死ぬまで私を殴りなさい

 被虐趣味と言うのか、どうやらマゾヒストらしい恋人を持ってみて、ハンスは負担を感じることの多さを、疎みはしないが、意外だと言う気もする。虐められたいという欲をコーマックが本当に持っているかどうかは置いておいて、やはり自分が虐めるのは向いているとは思うし、これまでそうやってきたのだからこれからもそうやって行く積りで、今日もとても険悪な恋人同士に見える自分たちを確認しつつ、コーマックの耳を引っ張ったりする。

 四捨五入、すればとうに三十。こんな子供のような互いでいいのかと、一抹の不安もないわけではない。マゾヒストの側に自分がいて、自分がマゾヒストではないからと言って、我々の関係が攻めと受けで在り続けなければならない理由もないと、理解していないわけでもない。いつまでも雄々しく今後も宿っていることが容易に想像出来る性欲と同じ、若さへの愛惜の念の発露か。

「ハンス、あのさ、……ええと、コーヒー、飲む?」

 自分よりも上背のある相手が、自分を上目遣いで見る。それは優越感が伴って在る。しかし本当に恋人だろうか。

 ハンスは煙草を吸って吐いて、「いらない」。

「……いちいち訊きに来んな……、うざったいなお前」

 あからさまに、ひどく傷ついた顔を見せる。

 素直な心、優しい心、手のひらの中に収めて観察するのは、自分にだけ許された楽しみと、誇りに思う気持ちのある半面、そんな自分でしかいられない切なさも同居する。相反する感情の入り混じりが苛立ちを呼んで、結局また、言葉を辛くしてその耳に捩じ込む。

「一緒に……、飲んだら、楽しいかなって、そう、思っただけだよ」

 訳の判らないふりをして、聞き流す。こう言う時、素直に笑えたならどうだったろう。しかしそんな自分でコーマックは嬉しいのかなとも思う。朧げに覚えている、はじめおれたちは対等な友だち同士だった。

ずるずるとこういう関係になって、ハンスの気は強く、コーマックは抱えた幾つもの悩み及びコンプレックスがあった、それだけの理由で、今の如き主従関係。ただ作用反作用、力学の対等性を考えた時には、自分ばかりがワガママを聞かせている訳でもないとハンスは思うのだ。

 例えば自分の立場はコーマックによって与えられているのかもしれないとも言える。この身体を蹂躙させることを許すから、その代わりにコーマックの心を奪い取り、自由に扱う権限を手にする。コーマックが感じる肉体的快楽は確かなもので、一方で自分が本当に精神的愉楽に浸っているかと言えば、懐疑的にならざるを得ない。

 あるいは、実感する精神的な立場関係とは裏腹に、自分はコーマックに命じられているのかもしれないと思ったりもする。『死ぬまで私を殴りなさい』、殴られることを快感と捉える人間ならば、権限を得て命令するときには当にそれを択ぶのではないか。自分か相手か、どちらかが死ぬまで、永遠に虐めつづけられることこそ、望むのではないか。

 無論、推測に過ぎない。ただそう勘繰りたくなるほど、コーマックはハンスに上手に虐められる。そう、考えてみれば、果たして自分はサディストだったのだろうかと。肉体的に虐げられるのは自分なのだから、自分こそマゾヒストなのではないか。つまりサディスティックな性向のマゾヒストを前に、マゾヒスティックにサディストたらしめられているのではないかと、そんな気さえしてくる。つまりコーマックを虐めるに使う気力と身体の中を蹂躙される体力の両方を消費している訳で、丸損かもしれない、と。もっとも、肉体的な立場を逆転させ、コーマックに入れようとは思わない。それでは本当に虐待になってしまう気もするし、何よりもハンスはコーマックに入れられるのは嫌いではない。

 安易に択べるのはただ一つ、自分が優しくなることだ。仮に要請されて虐めているのなら、その要請を断った段階で、面倒な考えをしなくてもすむようになる。

 だから、その日の夕飯を終えた後、ハンスは自分のために沸かした湯を、半分使って、コーマックにコーヒーを入れた。豆はインスタントでも、注ぐ前のカップに湯を入れる気遣いまで発揮する。揃いの、と言ってもプラスチックのカップにコーヒーをなみなみと注ぎ、味の好みにも合うようにと、砂糖一つとミルクを少々。何も言わずに持っていき、灰皿を前に煙草をどこへやったかとあちこちのポケットをまさぐっている男の前に置いてやる。

 まず彼は、自分の視界の中に入ったカップに、瞬間、気付かなかった。然る後、目の前に置かれたものが何なのかを、掴み取ろうとする。それが湯気を立てたコーヒーであることに気付き、目を丸くし、何故それが何の前触れもなく自分の前に置かれたのかが気になって仕方がなくなり、置いたのが他ならぬハンスであると判れば、急に落ち着かない気持ちになる。コーマックの脳裏には、

「夫が何の訳も無く妻にプレゼントをするときには、何かの訳がある」

 という冗句が過った。コーマックにとってハンスはもちろん夫でも妻でもなく、強いて言えば「主人」であるが、そんな相手がどういった思い付きによってか、自分にコーヒーを持って来た。

