どうすんだよもう、春になっちゃったよ。ハヤトは外の緑の景色を見つつ思う。
ホームタウンアワーホームスイートホーム、自転車で三回も漕いだら後は緩い下り坂で惰性に任せて着く場所のドーナツ屋はオヤツの無い休みの午後のソファ代わりになった。言葉を交わさなくても、ドーナツとコーヒーを載せたトレーを持って、なんだかいつも同じ席に向かい合って座るようになった。
例えばミルクを入れてしばらくの間、垣間見られるのが「カオス」らしいのだ。仮令同じ条件下でミルクを垂らしたとしても、一度として同じ模様は現れない不思議。しかし、現れて溜まるかとハヤトは思い、キールがコーヒーカップを見詰めるのを見詰める。瞬きの前と後とで比べたら間違いなくキールも老けていく。それは俺も同じことと、だから今この瞬間にもキールの目が自分を見ていないことを、慌てるほど勿体無く思うのだ。
容易に視線を離したくない。
不意にキールの目がふとカップから離れ、自分へ向けられた。
「何か……、ついているかい?」
そう言われて、ハヤトは咄嗟に目を離し、自分のコーヒーカップに視線を落とした。つまり数秒の間でもキールの顔を見ていないのであってその間にどんな顔をしているのかを知らない自分である訳だ。貪欲に求めることが悪いとは、少なくとも恋愛感情の介在する関係においては、少しも思わないから、すぐにまた目を戻した。そして、少し変わったのかな、少しくらいは違うのかな、そんなことを考えながら、とりあえずおしゃべりする事だって楽しいしと、自分の幼げな物思いを中断する。
「キール、砂糖使わないよな。でも甘いの嫌いじゃないんだろ?」
キールのトレイに乗っているのはとっても甘いフレンチクルーラー。本当かどうか、同時代人ではないハヤトは知らないが、エルヴィスが一日に五十個食って太ったと言う。昨日の土曜もそうだった、そう言えば先週の土曜もそうだったし。太ったキールと言うのはどうにも想像が出来ないが。
「コーヒーは苦い方が好きだね。……けれど、時々は砂糖入りで飲んでも良いかなって思う」
「深崎籐矢はブラックなんだ」
「そうだったね、深崎君は……。ソルは乳製品が嫌いだから砂糖だけしか入れなかった」
ああ、だからちっこいのか。そんな失礼なことをハヤトは一瞬思う。百六十代半ばの身長の自分であるものだから、まだ数度しか会ったことのないキールの弟に対して、そんな優越感を持っていることはキールには内緒だ。けれど。自分はソルとは違ってキールの弟じゃないし、ひょっとしたら俺ももっと痩せててちっこい方がキールに可愛がってもらえるかも。だいたい俺はどうしてもキールを困らせてしまうし。いや、いやいや。
無益な考えは案外スムーズに膨らむから、それを堪えてハヤトはコーヒーを飲んだ。砂糖にミルクを一つずつ、しっかり入れたこれが優しい味と、自分で信じているだけのこと。その分ドーナツはキールと違って甘さ控え目。自分とは違うキールが自分を好きというように、キールとは違う自分はキールを好きと言う。自分と違うから、それが好きな理由になる。きっと足して「1」以上になれると信じる分数のように、寂しい分子が求め合う、自分の形を変えてでも一つになりたがる。甘苦い考えに時間は意外と早く過ぎてしまう。だから、また改めてキールの顔をじっと見た。
「……お前さ」
キールは指についた砂糖の欠片を舐めて、ハヤトを見た。キールはハヤトの唇にドーナツの滓がついているのを見つけて、言おうかやめようか一瞬悩む。
「ソルとセックスしたんだろ?」
「はい?」
「正直に答えろよ?お前、前にさ、俺がセックスしたことあるのって聞いたとき、あるって答えたね。その相手はソルだった、合ってる?」
固まったキールの顔も、ハヤトは好きだと思う。カッコいいし、可愛いところもある。素っ気無い振りして本当はすごく優しいんだその目が主張している。
「怒らないよ。寧ろ、ソル以外の奴だったらショックだな俺は……、ソルなら、いい。ソル以外でも、まあ、怒らない、俺の知らないお前がいて当たり前だし、俺だってたまたま童貞であと処女だったけど、他にいたっておかしくない。十七歳ですから」
ずっと固まっていたキールの、まず目がきょときょと動き始めた。そして、気を落ち着けようとして手に持ったコーヒーカップまで震える。
「確かに」
声だけは冷静だ。ただ、声を冷静に保つ為に払われた意識が、他の場所に回っていない。
「……確かに、君の言う通りだよ、僕は……、ソルを、うん」
最近、キールのそういう部分に気付けるようになってきたハヤトだ。
