ミールストーム

「聞いてなかったね、そう言えば」
 エブラは唐突に切り出した。二人分のホットコーヒーを買ってきて隣に座ったダレンは、何の話をされているのか図りかねて、首を傾げた。

 エブラはコーヒーを受け取って、一口啜った。はっ、と吐いた息が、宵闇に魂の陽炎みたいに泳いで消える。エブラは熱いコーヒーが喉の奥をつーっと焼いていくのを楽しむために一拍置いてから、言った。
「だからさ、デビーとのデート。どうなったんだ? えらく話したがってたから。いや、おれも聞きたかったんだけど、こんなことになっちゃったからさ」

 ここにいたる経緯は、大体以下の通りである。
 ダレンが街の広場で出会った、デビーという女の子と仲良くなった。エブラも彼女に会った。ダレンの仲良くなった子が、エブラのことを気持悪く思うはずがないから、すぐに打ち解けた。ダレンとデビーはデートに行く、エブラはその二人を見送り、部屋で、その日はなんだか退屈なプログラムばかりにめぐり合いながらテレビを見ていた。まあ、いいや。ダレンが帰ってきたら、どんなことがあったか話を聞くんだ、そうすればきっと楽しいさ。
 しかし帰ってきたダレンがデビーとのデートを、本人が嬉々として(それだけの収穫があったのだ!)エブラに打ちあけようと部屋に入ってきたときには、エブラはそんなことなどまったく忘れていた。ニュース番組から、六人の人間が、身体から血を完全に抜き取られた形で、遺体となって見つかったという、あたりまえに考えれば彼らの保護者であるバンパイア・クレプスリーの存在と結びついてしまう事件を報じているのを、見てしまったからだ。だから、デートの話をしたくてしたくてうずうずしていたダレンを遮って、事件の話を始めてしまったのである。いざクレプスリーに関わることとなると、ダレン自身にとっても人生の師として仰がねばならぬ存在であるから、ダレンも本腰を入れざるを得なくなり、そうして気付けばデートの話は、それ以来ダレンの口からは一度も出ていなかったのだ。
 あの夜の次の晩から、夜行性のクレプスリーの尾行を、二人してしていた訳だが、今日は首尾悪しく、早々にオレンジのモヒカンを見失ってしまった。こうなっては、冷たく眠った街をうろうろして、クレプスリーの影に鉢合わせるという偶然に頼るしかない。しかしその偶然の確率が、きわめて低いことはもちろん分かっている。街頭の針時計は二時を回っている。今日はもう帰ろうかと、いやもうちょっと粘ろうよと、とりあえずは一休みだねと、ダレンがコーヒーを買ってきた。そのダレンを見上げ。とっくにシャッターを閉めた銀行の入り口にしゃがみこんだエブラが冒頭のような科白を言ったのである。
「デート、ああ、デビーとのデート! 聞きたい? なあ、エブラ、聞きたいだろ?」
「……言いたいんだろ?」
「どっちだっていいよ。な、聞いてよ」
 白い息をもうもうと流しながら、ダレンが言う。エブラも微笑んで、うんうんと頷く。ダレンはそれはもう誇らしげに自慢げにエブラに言う。
「エブラ、本気のキスってしたことあるかい?」
 ダレンは鼻からも白い息を吐きながら、言う。エブラはコーヒーを一口飲んで、言わんとしていることを図りながら、そのプライドを最大限尊重するように、

