ダレンはどんどん弱っている。本人はそうまで衰弱していることに自覚はないようだが、少なくとも日長共にいるエブラ=フォンには、それが分かっていた。ダレンの顔色は、初めて会ったときよりも数段、純白に近づきつつある。
それでもダレンは、サム=グレストがくれば一緒に遊びにも付き合うし、仕事をサボったりする事も無い。エブラは出会って数日で理解したが、この新しい友達の心根は非常に真面目で、信念があるのだ。見ていて爽快さすら感じる。但しこの場合、ダレンの持つ信念の一つが、彼の顔を青白くしているのには違いなかった。
しかし自分の口の出す問題では、ない。エブラはエブラなりに、このサーカスに在る者として、そこから先は自分の踏み入るべき領域ではないと言うことを理解していた。それに、聞けば相当頑固に拒んでいるらしい友達に、無理矢理に人血を飲めと強要して、万が一にでも嫌われてしまうようなトラジディはごめん被りたい。
こんな考え方は間違っているのかもしれないけれど。
エブラは考えながら、手を握ったまま指をむずむずと動かした。ぼんやりと中空を、その細い目で、見るともなく見ながら。緩めた緑の手のひらからは、ぼろぼろとうろこが床に零れ落ちた。それを何度か繰り返しながら、罪深きこと、と顔をしかめた。
ダレンはせっかく出来た新しい友達だ。おれの大事な友達だ。ダレン=シャンと、あとサムも入れて三人で、しゃべったり、どこかへ行ったり、いろいろなものを見たりするのはとても楽しい。
大体からして、ダレンはとても良い子だ。おれよりも年下だけど、それを変に気にしたりしないし、おれの、このヘビの身体を怖がったり嫌がったりもしない。優しい、とても良い子だ。せっかく出来た、おれの友達。友達はおれの、宝物だ。なくしたりなんか、ぜったいにしたくない。
エブラは思い切ってラーテン=クレプスリーに、早くダレンに血を飲ませてやってと依願しにいったこともある。クレプスリーは妙にいらいらしていて、エブラの覚悟を決めた依願に対して、
「我が輩もそのことは分かっとる」
と答えただけだった。
きっとミスター・クレプスリーの方でもいろいろと策は尽くしてくれているのだろう、エブラはそう思い、またダレンのことが心配になったのだ。大切な、せっかくできたおれの、友だち。
元気の無いヘビの横顔に目線を移して、ふと、あらぬことを考えた。
いや……。
一瞬、このヘビとダレンと、二者択一式にどちらか一方の命しか助からないとしたら。そんな事を考えてしまったのだ。エブラは胸が苦しくなって、頭を振って季緑色の長い髪をばさばさ言わせて、立ち上がった。どうかしてる、テントを出て、新しい空気を吸おう。
いけない、と思う。なにを考えてるんだ、と思う。大股で、ダレンのことを考えて俯くと涙が出そうになるから上を向いて、ずんずんあるいて、だけど頭の中に浮んだいろいろの考えを追い払おうとしているうちに、北極星も二つになり三つになり、揺れ動いた。
「痛て……」
暗がりで足元を碌に見ないでいたから、彼の丈夫な裸足を唯一傷つける、ガラスの破片の存在に気付かなかった。左の足の裏に鋭い痛みが走った。
まさに踏んだり蹴ったり。エブラは情けなくて、せめて涙は零すまいと、ざらざらの手の甲でまぶたを押さえ、その場に座り込んで足の裏を見た。月光の下で、ガラス辺はぎらりと危険な艶を放って、足の裏に突き刺さっている。指で摘んで引き抜くと、毒々しい色の血が溢れてきた。試しにと、立ち上がって歩いてみると、まっすぐ歩けない程ではないが、鈍痛が影と一緒についてくる。明日以降の舞台が出ないだろうか。……ダレンのこと、ヘビのこと、悪いことがよってたかって自分にまとわりついているような、嫌な気分になってしまう。
しかし、ダレンの問題と比べれば、自分の怪我など大した問題でもない。こんな傷は洗って綺麗にしておけばいい。エブラは片足だけで跳ねて、足を清めるために水飲み場へ向かった。
「最悪だ」
口に出してそう呟きながら、ダレンはむしゃくしゃする気分を少しでも何とかしたくて、テントから外に出た。夜風がひやりと肌を刺したが、クレプスリーの取った一連の行動に向かっ腹が立っていたせいで、すぐには身体も冷えなかった。
人の寝込みを襲って血を飲まそうとするなんて! それだけじゃない、サムをフリークに入れる条件に、彼までバンパイアにするだなんて!
