ぐるぐるまわる

 冬場と、五月から六月にかけての時期、どういう訳か体調を崩すのだ。

 「何でだろうなあ」などと暢気に構えているから、今年もきっちりと崩して見せたハヤトである。本質的に几帳面な男ではないのだが、ずぼらだからこそ判で押したように毎年同じ時期に体調を崩す。ハヤトの風邪は、熱から。

 そういう人なのだ、ということを理解しているくせに、キールは一々動揺する。それでも三年前よりは二年前、二年前よりは一年前と徐々に落ち着いて居られるようになり、今年はハヤトが発熱した初日に、ハヤトの額に乗った冷やしタオルを吹き飛ばすような勢いの溜め息を吐いたぐらいで済ませた。

「……んー……、なんでだろうなあ」

 熱から鼻に、そして喉に回る。最終的に咳がしばらく残り、大体完全に復調するまでには三週間ほどを要する。鼻が詰まるから口呼吸に頼り、口中がからからに乾くから喉を痛め、咳に繋がる。いまのハヤトの言葉は聞き苦しい鼻声で紡がれた。もう三日間、大学もアルバイトも休んでハヤトは寝たり起きたりの生活を続けている。

「こういうことは言いたくないけど……」

 キールはそう前置きする。お説教だ、と反射的に身構えるが、唇を尖らせれば呼吸が苦しくなるので、ハヤトは阿呆のように口を開けたまま何の抗いも出来ないままで、

「もう、君は今年で二十歳になる訳だ。いつまでも高校時代の悪癖が抜けないというのはどうかと思う」

 その言葉を黙って、真摯な振りをして、受け止めるしか術はない。

「君も知っての通り、風邪には潜伏期間というものがある。つまりどこかで貰ってきて即発症する訳じゃない。多少の差はあろうけれど、最低でも半日から一日以上は掛かってから症状が出るものだ。……風邪の厄介な点は当に其処で、君が風邪の自覚症状がないうちに接触した人に風邪を伝染して、その人のことも苦しめてしまうことになるんだよ」

「……おんなじようにして、俺も、うつったのかもしんないじゃんか」

「それは確かにそうだ。だからと言って貰った風邪の菌を無責任に誰かに手渡していいという法がないことも判るよね?」

 静かな声に希薄な表情、こういうときのキールはさすがのハヤトだって怖いと思うのだ。理論で攻めてこられては、大概のことを感覚で対応するハヤトに打つ手などない。今は布団の中で大人しく開いたままだ。

「……のど、かわいた」

 掠れた声で言ったハヤトに、表情を動かさずにキールはスポーツドリンクを手渡した。三年前なら飲ませてくれた、けれど仏の顔も何とやらで、だるい身体を起こすときにも手を貸してくれない。自業自得だとキールは思って居るのだ。

 それでもキールは優しいのだろうとハヤトは思う。熱がやっと少し下がって、食欲も出て来た今日になるまで、お説教をしないで我慢していたのだから。病身に自分の言葉が過酷であることを、彼はきちんと理解しているのであろう。

 乾いた身体に水分が行き渡る。飲み込むたびに喉は硬く痛んだが、それでも甘く感じられた。

「反省……、は、毎年してるつもりなんだけどね」

「『反省』とは、同じことを二度と繰り返さないと誓うのと同義だと僕は思う」

 ちえ、と喉の潤ったハヤトは今度こそ唇を尖らせた。判ってるさ、判ってる、毎年おんなじことの繰り返し。でもって今年は今年で、キールからこうして怒られたって仕方のないような行為の顛末として風邪をひいたのだ。如何なハヤトに甘いキールであっても、情状酌量の余地はない。そして優しい男にそんなことを言わせるということ事態が、そもそも大罪であるとハヤトは理解していた。

 だから、

「ごめんなさい」

 と素直に謝るのだ。

 冬場と、この五月六月という春から初夏へと移り変わる季節に体調を崩す理由は、一言「自己管理の不徹底」で括られる。

 冬場は、ただでさえ風邪の菌が猛威を振るう季節だ。寒冷でかさこそと乾き切るこの国この地方の冬を過ごすときには、普段人一倍健康で居るハヤトだって自分の身を護るために警戒をしなければいけない。キールの六倍はこの地方で過ごしているハヤトなのだから、何度も痛い目を見て学んでいないわけではない。