「ないよ、ない」
 エブラの科白に、
「ふーん」
 ダレンは侮るような返事。しかし、唇の端がひくりひくりと動いている。憎ったらしい! エブラはケラケラ笑いそうになりながら、そう思った。
「へえ、おまえ、デビーと本気でキス、したの?」
「ああ! したよ! デビーとキス、本気でしたよ。初めてだったけど、……緊張したし、なんていうんだろ、ちょっと怖かったけど、なんていうか、良かったなあ。うまくいえないんだけど、優しい感じって言えば分かってもらえる?柔らかくて。羽根にほっぺた寄せたらあんな感じかなあ」
「羽根にほっぺた?」
「うん、そう。ふわって感じでね。そうかそうか、エブラくん、きみはまだしてないのかね。それはもったいない事だ、なるべく早く味わっておくことをおすすめするよ」
「えっらそうに……」
 皮肉めいた科白とともに、エブラは最高の微笑を浮かべる。ダレンの、嫌味ったらしい程うれしかったんだという気持が、彼のうろこを透過して伝わってくるのだ。
「まあ、よかったじゃない。うまくやれよ、これからも。そしたら、まあ……、うん、もっといい目、見られるかも知れないぜ」
 ダレンも、エブラに祝福してもらえて心の底から笑っている。
「うん、もちろんだよ。……もっといい目って?」
「ああ、まあ、分かるさ。おれも見たことは無いけど、いい目、らしいぜ」
「ふーん……、まあ、そうだね、エブラも早くガールフレンド見つけなよ。あ、トラスカは?」
 その名前が出て、あれえ? とエブラはわざと素っ頓狂な声を上げて見せた。
「トラスカはおまえのこと好きなんだぜ? あ、ダレン、ひどいやつ! 洋服贈ってもらったの忘れたんだな? ひどいなあ、トラスカとお前は将来を誓い合った仲じゃなかったのかよ」
「だっ、誰がそんなこと言ったよ!」
「えー、おれそう聞いたけどなあ? そういやトラスカともキスしたって言ってたよねおまえ。うわあ、ダレン浮気者だ。ダレンは浮気者!」

「な、なんだよっ、うるさいぞこのリザードマン!」
 エブラの陽気な笑い声が静まり返った街に、ひときわ浮ついて響く。ダレンは怒りながらも、やがてその笑いにいざなわれるように、再び笑い出す。そうして、
「そうさ、ぼくは浮気者! 世界中の女の子を振り向かせて見せるよ」
 そんな、思ってもいないことを口走る。そしてまた、エブラにからかわれて、愉快きわまりないといった笑い声をずっと上げつづける。




「でね、それでね、キス、したんだ、ぼく、デビーに」
「それで彼女が言ったんだろ、『また明日ね、ロミオさん』」
「違うよ、そうじゃない。その前に一度彼女がぼくのほっぺたに、キスをしてくれたんだ!」
「ああ、そうだった。それから『ロミオさん』か」

「そう! ぼくの目には彼女がジュリエットに見えたね!」
 今夜もクレプスリーに撒かれて、コーヒーを飲みながら夜の世間話に花を咲かせる。といっても、話す内容など一つしかない。ただひたすらにダレンの武勇伝、エブラはそれを、苦笑いしながら聞き続けるだけだ。しかし、つまらないなどと思ったりはしない。ダレンが嬉しそうに話しているのを、聞いているだけで、エブラも楽しくなってくる。友だちの喜びを喜びと思えないようなら、友だちじゃないよとエブラは思っていた。五回も同じ科白を聞かされて、ほとんど筋は覚えてしまった。そうして、肝心の、ダレンにとって一番のハイライトであるキスのくだりに、ダレンが浮かべる、輝くような笑顔も。
「いいなあ、ダレン」
 エブラはダレンのプライドを優しく撫でて育てるように、言う。
「おれも、いつかそういうことしたいよなあ……。出来るかなあ、おれにも」

 どうだろうねえ、ダレンは憎たらしく笑っている。優越感に、心持ち胸を張って、足を組んだりなんかして、思い切り威張っている。
「なんてったってねばねばだしね」

「ああ、なんてったってな。こりゃ、人間の女の子と付き合うのは諦めたほうがいいかなあ。……いっそヘビのガールフレンド、作ったほうがいいかなあ」
「うん、そっちのほうが望みはあると思うよ。『彼女』の眼鏡にエブラがかなえば、の話だけどね」
「……なあおれ、そんなにぶさいく? そんなもてないかなあ」
 ダレンは嬉しそうに笑って答えなかった。

「まあ、冗談はさておいても。エブラも早くしたらいいよ。キス、思いのこもったキス、最高だよ」
 まるで大人が子供に言うみたいな態度でダレンは言う。エブラは少しふてくされたようにそっぽを向いて遠い目をして、
「だって、相手いないもの。ヘビじゃなあ……、唇ないも同然だしなあ」
「じゃあ、ぼくが代わりを務めてあげようか? エブラの後学のために」
「へ?」
 持っていたコーヒーの缶がつるっとすべって、危うく、まだ半分以上のこっているのに地面に落としそうになってしまった。
「おいおい、冗談だろダレン。何言ってるんだよ。男同士じゃないかおれたち。キスしたっておまえがデビーとしたときに感じたみたいな、優しい感じ、味わえるわけがないだろ」

「まあね」
 ダレンは最初から冗談だったことを明かすように、屈託無く笑った。
「じゃあ、エブラはかわいいヘビのガールフレンド見つけて、仲良くやっててよね。ぼくはデビーと、もっとうんと仲良くなるんだ」