「当時、……ひとりだった、ずっとひとりだった、僕に、一番近くに居てくれて、心の安らぎをくれたのが、あの子だったから」
困らせようと思えばいくらでもどんなことでも奏効するだろう。何のために自分がここに生きているのか、その理由をしっかりと判っているつもりのハヤトは、微笑んで見せた。
「別に構わないって。自己愛含めて言っちゃえば、お前が俺のことすごく好きでいてくれるの、判ってるから。それで幸せだからね」
キールは救われたように、頷いた。ありがとう、なんて、言ってくれなくていいよ。
「俺も、お前とセックスしたいんだけどな」
ハヤトは少し声のトーンを落した。店内の客は疎らとは言え、聞かれて気持ちのいい話ではないし、耳に入ったほうもリアクションに困るだろうから。
「……ソルとは、してたんだろ?」
「ハヤト……」
「嫌な言い方をしちゃえば……、卑怯だけどさ、しちゃおうと思えば、出来る。どうして?って。ソルと出来て俺と出来ないのはどうして、って」
こうしてまた、困らせた。
「もっと、ずっと、一緒にいたいって思うよ、俺は。知らないかもしれないけど、ガッコ行ってる間、授業受けてる間も部活やってる間もさ、お前のこと考えてるんだぞ俺は。それくらい好きで困ってるくらいだ。……平日の昼間ガッコの間は、どうしてもお前とは離れたままだ。でも、その分こういう時間とか、夜とかさ、一緒にベタベタしてる時に、何ていうか、貯金をして、それを平らに伸ばして我慢してる。でもさ、本当は、もっといっぱい、ベタベタしたいし、貯金だってすぐなくなるから、もっと濃いのが欲しい。そんでもって俺ら、恋人だったら、さ、セックスが一番、自然っていうか、理想形だと思うんだ」
ハヤトも正常な十七歳であるがゆえ、強い性欲を持っている。ハヤト自身の自覚としては、比較が自制心のしっかりしたキールしかいないものだから、「かなり、相当、強い性欲」を持っているつもりがある。キールが欲しくて欲しくて仕方ない。授業中とか考え始めると正直ちょっと危険人物。けれどこれほど思える相手がいて嬉しい。
「ソルが出来たんだろ?俺よりちっこいあいつが。だったら俺だって平気だよ」
興奮しつつある自分をコーヒーで諌めた。
「……焦らせたい訳じゃないけどさ」
最後の一口を頬張った。
「ただ、俺としては、今、限界までお前のこと好きで、でも先があるなら、もっとお前を愛したいし愛されたいと思う訳だ。……まあ、愛なんて、難しい言葉使ったけどさ、正直、そういう気持ちなんだ」
キールにそう言ってハヤトは言葉への反応を見る。青白い顔、この数秒で十歳くらい老けた。
「俺は、馬鹿だからかもしれないけど、考えてる時間とかもったいないって思っちゃうからさ。それこそ、美味しいものが皿に乗ってたら、一気に食べちゃいたい。具体的に、アレだって、さ、痛いばっかりじゃないって信じられる。いつか気持ちよくなれるんならその『いつか』を一日でも早くするために今日はじめたいって思う」
困らせてるなと自覚がある。
それでもやめられない理由がある。
一朝一夕では出来上がらない関係がある。
そして青春に欠かせぬ少年に根付いた性欲がある。
「参考までに言うと」
ハヤトはコーヒーをクッと飲み込み、立ち上がる。
「今日は十時過ぎまで二人だけだからな」
「どうして!?」
「母さんと父さん、今日が結婚記念日だ。フランス料理だとさ」
どうせならついでにと、ハヤトが思ったことをキールは口の中に入れて飲み込まんと試みる、大きな塊。『どうせなら俺たちにとっても記念日にして、同じように喜び合える日にしたらいい』……。即ち刻限が設定された。膝の笑うような思いをしながら、キールはようやく立ち上がった。まだ、二時。そう言えば初めてハヤトの裸に触れた夜も、こんな始まり方だった。
そして、時間稼ぎなど一番卑怯な、裏切りの行為だと判っている、重々理解している。
「だってさ……、どうすんだよ、もうすぐ一年経つ。もう、春になっちゃったよ。プレッシャーかけるわけじゃないし、お前に嫌われたくないけど、俺はもっとお前を愛したい、お前に愛されたい。そのための手段として考えたら『有り』だと思うんだよ、俺は」
自転車を斜めにエレベーターに載せる。
ちょっとくらい無理をしてでも、と思っている。それは、キールに無理を強いるのみならず、自分自身の肉体にも同じく。実際、「痛い」で済めばいいけれどと思っている。