 それでもついうっかり、外から帰ってうがいも手洗いもしないでご飯を食べたり。……だって、お腹空いてんだ、しょうがないじゃん。「しょうがない」という言葉で片付けてしまうことがもう既に罪作り。呆気なく風邪をひく。サラリーマンの格好をして日々満員電車に揺られて仕事に行くソルは自分の身体の丈夫でないことを自覚しているからマスクをすることを欠かさないし、去年の冬には給料を溜めて高性能の加湿器を買ったほどだ。ハヤト以上にずぼらと思われがちなバノッサの健康管理はカノンが主に栄養ある食事でしっかりと支えている。キールも、自分が風邪をひいてハヤトに伝染してはいけないと肝に銘じて、体調管理には万全を期す。ここまで努力した上で風邪をひいたときに初めて「しょうがない」のであって、ガードの甘い身体で居ることはちっともしょうがなくないのだ。

 ただ、湿潤で、気候のまずまず安定している五月六月に風邪をひくのは冬場以上にハヤトの努力不足が論われる。

 ハヤトは六人の中で一番の暑がりである。そして汗っかきである。元々はバスケットボール部の主将を務めていたほどで、運動で汗をかくことは嫌いではない。試合の時には一汗かいて初めて身体に切れが出るとさえ思っている。ただ、日常において汗をかくことについては出来れば遠慮したいという、真ッ当な感覚がある。

 ここに、「汗をかかないためには、薄着でいればいいんだ」という誤った結論が生じるのである。少し肌寒いかな、もう一枚着ようかな、でもそれで汗かいたりしたらやだよ、だからいいや、このままで出かけよう。五月の半ばにTシャツに薄いシャツ――もちろん共に半袖――であっちこっちへ出かけて、しかも食欲のままに偏った食事ばかり摂っていれば、獲物探しに余念のないアデノウイルスが見逃してくれるはずもない。

 もちろん、帰って来てうがいをしない歓迎ぶりである。

「……反省しているの?」

 キールはじっとハヤトの目を見る。ハヤトの目はとろんとしていて、少し充血していて、瞼も腫れぼったい。普段はあれほど格好いい顔をしているのに、これではあまりに勿体無い。

「してる」

 声だって、……男らしい声をしているはずなのに、どこか妙に甘ったるくなって、やはり鼻が苦しいからか口元にも締りがない。

 キールはハヤトが開けたままのスポーツドリンクに蓋をして、一つ、密やかに溜め息を吐いて、

「じゃあ、……何が悪かったのか、振り返ってみようか」

 と、喉の痛いハヤトに言葉を強いた。これは言うなれば、珍しくキールに与えられた断罪の機会である。

 

 

 

 

 発症四日前。

 ハヤトは大学が終わった後、そのままアルバイト先のファミリーレストランに向かった。大学入学とほぼ時期を同じくして始めたアルバイトは、二年を経過してもうすっかり正社員とも遜色ない仕事振りで、「頼むよ、この日、十一時までやってくんないかなあ。新堂くんいないと回らないんだよ」などと店長から懇願されるほどになった。自分の人生においてこの調理場のアルバイトがどの程度良質な血肉となるかは判然としないが、頼られれば頼られただけ頑張りたいと思ってしまう性質のハヤトが仕事場で重宝がられるのは至極当然のことと言えた。

 九時に店を出るはずの予定が、結局十二時過ぎまで働いて、へとへとになって帰って来た。夕食は職場で済ませた。まかないの鮪丼と味噌汁に漬け物。少々、塩分が多めである。

 発症三日前。

 平日ながら、週の真ん中の水曜日には授業を入れていない。せっかく自由な大学生活なんだから毎日毎日授業詰めじゃつまんないもんね、俺らまだ若いんだし、いっぱい遊ばなきゃね。そういうハヤトの言い分には、キールも納得している。学業に励み、かつ生活費を稼ぐためのアルバイトに身を削って居るのだから、休養することだって大事であると。しかし大抵の場合、ハヤトは水曜日に遊びの予定を入れている。この日は同じく仕事が休みのバノッサと二人で競馬場へ行った。元々キールはハヤトがギャンブルに手を染めることに、あまりいい顔はしない。

