ハッピーデイズ

 新堂家が町田の一駅隣り、深崎家は新堂家から乗り換え一回を含めた都合三駅隣りであるが、新堂家から乗り換え二回を挟んだ四駅隣りである家は「何家」と呼ぶべきか、恐らく当人たちはそう括られるのを酷く嫌うだろう、だが、便宜上「セルボルト家」ということになろう、バノッサ=セルボルト、そして、カノンの家は、二階建てアパートの二階西向き六畳一間、バランス釜のバストイレ別、築三十七年、レトロ・スタイルのアパートである。クーラーもなく、容赦なく陽射し差し込む夏場は酷暑が想像されるが、家賃が三万円台なのだから文句は言えない。

 バノッサは、彼を知る誰もが驚きを隠せぬほど、勤勉に働いているようである。それは、今の彼の命が「ひろいもの」であるという自覚があり、また側に(彼が認めるかどうかは置いておいて)愛するカノンがいるからだろう。毎月十七万、ギリギリの生活をギリギリに保つ程度に、しっかりと稼いでくることは特筆すべきである。「お疲れさまです」、帰って来たバノッサを労うと「うるせえよ」、いつもそう、邪険に返される。しかし、カノンの注いだ一杯のお茶を、時間をかけて飲む。その横顔が本当に安らいでいるのを見て、外の辛さを、カノンは思い、涙ぐみそうになる。

 ともあれ、バノッサはトウヤの機転により、留学生という肩書きを背負って、日々土木作業に従事している。それはもう黙々と、勤勉に働いている様子は、街道沿いでしばしば見かけることが出来るだろう。

 さて。

「元気ないですねぇ」

 生活環境から想像出来る通り、彼らの財布にはハヤト以上に余裕があるとは言いがたい。だから、ハヤトは普段キールとお茶をするドーナツ屋ではなく、自ら自転車で五キロ以上の道程を走り、手土産に母親の実家から送られてきたブドウを持って、カノンのアパートに行った。

「……そう見える?」

 お茶を、ちゃんと入れてくれる。女の子のように可愛らしい顔で、百六十五しかない自分よりも背はなお小さい。首には「トレードマーク」と言うのが一番相応しいような、首輪が今も巻かれている。僕はバノッサさんの物なんです、自分を「物」扱いすることを寧ろ誇っているらしい少年の、猥褻なその要素が、ハヤトには羨ましかった。

 誇れるだけいい、素晴らしいことだ。

 俺はあいつに、もっと「物」のように扱って欲しいのに。

「何か、あったんですか?」

 上目遣いにカノンは見る。ハヤトは、今更ながら、自分が決して可愛いとはいえない体をしていることを思う。

裸になって、そこに寝ているだけで、何かをキールに催させることは出来るはずだ。実際にキールは「君の裸を見ているとたまらなくなるから」と、服を着せたがる。しかし、ハヤトが求めるのはそんな不器用な優しさではない。……だったら俺は、もう、何の気も使えなくなるくらい、メチャメチャ可愛く生れてくればよかった……。

「……こういうことをさ、その、相談するの……自分でもどうかと思うんだけどさ……」

 悔しいが、カノンはその道においては「先輩」なのだ。

 自分が「道」を求めるならば、それは先輩に聞くのが一番手っ取り早い。

「カノンは……、バノッサと、どういう風に、……その、セックス、したの?」

 みっともない自分を、大いに自覚して、それでも、ハヤトはキールとセックスをしたい。つい先日のことだが、ようやく「処女」を捨てるに至った。しかし、それだって合意の上のことではない。いつまで経ってもアクションを起こさぬキールの臆病に焦れて、無理矢理に跨ったのだ。おかげさまであれ以来、キールは今迄以上にハヤトを怖がるようになった。「一緒に寝ようよ」「いいいい、いい、いい、いいいよ」、正常なコミュニケーションにも事欠く、キスもなかなか出来ない。どうして俺は同棲相手がいるのに、夜中一人でちんちん掻かなきゃいけないんだと、いつか感じていた不条理と、またしばしば戦う羽目となった。

