就寝前の一時間余りがキールの一番好きな時間だった。ハヤトの宿題が溜まったりしていなければ、二人で声を落して、パジャマ代わりのシャツと短パンで話をする。そう言うときのハヤトは、決してキールに威圧感を与える存在ではない。おしゃべりの内容は他愛なくても、キールとしては微笑んで頷いていられるのが有り難かった。
大抵、ハヤトが話したい事を脈絡なく話す。キールはそれを聞いている。部活のこと、進路のこと、授業のこと、購買の弁当のこと。高校という場所がどういう社会の成り立ち方をしているのかを、キールはハヤトから聞いて知っていく。思いのほか、窮屈なところらしい。それでも、同世代の友人の極めて少なかったキールには羨むべき世界が広がっているようだ。ハヤトが「反吐が出る」と嫌悪する授業だって、勉強するのが好きという、ハヤトからしたら信じられないようなキールには、完全に許容範囲だ。
時にはリィンバウムの話をすることもある。あの長いような短いような日々のことを思い出して、ハヤトは懐かしそうに笑う。実際、まだほんの数ヶ月しか経っていない日々のこと。それが、こんなに遠く感じられるのは、あの日々が余りにも唐突に始まって、ハヤトに強さを与えた、重要な時間だったから。余りにも鮮烈過ぎて、一生忘れない。だけれど、遠い遠い世界。町田から名古屋、町田から大阪、町田から博多、町田からイスタンブール、よりももっと遠い場所。楽しかったと思うからこそ、懐かしいと思い、そして、遠い思い出になっていく。
キールにとって、リィンバウムは生まれ育った土地だ。その土地を、振り切るように捨てて、こっちへやってきた。あの場所に少しの心残りもなかったと言えば、やはりそれは嘘になるだろう。それでも、全てをハヤトに懸けたいと思ったのだ。どうせ今こうして続いている命は拾い物。ハヤトに救われたのなら、ハヤトの為に全て捧げたい。そして、ハヤトに愛されたい。自己犠牲と利己主義とが交じり合う気持ちを胸に、飛び込んできたのだ。そして、望む以上の形が今、こうして、二人で話す時間なのだろうと思っている。今生きている自分の理由と原因が、全てハヤトに収まりきるのだ。ハヤトに生かされ、ハヤトの為に生きたい。性欲が介在しなければ、美しいだろうか。
「キールって、女の子と付き合ったことないの?」
唐突に生っぽい質問をされて、キールはぽかんとなって、すぐに、こっくりと頷く。
「一度も?」
「……ないよ。だって……、また言わせるのかい? ……僕は女性を愛することが出来ないんだ」
はああ、溜め息混じりにキールは言う。言った後、ハヤトが「ふうん」と納得する。その顔を見るたびに、責められているような気になってくる。
「そっか。……やっぱり無いんだなあ」
うん、無いよ。自分では別に、それでいいと思っている。だから複雑に考えないで欲しい。そんなキールの願いも空しく、ハヤトは何か考えるように黙りこくった。
ハヤトが黙ると、途端に部屋は静かになる。キールに自分からこの沈黙を打破するだけの勇気が無いからだ。
「……この国はさ、多数決でもの決めるんだよ」
「一応、リィンバウムもそうだった……けどね」
胃痛の伴うような沈黙がやっと終わって、キールはほっとする。
ハヤトは、部屋の壁に掛かった阪神のレプリカユニフォームをじっと見て、言葉を捜しながら。
「やっぱりさ、……どこでもそうだと思うんだけど、特にこの国はね、……多いほうが正しい、少ないほうが間違ってる、……っていうような考え方をしちゃうんだよ。『多くなる』のは、『正しいから』だ、『少ない』のは、つまり、『間違ってるから』だ、そういう言い方をしちゃうんだよ。だから、何ていうんだろ、例えばイジメとかさ、差別とかって起こるんだと思うんだ。同性愛だって、完全に『少ないほう』だから、イジメられたりさ、差別されたりする対象になるんだよ」
一瞬で懐に飛び込まれたような気がして、キールは身を硬くした。
