ラーバウェイブ

 立つ姿はだらしなく、何となくどことなく、両足で立っていながら右足にしか重心をかけていない。目つきはぼんやりと曇っていて、顎にはつまらなそうな顔をより一層つまらなそうに見せる無精髭。その口元にかすかな隙間が空いて、煙が溢れ出る。

 その男と目が合えば間違えなく喧嘩を売られていると勘違いしてしまうような険のある視線。辛うじてフリークの中にいる者たちだけはその視線の意味するところが決して敵意ではないということを理解しているから、ひとまずひとつ、頷くけれど、やはりぶっきらぼうでとっつき難い。

 ひとたび笑顔になると、しかしその笑顔は希薄なものだ。この男は元来、親しい相手に対してほど笑わない。距離が近ければお愛想を振りまく必要も無いと怠けることに決めている。一番側にいる人間に対しては、怒ってばかりいる。人の良さそうな笑顔を形作ることも出来る表情筋は殆ど活躍の機会を与えられないまま、次第に退化していくのだ。

 煙草を、器用な指で弾き飛ばした。

 彼の芸は手を使う。ゆえに、彼の手の力は強く、また同時にすこぶる器用である。マッチを片手で消すなど朝飯前であるし、このとおり指一本でずいぶんと遠くまで吸殻を飛ばすことも。さらには片手で蝶結びだって出来るのだ。

 溜め息を吐く、膝に手をついて、眉間に皺を寄せて、感じた眩暈が去ってから、唾を吐き捨てて、ゆっくりと歩き出す。

 その背中は、やや丸まっている、姿勢は全く良くない。

 ハンス=ハンズは、そういう男だった。

 自分に魅力の無いことは彼自身、よく、よく、理解していて、恋とか愛とか、そういう粘っこいものとは無縁に生きていくつもりで、自分をどうにか変えようなどということはもう、諦めてしまっていた。自分に纏わり着く余計なものとは、身を離して歩いていこうと決めるような男だった。だから必然、魅力は増すはずも無い。稀に、ごく稀に、物好きが「そんなところがあってもいい(もしくは、そんなところがあるからいい)」と言って擦り寄ってきたりしたが、蓼食う虫と殆ど相手にしてこなかった。性的欲求を果たす為にだけ、彼にとって女は存在していたし、それ以外の女は女でなくて良かった、人間として在れば良かった。性欲の濃度も希薄な部類に入るこの男だから、必要にも欠く。

 そんな男が、いま、ふらふら、ふらふら、寝不足の目のまま、帰る所を恋しがっている。

「……ああ、お帰り。出かけてたんだ?」

 言うまでも無く、言う必要も無く、コーマックのトレーラーであって、ここがいまのハンスの家である。

 その言葉に苛立つ理由は判らない。不快ならばこの場から逃げてしまえば良い、それなのに、それは絶対に出来ない。どうしても、どうしても、ハンスはコーマックを嫌いにはなれない。しかしながらコーマックから逃げることも出来ない。

 ハンスのサディズムは、メカニズム的に言えば、逃げ道。

 それも、コーマックがマゾヒストとまでは言わないが、「それでもいい」と、ハンスの攻撃性を大らかに受け止める姿勢を貫いている以上、逃げ場は全くふさがれた形。

 その上、二人の姿勢がかようなもの、ハンスが「下」である以上、ハンスは圧倒的に弱い位置にいる。

 それを自覚しているから、ハンスの憮然たる態度にも拍車がかかるのだ。

 いつかは、ケリをつけなければいけない――

 ここへ来て、また持前の気の長さでもって、ハンスを待つことにしたコーマック――それは「コーマックの好きなようにさせるのがおれの仕事だから」という思いやりなのだが――に、決断の爆弾はハンスに委ねられることとなった。

 そう。

 こんなだらだら続く無意味な時間は、とっとと終わらせなければならない。時間の無駄だ。

「コーマック」

 ハンスは枕を尻に敷いて座る。新聞を畳んで、コーマックは顔を上げた。話し掛けてもらえた嬉しさに、目が煌いている。

「何?」

 ハンスは茶色の髪を二三度、爪で掻いて、なぜ乾いているか判然としない唇を湿す。

 しかし、その唇で、密やかに微笑む。

「終りにしようよ」

 声は静かに、潤いを帯びた。

「え?」

「……コーマック=リムズ、もう、終りにしよう」

 寒さが緩んで来つつある。もう一緒に眠る理由を見つけられない。その代わりに、自分たちの無理とぎこちなさが浮き彫りになる。ハンスはもう、そんな自分が惨めに感じられてならなかったのだ。

「な?」

「……え?」

 赤くなってないか? 青くなってないか? 黒とか白とか。紫とかピンクとかも困る、そう気遣いながら、いつものままの肌の色で、透けるような青さのコーマックの目を真っ直ぐに見詰めた、滅多いにないことだった。