 元々は仕事先の仲間からバノッサが教わって、それで小遣い程度の稼ぎを上げているという噂が発端である。「競馬って面白いの?」と訊いたハヤトに、「ああ」と、物事の何もかもがつまらないというような顔をしているバノッサにしては珍しくそんな返答をしたものだから、ハヤトとしても大いに興味をそそられ「じゃあ、連れてってよ」と散々強請り、大体一月に一度くらいのペースで小さな競馬場まで足を運んで、そして当然のように負けて帰ってくるということの繰り返しである。キールが推測するに、ハヤトには博打の才能がないのだ。勝負勘という点では卓抜したものがあるが、勘だけで金儲けが出来るような仕組みになっているはずがない。そもそも胴元が損をするような博打は存在しない訳で、つまりは第一に「損をしないこと」第二に「小銭を稼ぐこと」第三に「引き際を弁えること」が肝要なのだろうということは、博打に触れた事すらないキールにだって判る。恐らくバノッサがそこそこ稼げているのは、元々裏道に蹲るような生き方をしていた彼はその辺りのことをしっかりと判っているからだろうが、「バノッサに勝てて俺に勝てないはずがない!」などと根拠のない自信を纏ってこの日もハヤトは競馬場に突撃し、あえなく負けて、帰りの交通費までスッてしまった。

 然るに、ここで素直に「ごめん、使いすぎちゃった。帰れないよう」とキールに言わないのがハヤトのいけない点であるとキールは断じる。ハヤトはバノッサに交通費を借りて、そのままバノッサとカノンの家までついて行ったのだ。家に帰って競馬で損したことがキールに知れればきっと叱られる――「きっと」も何も当然の事なのだが――と思ったのかどうなのかは知らないが、「このまんまバノッサたちんとこ泊まってきていい?」というメールを受け取った時点でキールはハヤトが損をしたことを確信していた。

 その日、バノッサとハヤトが町田の古アパートに着いた時に、思い切りノブを引っ張ればそのままドアごと外れてしまうような玄関の前で、トウヤが煙草を吸いながら待っていた。「ソルが残業だって言うから、つまんなくて。競馬行ってたの? 僕も誘ってくれればよかったのに」

 其処にカノンが帰って来て、「じゃあ、みんなで晩御飯食べましょう」ということになって。ソルはソルでトウヤが其処に居ると知れば、スーツ姿で夜遅くに駆けつけて。

 ハヤトのこの日の朝食はなし。昼は競馬場で焼きそばと今川焼きを食べた。夜は、カノンが腕を振るって栄養バランスの整った食事を摂ったはずである。

 発症二日前。

 町田から一限目の授業に間に合うためには、朝は相当に早くなる。十分程度の遅刻でどうにか滑り込んで、教室では最後列で授業二コマたっぷりと寝た。それだけ長い時間眠れるほど、前夜は寝ていなかったということである。アルバイトは休みだったので、夕方には帰宅して、キールに「ごめん」と謝る。朝食はやはり抜き、昼は学食のラーメン、そして夕飯はキールの作った味噌汁と豚のしょうが焼き、それから納豆ご飯。やはり塩分摂取量が多く、野菜が少ない。

 実は、この辺りからハヤトは何となく身体が重たいような感じを覚えている。ただ、「ちょっと無理しちゃったからかなあ」程度の甘い考えで片付けていた。

 発症前日。

 ハヤトはなんとなく舌が痺れたような感覚に気付かない振りをしながら大学へ行き、講義を受け、アルバイトできっちり働いて帰って来た。帰ってくるときにはもう随分とだるさが募っていたのだが、おとといにきのうと、恋人に不義理なことをしてしまったという反省からか、夜、「なあ、一緒にシャワー浴びようぜ」とキールを誘った。

「疲れているんじゃないの?」

 ハヤトの顔色がこころなしか優れないように見えて、そう案じた恋人に強いて、結局ハヤトはキールと一緒に狭いユニットバスでシャワーを浴び、風呂上りは何も着ないままで絡まりあった。そして全て終わった後で、ぐったりと疲れ切って何も着ないまま眠りに就いてしまう。ハヤトがぐったりと疲れるほどだから、キールはもっともっと疲れている。当然、ハヤトが布団もかぶらずに全裸のまま眠ってしまったことに彼は気付けなかった。

 そして、発症。

 

 

 

 

「振り返ってみて、いくつか疑問点は無いかい?」

「……疑問……、は無いけど……、まあ、その……」

「最後のが極めて余計だったと僕は思うのだけど、どうだろう。ハヤトはそうは思わない?」

 キールの冷たい双眸に、寒気が走った。

「……だって、何か、ほら。……ねえ」

「なに」

「……そんな怖い顔すんなよ」

「怖い顔をさせているのはハヤト、君だよ」

 キールだってこんな顔をしていたくはないのだ。慣れぬ表情を形作っているものだから、さっきから頬が痛い。

「……結局、その、競馬行った日の夜は、あいつらと遊んだからさ。お前呼ばないで、しちゃったからさ。でもって、翌日はすぐ寝ちゃったし、……だから、お前に寂しい思いさせちゃって、その、申し訳ないなって」