クレプスリーに対してのダレンの心は、少しの好意を抱いたかと思えば、他でもないクレプスリー自身の行動によって憎悪に転じてしまう。クレプスリーの行動の殆どが、ダレンの心身を案じてのことなのだが、ダレンの信念がそれをクレプスリーの優しさとは受け止められない障害になっているのだ。頭がカッカしてしょうがない。特に、一度は収まりかけていた血の件に対しての怒りだ。サムの件が呼び水になって、ダレンの中では腹立ちを持続させる原因となっていた。
こんな気分で眠れるはずが無い。
水でも飲んで頭を冷やせば、少しは楽になるかもしれない。大体、本来ならもっと寝続けていなければいけない事くらい分かっている。血を入れていないのだから、身体がしんどい。明日からのために、少しでも体をいたわってやらなくてはいけないのだ。それなのに。
クレプスリーのせいだ。
ぷりぷりしながら水飲み場に着いて、ダレンは思わずぎゃっと声を上げそうになった。誰もいないものと信じ込んでいたから、傍らの茂みがガサガサ揺れて、突如として人影が出てきたのには腰を抜かすほどに驚いた。一瞬、ウルフマンが檻から抜け出してしまったのかと思ったのだ。
「ダレン!」
「……エブラ? ……エブラ!? な、何してるの、こんな時間に」
「いや……。ダレンの方こそ、何してるの」
「ぼくは……、その、喉が渇いて。水飲みに来たんだ」
エブラに、サムと血の件は言いたくなくて、ダレンは適当に取り繕った。
「水飲むのもいいけど、寝る前にはちゃんとトイレに行っておけよ」
「なんだよ。子供じゃないんだし、オネショなんかしないよ」
「ならいいんだけどさ」
エブラは、からかいながら相手の顔色を観察した。月の光の下であるためか、一層青白く、氷のように見えて、まるで死人みたいで、ぞっとした。ダレンの命が、いまにも消えてしまうように思って、縁起でもないとすぐに打ち消した。
「それで? エブラは何してたの?」
「おれ? おれは小便だよ。そこのやぶで」
「ああそう。何だ」
「ちなみに教えといてあげるけど、おれみたいなねばねばのヘビもどきでも、排泄はおまえとと一緒にするんだよ」
「……ごめんよ、あのとき」
『だまれよ、ねばねばのヘビもどき!』エブラにからかわれて、つい口にしてしまった暴言だ。
「怒ってる?」
白い顔色が一段と白くなったように見えて、エブラは慌てて首を横に振った。余計なことを言って気にさせてしまったことを、酷く後悔した。「いいや。語呂がいいから、使ってみたくなっただけだ。それより、あんまり長くここにいると風邪ひくよ。おれももう戻ろうと思ってた所だったんだけど。水飲むなら飲むで」
「うん……。いや、あその、寝付かれなくて、頭を冷そうと思ったのもあったんだ。そのついでに散歩もしようかなって」
「うーん……」
エブラは大袈裟にならないように、頬をかきながら、
「止めといた方が賢明だと思うな。疲れてるんだろう? その上風邪ひいたりしちゃったら大変だよ? ……もし一人で寝付かれないんなら」
ここでエブラは、楽しい提案、と言うように明るく笑って、言った。
「おれのテントにおいでよ。話し相手になってあげる。そのうち眠くなったら戻ればいい」
「……いいの? ヘビが病気なんだろ?」
「大声出さなきゃ大丈夫」
「ほんと?」
ダレンは両手でひとすくい、水を口に入れて、エブラのテントに向かって一歩二歩と歩き出した。が、すぐにエブラの歩くスピードが妙に遅いことに気付き、振り返ると、エブラは右足だけで飛び跳ねてついてくるのだ。ダレンは、慌ててエブラに肩を貸した。
「どうしたのエブラ、けがしたの?」
「ああ、うん。ちょっと。大丈夫だよ、ひとりでも歩ける」
「でも……」
「いいってば。なんだか照れくさいよ」
「何言ってるんだよ。……左足? けがしたの……」