 しかも、既に砂糖とミルクは入っている様子だ。

 動揺するのは当然だ。

 恐る恐るハンスを盗み見る。ハンスはコーマックのほうを見もせず、自分の分のコーヒーを啜り、煙草を吸い始めた。

「要らなかった?」

「え……?」

「コーヒー、要らなかったか?」

 一瞬の空白を挿んで、コーマックはぶるぶると首を横に振った。そして、慌ててカップを掴む。

 下剤なんて入ってないよな。

 覗き込んだ液体は黙して語らず、ハンスは別段興味のなさそうなふりで、昼間どこかで買って来たらしい雑誌を覗き込んでいる。

 一思いに口を付けて飲んだ。熱くて、涙が滲む。噴出さないだけマシだったろう。

 ひどく落ち着かない気持ちになる。「何故」と、聞きたいし、知りたい。ただ、まず言うべきは、

「ええとあの、その、ね、ありがとう、ね、ハンス」

 振り向かずに頷き、雑誌の頁を捲る。女の裸も載っているような中低流の雑誌で、ハンスは面白くもなさそうな目でそういう頁にも目を通していく。

 「ありがとう」と言われて、ハンスは何ともぎこちない気持ちになる。それは優しさに対する当然のリアクションかもしれない。それが穏やかな幸せの形だとすれば、自分はそれに慣れるべきだ。ただその一方、こんな生甘い感触もどうなのかと、問いたい気持ちもある。

 それは慣れていくべきものなのか。虐めるのに伴う苛立ちとどちらが楽か。

「ないんだろ」

 探している途中で飲み始めてしまったから、当然まだ煙草を見つけられていないコーマックに、ハンスはソフトパックとライターを放った。

「え、あ、え?」

 ごくみっともない部類に入る動き、吸い口を逆に吸い始めてもおかしくないような恋人が、それでも自分の恋人には違いない。優しく、気の強くない男、だからこそ愛しいと、思わないはずがないのに、ハンスの密やかな悩みは全てその男の心の問題に端を発する。

「あ、ありがとう、ありがとう」

 震えていないだけいいような声だ。

 裸と裸でぶつかり合う、殊、男同士でその関係に在るなら、過剰な優しさは厄介なだけかもしれないと、ハンスは思い始める。しかし優しい分だけ、この男に安心感を抱いているのもまた、事実なのだ。

 実際、行為が始まってしまえば、その優しさはどれだけ掛け替えの無いものか。

 「痛くない……? ムリならムリって言っていいんだ、おれは……」、声を震わせてそう言う時、コーマックは本当に自分の快感よりもハンスを優先しようとする。そんなことはプライドが許さないし、ムリとは思わないから「ムリ」と言わないハンスだが、逃れようと思えばいつでも扉は開かれていると思えるのは間違いの無い余裕に繋がるのだ。大切にされていると言っていい。とても、愛されていると思っていい。

 そんなことを考えているハンスの横顔を、ちらりちらり、コーマックは盗み見る。茶色の髪がまた伸びた。けれど、髭は今朝剃ったばかりで、決して優しい顔はしていないが、それでも自分にはやっぱり、可愛らしい男の顔。いつもカリカリと怒っていて、苛立っていて、こんな優しさを見せてくれたことなど、今まで何度あったろう? いや、あるにはあったろうけれど、しかめっ面の印象が強すぎて、記憶が掘り返せない。

 ハンスが聞けば怒るだろう。しかし、コーマックはハンスを「優しい人間」と思っている。それを表出するかしないか。ハンスは決してしない。したとしても、安易な形ではしない。それでも、ずっと自分の側にいてくれる。優しくないはずがないではないか。

 だから、側にいてさえくれればいい。それ以外にどんなことをしてくれても構わない。「うざったい」という理由で蹴られたりしても、コーマックは何の文句も無い。そんな風に思っているハンスが、「優しい」、それは、大いなる困惑の淵にコーマックを追いやるのだ。失礼な言い方を択べば、「何を企んでいるのか」。

 思っているだけで、なぜか、涙が浮かんでくるようだ。もちろん二十代後半の男はそんな理由で泣いたりはしない。ただ、腹の底は空虚になり、怖い気がしてならないのだ。

「……ハンス、なあ、ハンス」

 勇を鼓して、コーマックは尋ねた。ハンスは煙草を咥えたまま振り向く。

「あ、あの、さ、あのさ、あのね、おれ、あの、何か、悪いこと、した?」

「……ああ?」

「だっ、だって、変だよ、ハンスこんな優しいなんて……、変だよ」

 ハンスは煙草を指に挿んで煙を吐き出して、思い切り凶悪に唇を歪めて、

「……もう一回言ってみるか?」

 上手だな、とハンスはしみじみ思う、この男は本当に上手だ。だから望み通りにコーマックの頭を引っ叩いた。「死ぬまで私を殴りなさい」、おれは命令に従うのみ。いつまでだって、任せてくれ、殴りつづけてあげよう。この手の動かなくなるまで、ね。


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