部屋に戻って、居間のソファにちんまりと座ったキールはハヤトからするとあまり良い印象はない。できれば、というか、普通は――「俺が想像するには、男なら」――その性欲を果たすやり方を好んで選ぶだろう。自分にとっての「普通」を、恋しく思う相手に押し付けてはいけないとは思うものの、ハヤトは訝る。憂鬱そうですらある顔をして、テーブルの上のテレビのリモコンをじっと見つめている。
キールとしても、嬉しさがない訳ではない。
もう深夜に寝室を抜け出し、息を殺してトイレで擦る必要もないのだ。温かい布団で温かいまま、手を伸ばさなくとも喜びは腕の中に既に。
勇気のなさではないと、キールは思っている。「怖がる」のは、「臆病」と同義ではないと、恐らくは自己弁護を何割も含みつつ、考えるのだ。
身体の半分を持って行かれたような寂しさを、もう味わいたくはない。
あの日残った空に、キールは足を竦ませた。そこにはもう、どんなに喚いても欲しいと望んだ身体の現れることはないのだと、その事実に、まだ、正面から向かい合うだけの勇気が持てない。
やがて、俯けば涙が零れるからと、ただ、消えずに残った空だけを、キールは見上げた。これが一番リアルな終わり、収まるところ収まったんだ、だから、さ。
でも、でも、それでも、どうしても。
――僕の大好きな君がここにいない。それだけで僕は十分に不幸だ――
リモコンに目線を置いていながら、キールの目はリモコンを見てはいなかった。ただ、ハヤトを失ったあの瞬間の空の白さを見ていた。今息をしている東京都町田市以下略の公営住宅から見える空は呑気な青で、側にハヤトがいることは揺らぐことない事実ではあれど。
もし万に一つでも僕の手でハヤトを失うきっかけを作ってしまったら?
生きている自信があまりない、キールだ。
「きゃあ!」
「ビックリしたぁ……なんて声出してるんだ」
「な、なにを、なにをするんだ、いきなり」
「何って……、そんなに驚くなよ、いいじゃないか耳噛むくらい」
いいものか、……。
ぎゅう、とソファの後ろからハヤトはキールの首に纏わりつく。俺あんまり魅力ないかなやっぱり。ソルの方がキールは可愛いと思うのかな。いや確かに、ソルは可愛いっていうかカッコいいっていうか、ちっこいけどちっこいのが悪くなくなるような顔してるよな。最近少し、意識して自分の顔を鏡に映して見るようになったハヤトは思いながら、キールに頬を当てた。
でも俺は俺で変えられないものな、顔の形も声も背丈も。
「あんまり俺を変態にするなよな」
同じ匂いを良い匂いと意識するのは信愛の情のあらわれで、キールのセーターの肩を首筋を、ハヤトは嗅いで回る。まあ綺麗な黒髪で、同じシャンプーを使えばやはり同じ匂い。「するな」と言う割にキールを好きで変態になるのは、公にならなければ別に構わないと潔く思っているハヤトであって、キールの寝ていた布団に頭から突っ込んで腹いっぱい匂いを嗅いで何となく満足したりなど。十七歳が恋をしてマトモでいられるはずはないということくらい、十七歳のハヤトもよく知っている。
「俺が少しの恥ずかしさもなくってお前に『尻弄って』なんて言ってると思うなよ」
多少の嘘も、こういうケースには必要だと思う。ただ、またこれでキールは困るかなと、ハヤトは案じた。とりあえず手っ取り早く笑顔が見たかったから、わきの下に手を入れて、思い切り擽った。悲鳴に近い声を上げるキールを逃がさないでしっかり捕まえて、ちゃんと笑ったのを見てからようやく解放する。ハヤトからすれば、異様なほどスムーズに暗くなるキールだから、もっと「笑わせなければならない」と考える。そのためになら、多少強引でも、形から笑顔になれるやり方を探した方がいい、美味い言葉で微笑ませることが出来るような頭は持っていないとハヤトは自覚していたし、こっちのほうが自分らしいような気もしていた。
涙目のキールに圧し掛かって、その顔をじいっと覗き込んで、ああもう、いっそゴーカンしてやろうかなあ、無理矢理にキールのちんちん立たせて、入れちゃえばいいんだもの。……でも痛いだろうな、きっとキールも嫌がるだろうな。やるんだったらやっぱり、最初から最後まで、キールに優しくしてもらいたい。「大丈夫?」って震えた声で聞かれて、俺はちゃんと男らしく「大丈夫だよ」って安心させてやって、「お前の恋人はそんなにヤワじゃないよ」って教えてやるんだ、「お前のことこれからずっと護っていけるくらい、強いんだよ」って、ね。だから、無理なことはしない、出来ない。ただ、キスはやはりしたくて、唇を重ねた。