結局、逆の立場でしかるべき名の似、エブラはダレンにかいがいしく肩を貸してもらう。ゆっくりテントに向かう間、エブラは理由もなく、……もとい、正確にはやや、あるのだが、頬を赤らめつつも、どうにかしてこんな風に、友だちとあり続けられますようにと、内心で祈らずにはいられなかった。「ガラスで、ちょっとね。……ほら、ラムス=ツーベリースの芸に使う奴だよ。あれが落っこってたのを踏んじゃったんだ」
「痛くない?」
テントの床にエブラを座らせて、ダレンは何か包帯になるようなものはと見回した。しかし薄暗い室内に、それらしきものは見当たらなかった。
「血、出てる……?」
「みたいだな。ちょっと……、いや、……うーん、けっこう出てるかも。手がぬるぬるして来た」
「それは最初からだろ」
「違うって」
冗談に笑い顔になるが、二種類の痛みですぐにエブラは表情が消えそうになった。
「水飲み場にいたのは、足を洗うためだったんだね?」
ダレンの問いに、肯いた。
「うん、当たり。ついでに小便しようとおもったらさ、片足だけだとやりづらいの何の。だから立ち木に手ついて支えて、もう片方でズボンのチャック下ろして中から出してさ。途中で転びそうになったよ」
「転んじゃえばよかったのに」
「そんなへまはしないよ。……まあ、ガラスで足切る時点で十分へまか。……いてて」
血は、それほど勢いがあるわけでもなかったが、手で押さえていてもじわじわと滲んでくる。思ったよりも深いのかもしれない。
本当に明日の舞台、大丈夫だろうか。明日、サムが見に来るわけではないけれど、だからといって手抜きをするのは嫌だ。
「まだ血、止まらない?」
心配そうに覗き込むダレンの顔を、見るとどうしても、表情は深刻になってしまう。これ以上無いくらい顔色は悪い。冬の月のような不健康な色をしている。本人の自覚以上に衰弱しているらしいことは確かだった。
おれの、大切な友だちの、ダレン。
エブラはまた、胸が苦しくなった。
トラスカがダレンに服を送ったことをからかったけれど、本当は悔しい気持ちもあった。ダレンに向けてではない、トラスカに向けてだ。自分が新しい服を、どうにかしてダレンにプレゼントしたら、ダレンは自分に恋をしてくれただろうか。いや、もちろんダレンが本気で、服一そろいくらいでトラスカに惚れたとは思わない。けれど、ムキになっていたのは少しさみしい。笑い飛ばしてくれた方がましだった。
そこまで考えて、エブラは自分が何を考えているのか計れなくなった。ダレンは友だちだ、トラスカを好きになろうが……。
そうだ、からかってやるんだ。万に一つでもダレンがトラスカのことを本気です気になったりしたのなら、散々からかって祝福してやろう。
でも、そうだ、そのためには、友だちがずっと、生きていてくれますように。
「エブラ?」
「ダレン、あのさ、おまえ、おれの」
「えっ?」
「おれの血、飲まないか?」
ダレンは一瞬呆気に取られて、それから少しの間、声を潜めて大笑いした。
「冗談だろ? いやだよ足の裏から出た血なんて」
その笑顔が、何となくやけっぱちな明るさに縁取られているみたいで、エブラはつられて苦笑しながら、泣きそうになった。
おれの血だって、一応は人間の血だから……。
ダレン。
「足の裏吸うのは嫌だ」
「洗ったんだぞ」
「知ってるよ。でもやっぱりやだよ。でも、その代わりにね」
不意にダレンが屈み混んで、エブラの膝に手を置いた。ぎょっとして危うく声を上げかけた、最初の衝動は堪えたが、直後の第二波を回避する術はエブラにはなかった。
「わあ」
飛び上がらんばかりに驚いて、しかしギリギリの所で時間も遅いしヘビの具合も悪いと思い至って、派手なリアクションを取ることだけは避けられた。しかし、どっ、どっ、どっ、心臓のスピードに意識がまるで置いて行かれている。
ダレン、ダレン、……、何してるの?
口の中が干上がる、反面、体表の粘膜が滴りそうになる。
ダレン……、おれの、脇腹、舐め……?