「……要するに……、この国の人、っていうか、人間っていうのがさ、一人ぼっちが寂しんだよ。だからさ、何ていうのかな、自分のやりたいこと我慢してでも、周りと一緒がいいって思うんじゃないかなって。その点からするとさ、お前が同性愛者だってことを、俺に言った、その上で俺にああいう告白をしたっていうのは、もんのすごい、勇気あったんだなあって最近、思う。俺には真似出来ないなあって」
真っ赤になったキールを、ハヤトは笑わなかった。微笑んだまま、じっと見ていた。
「そういう点ではさ、そう言う点では、俺はお前のこと尊敬してるんだ。お前だって自分が少数派だってこと、判ってたんだよな? だからあんなビクビクしてた。でも、怖いの全部取っ払って、それでも自分をこう、ガッと押し通したのは偉いと思う」
口の中が錆び付いた。やっと言えたのは、
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ハヤトは微笑む。
「キールはさ、俺のこと、好き、なんだよな」
剥き出しの刃でぐんと突かれたように、また身を強張らせる。ぎぎぎぃ、軋む音を立てて、首ががくんと、一応は首肯の形を作る。
「結構笑えたぜ、キスしてやったときのお前の顔」
顔がどんどん赤くなる、どうにもならない。ハヤトはベッドから降りて、キールの布団の上に乗る。
「嬉しかった?」
ぎぎぎぃ、がくん。
「そっか。お手軽だな、あんなので嬉しいのかキールは」
「ぼくは……」
声が揺れる。
「僕は、だって……」
絞り出す。
「君が……好き、だから……」
ハヤトは微笑んだまま、頷く。
「そっか」
立ち上がってCDプレイヤーのスイッチを入れる。中に入れっぱなしだったのをそのまま聞く。軽快なフォークギターが流れ始める。
「お前は勇気があるな。俺にはそういう勇気、からっきしないからなあ」
皮肉っぽく笑って、ハヤトはまた自分のベッドに戻って、座った。
「なあ、お前はさ、男としたことはあるわけ?」
……こういうハヤトのことを、キールは怖いと思うのだ。
質問に答えない、という選択肢は無いのだ。どうにも有耶無耶に出来ない。そう思うのはキールだけで、ハヤトは別にキールを困らせるつもりがあって聞くわけではない。もし何分も返答が無かったら、勝手に新しい話題を始めるだけだ。ハヤト自身、キールがこうして自分を怖がるのは、あまり面白くもないのだが、それでも仕方のない事かもしれないとも思う寛大な側面もある。ああやって自分に告白する為に、なけなしの勇気を総動員しているはずだから。
「……ある、よ」
「へえ! あるんだ」
「……うん、……あるんだ。……ごめん」
「謝んなくてもいいよ別に。そうかあ、……あるのか」
「ごめんなさい」
「だから謝んなくてもいいって」
ちら、と時計に目をやる。十一時が近づいている。
「そろそろ寝ようか?」
明日は土曜日で、学校は無い。けれど、あまり派手に寝坊をすると、父母は文句を言わないが、土曜日が短くなってしまうから。
床とベッド、それぞれの寝床に入る。暗い部屋。マンションの六階にも月明かりはちゃんと入ってくる。
「なあ、キール」
上から声が降る。
「うん」
「あのさ……、教えてやろうか」
何を? と聞くより先に。
「俺がどこでオナニーしてるか」
ハヤトは、キールの体温を一瞬で一度上げる能力を持つ。
「……この部屋で。お前がいないときにしてるんだよ。……な、判るか?」
「……」
なに。
「お前がオナニーしに起きてくだろ、トイレ行くだろ、……そういうときに、してんだよ」
なに……。
「さきおとといの夜……もう『おととい』になってたかな」
「ハヤト」
「ん?」
「……きっ、きっ、君はっ、そっ」
「……ん?」
「そんなことを言ってっ、また僕を困らせてっ……」
「なんだよ、泣くなよ」
「泣いてなど……っ」
「声裏返ってんじゃん……、大丈夫か?」
ハヤトが、ベッドの端からキールを見下ろした。陰の顔が浮かび上がる。キールが怯えきった目をしているのが、ハヤトには判る。