 打開するためには、手段を択ばない。相当に思い切った手を打つ。自分が本当にしたいのはプライドの維持ではなく、キールと幸せに生きる日々であるから、恥知らずな行為に思い切って走れる。バスケットボールの試合で、幾度となく、起死回生のロングシュートを狙ったか。そして、残念ながらそれがリングに吸い込まれることは一度足りともなかったが。

「襲われちゃったんです」

 カノンは事も無げに言った。その口調があまりにもあっさりとしていたから、ハヤトは危うく聞き逃すところ。目を丸くして見れば、カノンは懐かしげに微笑んでいる。

「ええとー……ぼくが十一歳のときですから、もう大分前ですね」

「じゅうい……!」

「そうです、十一歳のとき。バノッサさんが十八歳のときですね。おちんちん出して『咥えろ』って。言う通りにして、ぼくの顔に精液かけて、それからがばーって押し倒して、お尻の穴におちんちん入れられちゃいました」

「ました、って……」

 カノンは屈託なく笑う。ハヤトは唖然として、自分よりもずっと年下だと言われても信じられるような子の顔を見た。

「ビックリしましたよー、いきなりでしたから」

「いきなり……。痛かった?」

「ええ、もう、死んじゃうかと思うくらい痛かったです。ぼくバノッサさんに嫌われちゃったのかと思って、すごく不安になって……、でもバノッサさん、そうじゃないってぼくに謝ってきて」

 ここで「謝るバノッサ」というバノッサが存在することにハヤトは一つ驚きを覚えた。まさか「ごめんなさい」などとは言わないだろうが、「悪かった」なんて、あの顔で、あの口で。

「ぼくはバノッサさんに嫌われなければ、全然平気ですから。その次のときからは、バノッサさん、すごく優しくしてくれましたし、ぼくも気持ちよくなっちゃいましたから……。だから、まあ、そうですねえ、それから今に至るっていう感じ、ですね。今は、ほんとに普通ですよ。いや……普通じゃないかな、いろんなひどいこと、言われますよ。でも、ぼくはバノッサさんのこと大好きだし、ひどいこと言われても気持ちよくしてもらえるから、バノッサさんに愛されてるって判るから、すごく幸せです」

 カノンは、ハヤトがつい先ごろ、強姦のようなやり方で処女を捨てるに至ったことを知らない。ハヤトとキールが恋人で、当然、もう既に――具体的には、リィンバウムにいるころから――関係を結んで久しいと思っているのだ。実際の、ハヤトとキールの切な過ぎる状況をしったら、呆気に取られて、どこかのリンカー同様、急に話題を変えるだろう。

 それも承知で、打開策を伝授してもらおうと思っていたハヤトだったが、曖昧に笑うと、もう言葉が出てこなくなった。

「ぼく、本当にお兄さんたちに感謝してます」

 カノンは言う。

「バノッサさんと一緒にいられて、生きてて良かったって……、ほんとにすごく、思います」

 幸せそうな少年を前に、幸せのはずなのに胸を張って幸せとは決して言えない自分が、もどかしい。こりゃひどい、帰り道、風を顔に受けて、頭痛を感じた。

 やっぱり「跨る」しかないんだろうか? 無理矢理やらせるしかないんだろうか? だけど、それってさ……それってさあ!

 贅沢だと言われても、性欲を滾らせた男根を晒し、「自分だけ欲しい」という外殻だけで判断されるのは辛い。いつも落ち着いて穏やかなキールが、呼吸のスピードをちょっとでも上げて、「ハヤト」、耳元で息を震わせて、いつもよりかすかでも乱暴に、服を脱がせて、「好きだよ」って。つまりキールの身体を強く求める自分と、全く同じ目線で、愛してくれたならば。

 最高のセックスなんだろうな、少女のようにハヤトは夢想する。実際、喉元過ぎれば何とやらで、意外なほど辛かった先日の処女喪失の体験は、いくらだって美化されている。翌朝尻の穴が痛くて痛くて大変だったことをもう忘れているのだ。

 キール、お前に、抱かれたい、抱かれたい、抱かれたい。

 

 

 

 

