に繋がる道で、「じゃあな」と、ハヤトは自転車に跨った。ぼうっとしているキールを、「何してるんだよ、乗るの」と咎める。

「……良かったのかい?」

「は? 何が?」

「……遊びに、行ってくれば良かったのに」

 ハヤトはギアを、少し軽くして、緩めのスピードで線路沿いのだらだら坂を登っていく。満員に近い、都心から向かってきた列車が風を起す。ハヤトの額には、また汗が生じた。風に当たってそれが心地良い。

 列車が去るのを待ってから、ハヤトは答えた。上りきった坂で、後ろから太陽が照らしているので、すれ違う人たちはみんな笑っているような顔に見える。

「お前、やかましいの嫌いだろ」

 跨線橋を渡って、今度は下り坂に変わる。遠景にさっき通った車庫が見える。

「俺が格ゲーしてるの、ぼうっと立って見てて楽しいの?」

 キールは、何とも答えられない。そもそも「カクゲー」とは何だろう。

「お前が一緒にいて楽しいトコだったら、俺も行くけどさ。さっきの公園とかさ、あとは、美術館? お前、喜んでたよなこの間連れてったら」

 ブレーキをかけながら、ゆるゆると長い坂を下っていく。

 交通量の多い街道の横断歩道で止まった。

「だから、いいの。……あ、ちょっと寄ってく」

 横断歩道を渡ったところの、大きな中古書籍屋に入った。中は背中が冷たくなるような涼しさだった。ずんずんと奥へ進むハヤトの背中に、縋るようにキールはついていく。

「キール、何か読みたい本とかある?」

「本?」

「うん。お前さ、リィンバウムでもよく本とか読んでただろ。もしアレなら、ほら、ヒマなときに読む本があったらいいだろうなあって。あ、こういうのは? ……ええと、なんて読むんだこれ、れい……じん? ほら、ホモの本」

「……ハヤト、僕は……」

「冗談だって。普通の小説とかがいい? それともなんか専門書とかのほうがいいのかなあ」

「あ、これすげえ、メチャメチャ安いじゃん、こんな分厚いの……。志賀直哉全集、100円だって。すげえ、全集ってこんな安いんだ」

 一人で声を上げて、驚いたり笑ったり、キールは一人で、困ったりなどしながら、結局ハヤトの千円は九百円に変わった。前の篭にぽいと放り入れて。

「……いいのかい?」

「うん?」

「いや……、最後の千円だったんじゃ……」

「まさか」

 ハヤトは軽やかに笑い、サドルから立ち上がる。

「ハヤト……」

「腹減った。早く帰ろうぜ。それともどっか寄ってく? この先マックあるけど」

「いや……」

「じゃあ、帰ろう」

 ゆらりゆらりふらりふらり、想いは、彷徨う君の後ろ髪の先。

 

 

 

 

 夜八時。晩ご飯はエビのチリソースで、それは母こと新堂人恵の得意料理の一つである。

「あんた、最近テレビ見なくなったわねえ」

「野球あるときは見てるじゃん」

「それはそうだけど……。前はドラマやらお笑い番組やら、片っ端から見てたじゃない」

 そうだっけ、とハヤトは食べ終わった食器を洗いながら首を傾げる。

「今は……、うーん、何ていうか、キールと喋ってる方が楽しいしなあ。まあ、気になるドラマも今はないし」

「あんたの、何て言ったかしら、ずいぶん可愛い可愛いって騒いでた子の話も、全然最近しなくなったし」

「そうだっけ。池脇千鶴は今も好きだよ」

 ハヤトは最後の茶碗を洗い終えて、静かな和室を覗く。

 キールが、父こと新堂勇雄から和室で将棋を習っているところである。ハヤトは「教えてやる、教えてやるったら」と薦めても「やだよそんな辛気臭い」と嫌がるし、妻は「お前、ほら、将棋は理知的な考えが身に付くんだから少しは」「あら、それはワタシが理性的じゃないって言いたいのかしら?」とすごむしで、折角の腕が錆び付いてしまうと嘆いていたところ、ハヤトとは違って真面目なキールがひょっこり現れて、この「次男」がまた素直で可愛いので、「よし、キール、お父さんと将棋をやろう、な、一から教えてあげるから」と丸め込んで、夕食後にはいつも和室で盤をにらみ合う。

「……お父様の番です」

「む……っ、ではこれでどうだ」

「……では、こちらに」

「……ぬ」

 既に右端は破られている。キールは執拗に歩を打ち、父の穴熊を徐々に、確実に、剥していく。一方、キールの高美濃囲いは無傷である。趨勢は、素人のハヤトが見ても明らかだった。

