ホワイトウィンド

 ハンスが帰ってきてから久しく身体のあちこちがだるくて、特にふくらはぎは寝ても寝ても、起きた途端に疲れているような状況、日中においても倦怠感が身体を多い、血の流れが滞っているような。ハンスにその事を話したら、おれなんて十年位前からそうだと、嘘をついているとは思えない顔をして言う。ひょっとしたら何かの病気なのだろうかと、一抹の不安を覚えたコーマックではあったが、十年間もその「病気」と付き合ってぴんぴんしていられる人が側にいて安心する。が、原因がよく判らないというのは不気味だ。

 心当たりの無いわけではない。ハンスが帰ってきた時期から、即ち、自分の睡眠時間が不規則になった時期と重なる。慢性的な睡眠不足が原因だとするならば、一応の説明は付こう、だが、二十代も入口の頃ならば、不摂生を多少くらいしたからといって、こうもはっきり判る形で変調が顕れ、また慢性化するということも無かった。

「おっさんになったってことだよ」

 ハンスは笑って言う。僅か一ヶ月しか誕生日の違わない相手にそう言われて少し困惑するけれど、こういう変化が重なって、気付いたときには本当におっさんになっているんだろうなとちょっと暗くなる。もう二十七。天文学的な数字が、今、矢鱈に現実味を帯びて目の前にある。

 ともあれ、しばらくの間その倦怠感を、加齢現象の一つとして憂鬱に納得していたコーマックだったが、その誤りをまさか十以上も年下のダレンから指摘されるとは思わなかった。

「そんな年じゃないだろ、コーマックもハンスも。それにハンスは昔からそうだって言うんだろ? だったら加齢現象なはず無いじゃない」

 ダレンはそう、得意な顔をして笑って言った。

「だって、そしたらさ、ここのところぼくだって似たような感じだよ、うん……そうだね、一年くらい前から」

「おまえ、その若さで……」

「っていうか、若いからなるもんだと思ってるよ」

 ダレンは悪戯っぽく笑って――微かだが、その微笑に大人びた陰影が生じ始めている――子供っぽく、言った。

「エブラとえっちするようになってから、かな」

 そして、ぽかんとしたコーマックを見て、またくすくす笑うのだ。

「まあ、冗談はさておき、……自律神経失調症とかじゃない?」

 具体的な行為内容はさておき呼び名は可愛らしくもある「えっち」のすぐ後に「自律神経失調症」だ、ダレンの言葉の緩急に泳がされ、コーマックは思わず聞き返した。

「だから、自律神経失調症だよ、病気って言うか……、まあ、寝ても寝ても疲れが取れなかったり、季節の変わり目に風邪ひいたりとかっていうのは、その可能性が高いんだってさ。ローヤルゼリー飲めばよくなっていくらしいけど、それ以前にやっぱり規則正しい生活が大事みたいだよ」

「はあ……、よく知ってるんだな」

「まあね。勉強した訳じゃないけど、判るんだよ、ぼくの中から生まれ来る奇跡のごときこの知識」

 頑張んなよ、といつも自分が言う科白を自分と同じイントネーションで言われるのは何とも居心地の悪いものだった。

 ローヤルゼリー、試してみようかな。

「やめとけやめとけそんなの」

 ひらひら手を振って、ハンスは背中を向けたまま煙草を吸う。

 煙草は吸うし、酒は飲むし、いないところでは薬もやっているのかも、それに、そもそも同性愛者。まじまじ見てみると、伸ばしっぱなしのぼさぼさ頭に、顎の下カビのように纏わりつく無精ヒゲが、不健康そうな顔に拍車をかけている。でも生えていても大好きな可愛い恋人、不摂生でいったらこの人も問題を抱えているのだけれど、平気な顔でそう言うのだ。

「でも……」

「高いだろ、金の無駄遣いする必要なんてねえ」

 己の健康状態に対しては、およそ無関心な姿勢を貫いている。しかしこの恋人、自分が風邪をひいたときに乱暴な心配の仕方をしたことを、コーマックは勿論忘れてはいない。

「しっかしまあ……、あのガキども、そんな病気みたいなざまになるほどやりあってるとはな。呆れたっていうか、何つうかまあ……、ガキだから出来るんだろうけどな」

 ハンスは言って、トレーラーの窓を開け、煙草に火を点けた。火をつけてから灰皿はどこだと低い声で言い、コーマックに差し出させる。

「ハンス、そろそろ髪切らないのか?」

 前髪をかきあげて煙草を吸う恋人に、コーマックは恐る恐る尋ねた。元はと言えば自分が「長くても似合っていればいい」、というようなことを言ったがために、相変わらず伸ばしつづけていることを知っているから、いまさら切れとは言いづらい。しかし、後ろこそ申し訳程度に結んでいるものの、前髪は目を塞ぐほどなだれかかっている。衛生的にも良くないし、視力も落ちてしまう。

「春になったら……、切るって言ってただろ? もう、そろそろ暑くなって来るんだし……」

 前髪をかきあげながらでなければ、前髪を焦がしてしまうかもしれないと危惧するから、前髪をかきあげて煙草を吸うわけである。ある程度の長さに止まっていた頃なら、どことなくワイルドで、ロック歌手のようにすら見えたわけだが、今では度を越して、恋人の手前見苦しいとは思わぬまでも、これからの季節に難儀さが伴うことは避けられまい。