生まれてはじめてコンドームというものを買った。先週の話だ。貧血気味のキールを無理矢理引っ張って、大人びて見える彼にハヤトの小遣いを握らせてレジで買わせた。あれは虐めだったかもしれない。ただしある見方を採用すれば、そういう暴挙に走らせるだけ、ハヤトも欲求を飲み込めなくなってきているとも言える。周囲に左右されているつもりはないが、俄かにクラスメートで童貞を捨てた男の割合が高まっているように思うのだ。もちろん大っぴらにそういう話は聞かないし、ハヤト自身も対外的にキールを恋人とは言わない、だが、どうにもそんな気がしてならない。比較するのもされるのも嫌だが、嫌と言っても比較したがる奴はするもので、そういう奴から比較されるのは尚更嫌だから、だったら、「俺自身もしたい訳だし」キールとしたい、そういうやや乱暴な結論への持って行き方をするのも、ハヤトとしては認めて欲しい気がする。ただし、ハヤトがキールと抱き合ったところでそれは童貞喪失にはならないし、所謂「Bまで」を以って童貞喪失を自認する連中も何割かはいるはずなので、キールにはたいした拘束力を持ち得ない言い分ではある。ただキールにとってはハヤトだからこそ、真剣に悩むわけで。
そういう話も、ハヤトはキールにした。とにかく、「俺はお前とセックスがしたい」、その気持ちを全部ぶつけた。そして、どんな理由よりも一番真ん中に置いているのは、
「お前が、好きだ、からだ」
だと言い続けている。口でもいい、手でもいいだろう、結果は同じだから。しかし、その結果を「同じ」と言わないところに、ハヤトはキールといたいと思っている。
「ソルだって慣れたんだろ?俺よりずっと子供のときに。……なあ?いくつだったっけ」
「……十二歳、の、ときだよ」
「十二歳ったらお前……なぁ、俺十七だよ。身体だってソルより丈夫な自信ある。……ソル、気持ちいいって言ってたんだろ?俺、ソルに聞いたぞメールで。何なら今電話して聴いてもいいぞ」
「い、い、いいよ、やめてあげて、可哀想だから……」
「ソルがお前で気持ちよくなれて何で俺はダメなんだ」
ハヤトは段々、下らない我儘を言っているような気分になってくる。一歩間違えれば不愉快に変わりそうな感情が怖かった。だから、一旦言葉を切って、ぐ、と唾を飲み込んだ。
「……君がソルより強いことは知っているよ、君の、僕を好きでいてくれる気持ちも、何度も聞いたから、馬鹿じゃない、判ってるし、すごく嬉しいし、幸せだと思ってる。……そして、何より僕も、君のことは心から愛しく思っている……、愛しているよ、大好きだよ」
ただ、とキールは言葉を継ぐ。もういい、好きなら好きでしちゃってくれよとハヤトは苛立つ。
「ただ、ソルが十二歳のときには僕も十三で、お互い幼い身体をしていた。つまり、ソルの身体が脆弱であったとしても、僕を飲み込むことはさほど難儀ではなかった。……そして、何よりこれが重要なのだけれど、……ソルを抱けた頃ほど僕は馬鹿じゃない。もちろん、僕は幼さと勢いだけでソルを抱いたつもりはない、ソルのことが大好きで大切で仕方なくて、その気持ちを表す方法としてそういう形を取ったんだ。……今も僕が、あの時と同じ価値基準で行動することが出来るなら、僕は恐らく……、恐らく、喜んで……君を、抱いていたろうと思う。けれど……、けれど、僕は、正直に言えば怖い」
ああ、これはダメだ。ハヤトは溜め息を吐く。後ろ向きだな。もう……。
キールの何もかもが好きなつもりで、こういう部分は治らないかなと思う。治らなくとも自分がカバーしていけばいいといつも思っているくせに、自分の欲が絡むと途端に心は狭くなり、呆気なくつまらない気持ちになってしまう。
キール自身も後ろ向き名自分で嫌われる可能性があることは、よく判っている。だから、ハヤトの表情が明らかに曇った、その瞬間に、奮い立つような気持ちで言う。
「だから……、今すぐには、無理だけど……、あの、でもね、その、色々、プロセスっていうか……」
安易に出してはいけない結論だとキールは思っている。どうにか慎重に、怖がりながら、しかし、ハヤトの願いを少しでも叶えてあげられるようなやり方で。
「……風呂入ろ」
ハヤトは、キールの上から言った。その表情から雲が晴れたことを見て感じ、キールは盛大に溜め息を吐きたいのを、何とかして飲み込む。まだ日が高いよ、そんなことを言ってまたハヤトに失望させるのが、一番愚かだと思う。解るのは、自分のことを渾身の力と欲で求めるハヤトがそう簡単に側からいなくなることはないということくらい。そして、それは十分すぎるくらい。