「こうするしか……、や、しかしだ、待てよ、うむ……、こういく、こうくる、こういく、……むぅ」

「なあ、父さん、もういいだろ。キール解放してやれよ」

「いや、僕は……」

 むーん、と父は唸り声を上げる。

「いやはや……、この短期間で僕をこうまで巧みに打ち負かしてしまうとは……いやはや、天晴れだキール。君に教えることはもう何も無い」

 さすがにしょげ返って、盤をしまうと、書斎へ篭っていった。

「……多分、また将棋の本と首っ引きだぜ、あれは」

「手加減してくださったんだよ、僕の為に」

「人が良いなあ、キールは。……部屋行こうぜ」

 結局、キールにとってはハヤトの部屋が一番気兼ねしなくていい。何となく漂う、ぼうっとした、高校生男子特有の匂いも、キールに少しの不快感も与えなかった。六畳の部屋は、机と、本棚と、ベッドと。床にキールの布団が敷かれては、相当な混雑の度合いを見せる。

「熱帯夜だなあ……、蒸し暑い」

 はたはたと、Tシャツと短パン姿のハヤトはうちわで顔を仰ぎ、時折、キールを仰いでやる。

「でもなあ」

 と、ハヤトはキールを恨めしげな目で見る。

「……クーラーでだるくなるって言うしなあ」

 そうなのだ。

 ハヤトはさほど、その辛さを感じない。しかし、一晩クーラーをかけて目を醒ます、キールの全身を、言いようの無い倦怠感が包んでいる。

「ごめんよ」

「まあ、いいけどさ……、狭い部屋なんだ、譲歩しなきゃ始まらない」

「……ごめんね」

「いいって。一人よりマシだ」

 ハヤトはそう言って言葉を切って、Tシャツの胸を掴んで風を入れる。

 ふと思い立って、今日買ったばかりの「日本文学全集1」を生真面目に読んでいるキールに、無責任な言葉をまた、擲った。その高速スライダーはコントロールがいいばかりではなくそれはキールの手元で鋭く変化してすとんと落ちる。

「お前さあ、俺のこういう、何となく裸に近い格好見て、感じるの?」

 買ったばかりの本をその細腕で二つに引き裂いてしまうところ、キールは頁を捲る指を無理矢理に空振らせて空中に指を泳がせた。

「……なんだって?」

「いやあ、だからさあ。お前、っていうか、ホモはさ、ゲイのやつはさ、例えば男のどういうところが好きで、どういうところに感じるのかなあって」

「……感じる……って……」

「判るだろ? だから、ほら、ちんこが硬くなったりする……お前だってオナニーするだろうが」

「……そ、それは……」

 キールは、両腕を本の上にだらんと垂らして、ハヤトを見上げる。こういうときのハヤトの顔は、なんだか、すごく恐ろしいものに見えるのだ。

 急に、その腕に汗が滲む。

「なあ、例えばさあ、俺と風呂入るとき、お前は俺のちんこ見たりしてるの? そういうの想像してオナニーしたりしてるの?」

 キールは、ただ、身を硬くして、その台風の去るのを待つ。しかし彼は河原のすすきのように千切られる。

「例えばさあ」

「ハヤト……、ねえ、君は、僕を困らせてそんなに楽しいのかい?」

「……困ってるの?」

「当たり前だろう! どこの世界に……どこのっ、世界に自分の……自分のっ、自分のっ、すっ……きな相手にそんなことを言われて平静でいられる男がいるっていうんだ大体恥ずかしくないのか君はそんな男性器の俗称を軽々しく連呼など言語道断」