「何がどう申し訳ないのだろうね」

「だから……、お前に、つまんない思いさせちゃったから……」

「何より僕が君に反省してもらいたいのは、体調を崩したことに関して。その原因が、例えば外で素ッ裸で寝たからだろうが、拾い食いをしたからだろうが、僕にとって大した意味は持たないよ。そもそも君が彼らと遊ぶことについて、僕は全面的に容認している。君がトウヤくんと、バノッサと、カノンと、ソルと、……信頼に足る相手と遊んで幸せになることについては、僕は心の底から祝福している。一度だって責めたことなんてないだろう」

 キールはハヤトが風邪に臥せったその日の内に、他の四人に確認を取った。

 その結果、どうやら風邪の一番の原因はトウヤにあったようだ。

 ハヤトがバノッサと競馬に行った日。昼間は良く晴れてぽかぽかと暖かかったのだが、夕方になって雲が多くなって、夜には少し雨も降った。慎重なトウヤにしては珍しく、一枚羽織るのを忘れて出てきていたせいで、その翌日に風邪を発症していたのだという。ただ、彼がハヤトのように重症化させずに済んだのは、言うまでも無く最初に異変に気付いた段階ですぐに布団と友達になったからだ。ソルに伝染さないよう、布団も放して寝て、念のために葛根湯を飲ませたと言う。

 ただ、トウヤの風邪にも潜伏期間は存在する。元々身体の丈夫なカノンは除外するとして、バノッサは風邪をひいていない。ソルは、多少はひいたのかもしれない――葛根湯の効き目もあったかもしれない――が少なくとも発症には至っていない。布団を並べて一晩過ごしてハヤトだけが風邪をひいたという事態から、キールはその夜を五人がどういう風に過ごしたのかということに容易に辿り着ける。ならばどうして僕も呼んでくれなかったのという気持ちになって少々物悲しくも在るのだがそれは脇に置くとして。

「……どうせ裸で寝たんでしょう。君はいつもそうだ」

 キールがそうすっぱりと断じて、ハヤトは渋々頷いた。恐らくカノンであったかと思うが、肩まで毛布をかけてくれたような気がする。それでも翌朝には顔だけ毛布の中で、尻が出ている状態だった。「見苦しいもん見せてンじゃねェ」とバノッサに尻を踏まれて起きたのだ。ハヤトは行為後に、いつまでも服を着ないという癖があった。それもまた、彼自身の「汗っかき」という体質によるものである。しばらくは裸で涼んでいたいという気持ちも、キールには判らないではなかったが。

「どうしてそう、君は色々なことが我慢できないのかな」

「……我慢すべきとこはしてんじゃん」

「例えば?」

「……しょんべんとか」

「それが我慢できなかったら大変だね、こんなところには居られない。逆に言えば君にはそれしか我慢できるものがないの? 人には色々な我慢を強いているのにね」

 ふん、とキールは不敵に笑った。

「いい機会だから、君にも少し我慢を知ってもらおうと思う。……向こう三日間、彼らの元へ行くのは禁止だ。そして僕も一切、君の身体の相手はしないよ。……もちろん、君の身体をしっかりと休ませて、回復をさせるという意図もある。ただ、それ以上に」

 ハヤトの顔色が変わるのを、キールは珍しいくらいにサディスティックな気持ちで眺めていた。普段はそんな意地悪など、思いついても口にはしない男だ。然るにいまは、脳がじんわりと熱い。浮揚感を伴って、どんな言葉でも平気で口に出来るようだった。怖い顔を持続することにも努力が要らない。

 何故って、

「さっきから僕も鼻がおかしい。肩から首の辺りが強張っている。恐らく君に伝染されたんだね。僕はこういうとき、自分の身体の弱さを自覚しているからすぐに布団に入る。そして体調が整うまで大人しくしている」

「え……、ちょっと、待って、待ってキール」

 待たない。キールは下着姿になると、独り寝のロフトへ梯子を上がって行って、途方に暮れたように見上げるハヤトを見下ろして、

「風邪をひいた恋人を心配するのがどれだけしんどいことか、久しぶりに君も味わうといいよ。三日間我慢出来たならご褒美をあげよう」

 其処まで言って、布団に滑り込むや、キールは眉間に手の甲を当てて「うう」と呻いた。風邪をひいていると自覚した時点でハヤトにこんな苦言を呈することを我慢するべきだったか。

 キールの風邪は、大体酷い頭痛から始まるのが常だった。熱も、もう上がってしまっている。世界が、ぐるぐるまわる。


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