 今日もいつもの時間、アパートの一階の駐車場で化け猫のようなブレーキ音。帰って来たのを知り、階段をカンカンと踏む音に急かされるように急須にお湯を入れる。本来ならば乱暴なはずが、ぎぃ、ゆっくりと捻られたドアノブ、バノッサは開いて、長い息を吐き、円形の蛍光灯一つの青白い部屋の中央、卓袱台の中央、置かれた自分の湯飲みに、カノンがお茶を注いでいるのを見る。

「お帰りなさい、バノッサさん」

 汗の染み込んだランニングシャツと靴下を脱ぎ、「洗濯機」と呼ぶらしい箱に突っ込み、裸の畳の上に膝を立てて座る。鷲づかみにして、一口啜る。湯気と声の混じった溜め息を吐いて、呟くように「ああ」。

 仕事が終わった瞬間に、「携帯電話」と呼ぶらしい手のひらに納まる機械で、カノンにメールを送る。その扱い方は他の「兄弟」たちに教わった。どうも、本来ならばもっと歯の浮くような科白を打って遣り取りするのが良いらしい、顔文字なんて使うのも良いらしい。しかし、プライドの高いバノッサが辛うじて出来るのは「終わった」とか「帰る」とか。それでも、そのメールに携帯が震えるのを、心待ちにしているカノンである。

 バノッサがお茶を飲んでいる最中に、卓袱台には夕食が並ぶ。もう夜の九時を回っているから、遅い。それでも、温かなご飯、味噌汁に、煮物、ささやかなこの国の晩ご飯。元々、バノッサの料理を拵えるのはカノンの役目だったから、多少文化が異なっても手馴れたもので、バノッサはあまり言葉を発さず、黙々と飯を食う。

「おかわりは?」

「……もういい」

 いつも、二杯。食のそう細いほうでもない。肉体を酷使して帰ってくるのだから、いくらだって食べられるはずが。

 バノッサが余らせたご飯は、翌朝にまわされる、そして、バノッサの弁当になる。

「テメェ食えよ、遅くなったから腹減ってんだろうがよ」

 そう言われて、カノンは微笑んで首を振る。中途半端に残った夕餉に蓋をして、冷蔵庫に仕舞う。換わりに、ぶどうをひと房。

「今日、ハヤトさんが持って来てくれました」

 幾つかの複合した理由によって、バノッサはアカラサマに不快な顔をする。自分よりも年下のハヤトから施しを受けたことに対して、もっと上等な飯を食わせてやれない自分に対して、カノンが自分以外の相手と親しいということに対して。しかし、何も言わず、粒に手を伸ばした。

「種ありますから、ちゃんと出してくださいね」

 言えば、カノンを傷つける、それくらいは判っている。種を皿に落した。

「ええと……、何て言うんだったかな……、きょ……、そうだ、巨峰って言うんですって」

 指を、口の周りを、ブドウの汁で濡らしながらバノッサは聞いていた。答えないまま、目は、カノンの指を追う。ある規則性を持って動いていることにすぐ気付く。自分が二粒目に手を伸ばすと同時に、一粒目に手を伸ばす。ゆっくりとそれを食べ、バノッサが四粒目に手を伸ばすのを待っている。

「もう、いいんですか?」

 七粒食べたところで、バノッサはごろんと畳に横たわった。

「後はテメェ食え」

「こんなたくさん食べられないですよ……」

 バノッサは向こうむきで黙り込む。カノンが二粒だけ食べて、冷蔵庫にしまった。

「明日の朝ちゃんと食べてくださいね」

 カノンはバノッサの枕元にぺたんと座る。顔を上げまい、そう思っていたが、バノッサの目は簡単にカノンの目と交わった。カノンは優しげに微笑んで、バノッサの、少し汚れた髪に触る。うるさそうにそれを払われてから、同じように寝そべり、手を伸ばし、まだ洗ってもいない顔に触れた。「うぜえな」、そう言われても、嬉しそうな顔のまま、カノンは、バノッサに触れたがった。

 言葉もなく、カノンはバノッサにキスをした。バノッサを横たえて、何度も唇を重ねた。小さな恋人にそうされることを、疎まず、拒まず、ただ、食後の気だるさに任せて、黙っていた。カノンはある一点で満足したらしく、身体を退けた。

「風呂沸かせ」

 ぶっきらぼうに、そう言った。素直に返事をして、カノンは浴室に入る。


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