「……落ち着けよ。男性器の俗称ってな、お前、じゃあ他に何て言えばいいんだよ、ちんこはちんこだろ、言い方変えたってちんこがちんちんになるくらいの話だろ」

「そういう問題じゃないっ」

 ははは、とハヤトは笑った。

「怒ってら。珍しいの」

「……っ、ハヤト、君は……!」

「怖くないぜ、別に何も。なあ、俺もお前も、怖がることなんて何一つないのに。何でそれが判んないのかなあ。キール……いや、まあ、俺もバカだけどさ」

 くくく、と笑って、はぁ、と溜め息を一つ吐いて。翻弄されっぱなしのキールは、言いえぬ腹立たしさに、呆然となる。

「……まあいいや、悪かったよ。キールがどういう風に考えてるのか知りたかっただけだよ」

「……」

「おい、なあ、ほんとに怒っちゃった?」

「……いいや」

「そっか、悪かったな」

「……もう、いいよ」

 キールは、ぽとりと目を、開いたままの本に落とした。

 ハヤトはまた、はたはたとうちわを動かす。

 何とも言えないぎこちない空気に、キールの文字を追う目は、たどたどしい。すっ、とハヤトが立ち上がる。

「クーラー、かけてもいい? 寝る前には切るから」

「……ああ」

 壁に付けてあるリモコンのスイッチを入れて、窓を閉める。すっと冷たい風が、キールの周囲を漂った。

 怒りすぎた。強く言い過ぎた。それが、冷えてきて判る。悪いことをした、後悔が立ち上る。しかし、本当に。リィンバウムにもこっちの世界にも、……そして恐らくはどの時代どの世界にも、好きと思う相手にさっきのようなことを言われて平気な顔をしていられる男のいるはずが無い。いたとしたら要するにそいつは相手のことを好きじゃないのだ。

「……好きな相手、か」

 ハヤトはシャツを脱いで、クーラーの冷風に、直に肌を晒した。

「おお……気持ちいい」

 キールは、その背中に目をやらないよう、意識的に字を追う。意識的に追わないと、字から平気で浮ついてしまうのだ。

「好きな相手のことって、知りたがるのが普通だと思ったんだけどなあ……、キールはそうじゃないんだな」

「……人、それぞれ、なんだろう、きっと」

「その本面白い?」

「……ああ」

 ハヤトが振り向いた、キールはそれを感じる、ただ、ぎこちなく、本の「し」という平仮名一文字にじいっと視線を当てつづけ。

 暗くなった。ハヤトが近づいたのだ、そして、しゃがんだのだ。

「まだ怒ってる」

「……怒っていないよ」

「嘘だ。怒ってないなら、こっち向けよ」

「……向きたくても向けない訳があるんだ」

「何。俺が裸だから?」

「……判っているんじゃないか」

 ハヤトが、首を傾げた。本の上の影が傾いた。

「俺、女じゃないのに」

「……体の形は僕と一緒かもしれないけど、君の体の持つ意味は、僕にとっては……」

「普通の男にとっての女と同じ?」

「……そう考えて貰っても構わない」

「そうなんだ……。じゃあ一緒に風呂入るの大変だったろうなあ」

「……そう、だね」

「ふーん」

「……」

「例えば風呂とかで、まあ、部屋でもいいけども、俺が裸になると、キールは嬉しいの?」

「……嬉、しい?」

「うん、だからさ、普通の男が……よく判らないけどさ、駅のホームとかで電車が入ってきて風がびゅーって吹いて、スカートがヒラヒラーってなって、女の子のパンツが覗けてラッキー、みたいな、そういう嬉しさをキールも感じるわけ?」

「……」

「あ、俺ひょっとしてまた、困らせてる?」

 頭痛、それも、こめかみの部分に鋭く。キールは、顔を閉じるのを、諦めた。替わりに本を閉じた。顔を上げると、想像していたよりもずっと間近な距離にハヤトの顔があって、心臓が一つ跳ねた。

 愛らしい顔だと、……それが、仮に全ての世界で自分だけが思うことだったとしても、キールは思う、ハヤトが、可愛いと、愛しいと、好きだと……、欲しい、と。ああ、そうだね、確かに君の言う通りだ、僕は君の裸、風呂場で見る君の裸が一番の好物だ、それでご飯を食べている。君の、滑らかな裸で、甘く塩辛いようなその裸でね。そうさ、だから、君と入浴するのはそれこそ、今だって、この上のない快楽だよ、同時に恐ろしくもあるけどれどね。そうだね、だから、きっと、僕はそういう点では、他のどんな男と変わりはないのかもしれない。ただ、ベクトルの向きだけが、ちょっと狂っているというだけで。

「……キールさん?」

「……もう……、寝よう、はやと、もう、ねよう」

 キールは平板な口調で、そう言った。

「……怒ってる?」

「おこっているものか。ぼくがどうしてきみのことをおこれるんだ。……ねよう。からだをたくさんうごかしたから、きみもつかれているはずだよ。クーラーはつけっぱなしでかまわないから」

 そして、もう何も言わずに、布団に包まった。ハヤトは少しの間、ベッドの上に座ってキールの、向こう向きの頭をじっと見ていたが、やがて枕元にだけ灯りをつけて、マンガを読んで、それから十分程して電気を消し、しばらくしてから規則正しい寝息を立て始めた。それを、キールは全部、耳で読んでいた。ハヤトの寝息が始まってから、正確に、六百秒数えてから、息を止めて布団から忍び出て、蒸し暑い廊下に命の存在のないことを確認してから、トイレに入り、鍵をかけ、扉に背中を預けて、ずるずるずると尻を付き、声を殺し。


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