「……んー? 悪かったよ、な……キール」
手を伸ばして、その頭に触れる、その気安さに、キールはどうにかなりそうだった。
「君は」
布団の中で布団を掴みながら、やっとのことで言う。
「僕を、何だと、思ってるんだ」
喘ぐような声を、その本気さを、聞いて、自分の中に「それ」はあるのかと、ハヤトは思う。
「キールのことを?」
少しだけ、時間を下さい。
キールも……、ハヤトも、同じことを考えて。しかし、どうしても雄々しさはキールよりハヤトだ、強いのも、キールよりハヤトだ。言わなきゃいけないのは自分だと、ハヤトは知っていた、そして、もうこれ以上は「可哀想」以外の何ものでもないのだと。
自分の布団を捲って、
「ひゃあ!!」
ごろんっ、キールの布団の上に落下する。その時上げたキールの、びっくりするほど甲高い声に、笑うのは失礼と心を撫でる。
「は……はやと……?」
「お前は俺を好きって言ってくれたんだよな」
布団の中に、手を差し入れる、震えて布団を手放した指を、握る。
「俺が」
ぎゅう、と握る。
「お前を好きだって言ったら」
ああ、緊張してるんだね、キール。俺は、全然平気だ、何でか知らないけどな、本気のつもりなんだけどな、……惚れられた強味ってやつかなあ。
でも、今に同じになる、俺も。
「お前のことを恋人以外のどうとも思えなくなるよ」
キールの目には、ただ、黒い影が自分の目の前にある、それ以外の何も、捉えることが出来ない。そしてその影は微笑んでいる。この部屋の主はこの部屋の匂いをさせて。
「俺さあ……、まだ十七だから仕方ないのかもしれないし、遅れてるのかもしれない。周りとそういう話することあんまないから、判んないんだけどさ」
それに、一応オクテだから、こう見えても……、信じてないだろ?
「恋人いたこと無い、だから、童貞なんだよ。えっと……、処女でもある。でもさ、そういうことに全く興味が無いわけじゃない。興味があって、いいな、したいなって、思うからオナニーしてるわけだし」
キールは雨に濡れた子猫のように震えて小さくなって見ている、聞いている。
「今は、……ほんとについさっきから、俺には恋人がいる。キール=セルボルト、新堂キール、お前だ」
唇にするのは初めてなんだぜ、キールを安心させたくて笑った。お前のほうが経験豊富だろ? 俺なんか何も知らないド素人だ。
あ、すこし、どきどきした。
「はや……と……」
「今日はココまでね」
「……は……」
「あんまガタガタ音立てたりして、母さんたちに聞かれちゃまずいだろ?」
何事も無かったかのように、ハヤトは自分のベッドに戻りかけて。
「……やめた」
「ひえ」
「ここで寝るわ。……なんだよ『ひえ』って」
全身を強張らせたキールは、徹夜を覚悟する。ただでさえ浅い眠り――これは、好きになってしまった業なのか。
「そんなビクビクすんなってば。俺はお前のこと全然怖がっちゃいないってのに」
この場合、少しは怖がってくれたほうが落ち着くと言うものだ。
「……キール?」
「……はい」
キールはハヤトが好きだ、本当に大好きだ、可愛いと思う、格好良いと思う、優しいと思う、強いと思う。自分の持っていないもの全てを持っているように錯覚してしまうほど、ハヤトが好きだ。好きという感情には、一つには、元々「1」ではない自分を補いたいと思うところにあるのではないか。キールの持っていないものを、ハヤトが持っている。それが、欲しいと思う。ハヤトのそれで、自分を補いたいと思う。但しそれだけならば我儘で終わる。自分も、ひょっとしたらあるのかもしれないハヤトの足りない部分を、自分で補えたら良い、ハヤトに補う為に必要と思ってもらえたら良い、そう考えるのだ。
そして、キールにとっては信じがたいことに、端から見たら当たり前のように、……ハヤトもそう思う一人の少年だった。