「おわ、……終りに?」

「うん、そう。終り。もうお終いにしよう。な? おれ、嫌なんだよこういうの。こういう微妙なの」

 白い肌を青くしたコーマックを、ハンスは苦笑してみる。

 ああ、ああ、ああ……。

 壊れていく、壊れていく。冬が終り、春が来る、融けていくんだ、おれたちが、融けていくんだ。ね、こんなふうに、ね……。

「おれの、……こと嫌いになった?」

 ハンスは首を横に振った。

 おまえはさ、コーマック。そういう風に可愛い。そういう風におれを擽ってさ、苛めずにはおれないような気にさすんだよな、苛めてくれ苛めてくれ言われてるみたいな気になるんだよおまえ見てると。

 ぬるま湯は風邪をひく。

「来い」

「……え?」

「もう、いい加減待ち飽きた。……おれのケツやるっつってんだよ、有り難く受け取ったらどうだ。ええ?」

 ぽかん、と目を丸くしたコーマックの顔が間抜けで面白かった。

 馬鹿が。

 大馬鹿が。

「恋をする時期はもういい加減、いい年なんだからさおれら、終わらそうぜ」

 勝手なことを言って、

「おれはおれの思ったとおりにしかしない、おまえもそういう風にしてろよ。おれはおまえのことを、おまえが心配しなくたって苛めてやるし、必要なときにはおれをどう使ってもらおうが構わねえし」

 赤だ。

 おれも、ひょっとしたら赤。

 そう考えながらハンス、さほど悪い気はしない。余計なものが抜けていくような気がする。覚悟を決めるための煙草が一本。

「けど……、そんなベタベタすんなよな」

 すでにしている相手に何を言っても無駄だろうが、コーマックはベッドにハンスを押し倒して、かれこれ五分はその煙草くさい胸に鼻を押し当てている。

「しねえの?」

「……ん……」

「いざとなって怖くなったか?」

 コーマックは子供のような笑顔を見せる、目は潤んでいる。

「いいや。……ハンスは怖くない?」

「おれは別に……いや、……」

 ハンスはコーマックの額から髪をかきあげて、ああこれはまるで恋人そのものだなと、いや、おれたちは恋人そのものなのだと、思った。

「おれのケツん中でおまえのチンコが千切れたりしないか、それだけがちょっと心配だな」

「え?」

「いろんなところブチブチ切れるからな、大方チンコだって切れんだろうが」

「あ……、ああ……、うん、……確かに、チンコも切ろうと思えば切れるんだろうけど……、あの、切りたくないって言うか、指とか、別に、噛み千切ってもそんな痛くないし、血も出ないから、いいんだけど、でも、……何で笑ってるの」

「いや……。ケツの力くらいじゃ切れねえだろ。だいたいおまえ、手であんだけ強く握ったって平気だっただろうが」

「あ……、う、うん」

「心配なんかしてねえよ。ただ、万が一にでもケツの中に置きっぱなしにでもしたときには、すぐ抜いてくれよ、腹ん中まで腐らしたかないからな」

「……うん……」

 金色の髪が、くすぐったそうに揺れる。

「……ハンス」

 コーマックは甘える。

「大好き……。ハンス、おれはおまえが、ハンス、大好き」

「……そうかい……」

「ほんとだよ。おれ、大好き、大好き……、ハンスが大好き。おれ、おまえと結婚したい。死ぬほど好き」

「……バーカ。そんな恥ずかしい真似できっかよ」

 言いながら。

 許されているならそれもいいかな、などと、などと、などと。紐がだらしなく解けていく。

「……しよう」

 泣き声のようにも聞こえる、コーマックの誘いに頷いた。

 スラックスを不器用に解いて、そこに千切られるための指が入り込み、ペニスに絡みつく。

 特別じゃなくても自由じゃなくても、要するに普通で他の誰かと同じであっても、物ではなく人として生まれてきた以上、与えられ、果たしたいと思った命が自分の中に宿っているということを自覚する。どんな形でも構わないからと願われて生まれてきた。どんな形でも構わないから幸せになりたくったって。

 キスをして抱き合ってセックスへと達していくなだらかな坂を、カッコよくなくたって全然構わんと、ハンス=ハンズは、コーマック=リムズと歩いていくことを誓った。

 おれの身体がこの男にどういう魅力を与えているのか。本当に与えているのか? そう考えると不思議で相変わらず信じられない気持ちは、相変わらずある。おれの男性器を、本気の目で咥えている。おれの男性器を、本気の目で。困るくらい、息がもたなくなるくらい、この男がおれを愛するのを見ていて、おれも息がもたなくなる。ただ、こういう相手にだったら、自分のケツをくれてやってもいいと本気で思う。本気でそう思うのだ。


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