「……ああ……」

 ハンスとしては、自分でもうざったいと思っている訳で、珍しく素直に言うならば、

「おまえがうざいって言うなら切るさ」

 ということになる。

「いや、うざくはないけどさ」

 じゃあ、切れねえじゃんかよ。紫煙を吐き出し、コーマックを視界の外に追いやった。煙に巻いたつもりで、煙に巻かれている自分だ。

 ハンストしても認めざるを得ないこの「恋人」は、自分のことを強く思うがあまりの臆病さゆえに、自分を悩ませるのだ。それを、嬉しいと思うべきか、疎ましいと思うべきか。愛されているのだという事実が不変であれば、嬉しくないはずが無い。それを素直に出せるかどうかは、また別の次元の問題であって、ハンスという男は、まるで子供のように素直でない行動をとることが往々にしてあるから、こういうときに要らぬ悩みを抱える羽目になる。「恋人」などではなかったら、どんなに楽か知れない。

 せっかく素直さを出したと思えば、優しすぎるコーマックによってそれは呆気なく無碍にされる。こう言うことの繰り返しでは今に素直さなど欠片も無い自分になるのではなかろうかと思ってしまう。自分だけが悪いのではない、コーマックも同量程に悪いのだと、納得してはいけない部分で納得してしまう。

 コーマックは、だるい足をクッションに乗せて、背中を壁にもたせて、自分の膝をじっと見詰めている。足にどろどろの血が溜まっているからだるいのではないかと考えるのだ。実際に寝るときにはクッションを潰してふくらはぎの下に敷いている。しかし、寝ているときにどういう動きをするかなど、責任は誰にも取れないもので、時折クッションの下に足が入り、血管を圧迫し、凄まじい痺れに目が醒めることがある。右足を中空に浮かして悶絶するコーマックを、寝起きの悪いハンスが叱り付け、涙目でコーマックが謝る、そんな午前七時がたまにあるのだ。

「うざいとは思わないけどもさ、目に悪いと思うんだ」

 コーマックは顔を上げて、煙草を吸い終わった恋人のくたびれた顔を見た。

「要するにおまえは、切れって言ってるんだろ」

「……何もそういう訳じゃない」

「じゃあ、切らねえ」

「ハンス」

「おまえが『うざいから切れ』っつったら、切るよ」

 困らせることが、趣味ではないといえばそれは、大嘘になる。コーマックを困らせることは大好きだ。楽しい。大の男が、自分のような無価値な男相手に、本気で困惑する様を見るのは爽快だ。

 今だって、ハンスは最大限に自分の立場を落としている、選択権を全面的にコーマックの手へ委譲しているのだ。コーマックの好きにすればいい、それを、何故そう戸惑う? 無論ハンスは、恋人の困る顔が見たくて、どうすれば恋人が困惑するか、そこまで判った上で言うのだ。

 コーマックという男は馬鹿ではない、ハンスはそう思っている。自分と違って乱暴ではない、気に食わぬことがあったら毅然とした態度で、一瀉千里に論理を連ね言い負かすだけの言語能力も持っている。しかし、こう言うときにはまるで馬鹿だ、大馬鹿だ。強いコーマックだって、好きだ、格好良い、そう思うのに、自分に対しては少しもそういう態度を見せない。一方的にハンスを高いところにおいて、崇拝している。無論、崇拝される側として、悪い気はしないのだが。

 辛うじてバランスをとっているのが、どうしたってコーマックの方が立場が上になりがちのセックスの場ということになるのだ。だから、ハンスは自分の尻の穴の痛い思いをしても、それは不快だとは思わない、もっと痛くてもいいくらいだとも思う。

「……う、うざ」

「何だよ」

「……うううざいから切れよ」

「……ああ?」

「なんでもない……」

 こんな風な態度に出る自分が悪いのか、それとも臆病すぎるコーマックが悪いのか、多分、いや、間違いなく両方だろう。

「……セックスするから、おまえ、疲れるのかな」

 ハンスは唐突にそう言った。

「え?」

「おれは昔からずっとダルイの変わらないから、最近もそう変わったとも思わないけどさ、もしおまえがおれとセックスするようになってから疲れるようになったって言うんなら、やめてもいいんだぜおれは」

 コーマックの顔から、すっと血の気が引いた。そして、またすぐ赤くなって、

「そんなことない、おれはだるくなんかない、平気だ」

「でも、何だっけ、自律神経失調症? それっぽいんだろ、身体壊したら何にもならねえだろうがよ。実際不健康なことやってるわけだしさ、……セックスレスっていうのか、それでもいいんじゃないか?」

「そ、そんな……」

「だって、おまえだってダルイのはイヤだろ?」

「……、イヤじゃない、おれ、だるいの全然イヤじゃない、平気だよ、大丈夫だから」

 変な言葉。

 ハンスはくっくっくっと笑いそうになるのをどうにかする努力を強いられるわけで、それはまた快くはない。どうしてこの男と付き合っているんだろう、どうしてこんなことが幸福なんだろう、自分でもわからないこの答えを探して、いつも見つからないとき、おまえのせいだなどと責任転嫁してしまう。こんな自分って、どうだろう?

 みっともなくとも、一人の男に好かれているならそれ以上は望むまいと思えることが、最高に幸せだということを解ってはいるのだ。


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