「ダレン……?」
「どうって事はないね」
エブラの下腹部に顔を埋めていたダレンが唇をぺろりと舐めながら身を起こした。
「おまえ、いま、……」
「エブラの足の裏とか鼻の中とかは舐めたくないけど……、でもやっぱり鼻の中がどんな味するのか、正直ちょっと気になってたんだ。エブラがお腹の味と一緒って言ってたの、ちょっと思い出して。……ひょっとして、いやだった?」
「いや、いや……、別に、いやってことはないけど」
「なら、よかった。……もっと刺激的な味がするのかと思ってたら、ちょっと酸っぱくて苦いくらいなんだね。あんまり珍しい味でもないや。……血は止まった?」
足の傷のことなど、頭から完全に剥落していたエブラは、はっとして足の裏を見た。血の勢いはほとんど止まり、心なしか痛みも遠のいていた。
「も、もう、大丈夫みたいだ。……、ありがとうダレン。心配かけたね」
「別に心配なんかしてないよ」
「そう……、そうだよな」
頭の中に、口の中に、甘酸っぱい蜜りんごの味が広がっている。それを嚥下して、エブラはやっと言った。
「ダレン、おれはもう大丈夫だよ。頭も少し冷えてきただろ?」
「うん」
「じゃあさ、もうだいぶ遅くなってきたから、そろそろ寝た方がいい。疲れてるだろ?」
エブラの提案を、ダレンは素直に受け入れた。ダレン自身も、疲れがどっと身体にのし寄せてくるようで、欠伸が出そうになっていた所だったのだ。ダレンは立ち上がり、エブラにお大事にねと笑った。エブラは心の中で「こっちの科白だ」と呟きつつも、
「オネショするなよ」
と、ようやく落ち着いた心で、そう言ってやった。
ひとりになり、エブラはまた、ダレンのことを考えはじめていた。元気ならば、上手にからかったら飛び掛かってくる所だろうに。やはり疲れがヒドイのだろう。今はまだ、ああやって普通に歩いていられるようだが、あの状態もいつまでも続くはずもない。人血を飲まないことには、遅かれ早かれ。
足の裏、という場所が運悪かったか、そんなことを考える。手のひらとか、それこそ脇腹だったりしたら、……そう、転んで偶然切ってしまった、ということなら、ダレンはおれの血を飲んでくれるかもしれない。まともな形はしていないけれど、やっぱりおれも人間だし、ある程度は……、少なくともそこらの獣の血よりかは効果があるに違いない。
……そうだ、もし本当に、切羽詰まって、ダレンが危ないようなことになったら、その時には本当に自分の血を飲ませよう。自分で自分の身体を傷つけてでも、ダレンを生き延びさせたい。おれの、……大切な、友だちのダレン。
おまえを守りたい。
エブラはごろりと横になって、自分の脇腹を触ってみた。ぬるりとするそこに、さっき、……まだ信じきれないが、ダレンの舌があって、舐めていた。あれには度肝を抜かれた。思い出すと、心臓が慌てはじめる。……ミスター・タイニーの一件で、思い切ったことをする子だとは思っていたけれど、いやはやあそこまでの行動を取るとは、さすがに予測していなかった。
……でも、やっぱりいい奴だ。俺の肌を、不味いなんて言わなかったし、嫌悪感なく、単純ないたずら心だけで舐めてくれるなんて。
足の痛みが消えて、エブラは暗い天井を見続けるのにも飽きて、細い目を閉じた。大切な友達、ダレンを失わないで済むための覚悟を決めながら、夢の尻尾を追いはじめた。
翌朝早く、まだ他の誰もが目覚めるよりも早く、エブラは置きだして、きょろきょろ周りを見回しながらテントを抜け出し、水飲み場に向かっていた。昨夜の傷は幸い、既に塞がっていて、歩くのに支障は来たさない。それはよかった、が。
エブラはもう一度、周りに誰もいないのを確認して、ズボンとパンツを一緒に降ろした。
「あーあ……、べとべと」
いままでこんなことはなかったのになあ……。
情けない気持ちになりながら、手早く水で洗い落として、肌の上から直接ズボンを穿いた。下着は硬く絞って、布団の中で乾かすことにした。コーマックに見られたら何といわれるかわかったものじゃない。「久しぶりじゃん、なあ?」って笑われるに決まってる。こそこそと部屋に戻り、布団を頭から被った。
「まったく……。何でかなあ……」
エブラはしきりに首を捻り、無意識のうちに脇腹を撫ぜていた。