キールの顔を見ていて、飽きない。単純なハンサムというわけではないのだろう。顔のつくりの美しさだけを抽出して、例えば芸能人と比べて劣っているとか分析するのはナンセンスだ。人の顔は内から滲むものによって大きく左右される。一日中顔をつき合わせる相手ならば、その滲出する成分がその顔の評価を大きく左右する。だから、芸能人、どんなに顔の作りが良くっても、そいつの生の顔を一日中見ていて飽きないかと問われれば、ハヤトの場合池脇千鶴はどうかわからないけれど他はとにかく飽きるだろうと想像する。然るにキールの顔は今のところまだ飽きない。どうしようもない人の良さが、そこここに独特の線を作る。ハヤト自身が絡むと、変えないと努力するがゆえに変わってしまう顔色目の色、……飽きない。興味深い。自分よりもずっと賢く優しい穏やかなはずのキールが、何によってかそんなふうに慌てる様を見ていて、「君のことが好きだよ」と言ったこの男のことを、ハヤトは心底から愛しいと思う。十七歳にしてそういう感情を抱くことに成功した自分はきっと恵まれているんだろうと、誰かに自慢してやりたくなった。
「こんな風に誰かと一緒に寝んのなんていつ以来だろう」
黙っていて気詰まりと感じるのはキールだけではない。キールの心臓の音まで聴こえそうなほど近くにいるから、それが肌を伝って判る。冷たい布団の中は、すぐに柔らかな体温で満たされた。幸せな温度に近いのだろうなと、考える。
「……キール?」
「……はい」
「……あのさ」
少しくらいは、緊張したっていいわな。……一点差で残り五秒のフリースローって思えば。
「恋人同士らしく、もっとくっついてもいいかな」
返事は待たなかった。布団の中に潜って、キールの胸に額を当てた。無理にでもこうしないと、ハヤトは一生、キールに抱きつくことなど出来ないだろう。
「うわああ」
抱きつかれたキールがそんな情けない声を上げる。「しー」とハヤトが胸の中で咎めるのだ。どこからしている声? 自分の心臓が言う声。口走る、「そんなはしゃぐなよ」、うわあああ。
それでもそこで自分を喪えるのならば、キールも楽だっただろうに。
「人肌あったけー……。最近急に寒くなったもんなあ。お前、風邪なんかひくなよ」
「……え?」
「風邪。気を付けろって言ったの」
「ああ……、ああ、うん」
「布団、薄いと思ったら言えよ。まだあるんだからな」
「はい」
「……あー……」
「……」
「……」
「……」
「……鼻息、くすぐったい」
「……ごめん」
「でも……しょうがないよな……」
真っ暗闇、静かな中に、自分と相手だけ、こんな間近な距離に。心はギリギリだ。宇宙の見える夜だ。宇宙船が星をぐるぐる回る夜だ。月の明るい夜だ。スピードは、……いっそ、どこまでも行けるんじゃないか、……十七歳の少年にそう思わせるには、十分なほど、高まっていく。
ハヤトは勃起していた。いつからか気付かない。鋭く苦しく。他の誰でもない、キールに感じきっていた。精神の平静が肉体の興奮と、必ずしも合致するものではないことを、バスケの試合を通して少年は知っている。
キールが夜にこっそり抜け出して、トイレで自慰行為をしている、それを、知っていたから、ハヤトはキールのいなくなった部屋で、息を殺して己を掻いた。キールが俺をオカズにしてるんだ、それは、もう知っていた。知っていて、怒りなど覚えるわけが無かった。愛されていると思った。十七歳にとって愛とは人を心地良くするものだから。キールが自分を思う、同じように自分もキールを思い、同じ時に違う空間で、しかし、同じ快感を享受する。そこに浅ましくもかけがえのない、何処までも純な純な思いを、誰に認められなくてもいい、但し、キールにだけは認めて欲しいと、ハヤトは願う、祈る。
悪いから、今日はここまでで勘弁してやる。内心で、人の悪い笑みを浮かべて、キールの胸に包まれる。多分、俺が寝たって判ったらキール、トイレに行くだろう。そしたら、すればいい。それまで我慢してやる。「してやる?」……違うね、させていただく。日本語は大事に使いましょう。俺なんて、日本語しか喋れないんだし……。