「おお。でも、トラスカのこと忘れてやるなよな。あんな美人、なかなかいないぜ。ヒゲ伸びるけど」
「だからトラスカとは何もないって……」
「あ、また始まったよ。ひでえなあダレンおまえってやつは、情が無いなあ」
 自分は、渦巻きに飲み込まれているんじゃないか、エブラはそんなことをうすぼんやりと考えている。渦巻き、激しい渦巻きだ。自分の想いの温度差が風を生んだのだ。
 ダレンとデビー、上手くいくといいね。キスがそんなに嬉しかったダレンを見ていると、エブラもすごく嬉しい。同じ気持ちを二人で感じているのだと思えて、幸せになれる。しかし、何によるものかは自分でも解らないのだが……、おそらくはダレンに対しての嫉妬という単純な気持ちだろうが、悔しい、寂しい、そんな自分本位の気持ちも確かに存在する。正反対にあるその気持ちの間を、半円の弧の軌道で行きつ戻りつしているうちに、渦巻きの底にはまりこんで、もう空を見上げるしかない、そんな状況に陥ってしまったような気になる。
 さっきダレンがキスをさせてくれる、言い出したとき、自分が思ったのは何だったか。小さな抵抗と、それをはるかに上回る、喜びではなかったか。
 とすると、自分は、ダレンのことが好きなのだ。デビーに対して、嫉妬しているのだろう。そして、トラスカに対して。二人はダレンにキスをもらった、だけどおれはまだ、もらっていない、という嫉妬心が、ここにある。だから、してしまえばよかった。
「ま、エブラもさ」

 ダレンはにこにこ笑っている。
「そのうち、いいひとが見つかるよ。諦めさえしなければね。大丈夫、ぼくだって出来たんだし」
 エブラは、ダレンの唇から吹き上がるコーヒーの吐息が嬉しそうにデビーのことを話すのを、本当は鬱陶しく思いながら、その吐息をおれにかけるなと、低い声で怒っていた。
 しかし、そんな狭い心ではありたくない。ダレンの喜びは、事実、エブラの喜びでもあるのだから、そんなことは、考えたくもない。正反対の気持ち。心の中の渦に、飲み込まれていく。
「ああ、まったくもう。聞かなきゃよかったなあ、そんな自慢ばっかされるってわかってたら!」

 エブラは冗談っぽく吐いて棄てて、笑った。ダレンは相変わらず嬉しそうに笑っている。その笑顔を憎たらしくも愛しくも思いながら、エブラは舌打ちをするくらいしか出来ない。そう、さっきも言った、自分で言った。……男同士じゃないかおれたち。なあ?キスなんてしないほうがいい。世の中にはそういう人たちもいっぱいいるし、それはそれでいいんだろうし、おれもそれでもいいけど、ダレンはきっとそうじゃないだろうし、おれだって積極的にそうしたいとは。
 思うけども。

 男同士だから、互いの唇に優しい温もりを感じられないと、誰も決めてなどいない、そんな法もない。そうだ、そんなの、してみなかったらわからないじゃないか。
 しかしダレンの、コーヒーを飲む横顔に、そんな事を言ってキスをねだる自分の姿など想像できなかった。




 ランチタイムの混雑も一段落したカフェの隅っこで、ダレンとエブラは向かい合って座っていた。小さな海賊とマスクに付けヒゲにサングラスという異様な二人組の隣のテーブルは空いている。二人は変に意識することなく、広い席に悠然とふんぞり返っていた。
「とりあえず、これから携帯電話を買いに行こう」

 ダレンが言う。エブラはちょっと考えて、
「ああ、あの電話のオモチャみたいなやつな。役に立つかな」
「立つよ。携帯電話で細かく連絡を取りあって、確実にクレプスリーを追いかけよう。そろそろ、クレプスリーも動き出すかもしれないし。……っ、あつっ」

「お、おい」
 考えも無く口に入れたホットチョコレートの思った以上の熱さに、ダレンが声を上げた。唇を押さえて、涙目になる。エブラは慌てて、自分のアイスモカを差し出した。

「あ、ありがと」
 ストローで吸って、「んー……」と眉間にしわを寄せる。
「熱かった……。話の方に頭が行っちゃっててさ……、油断してた」
「まったく……」

 アイスモカのグラスが帰ってきた。エブラは何も考えず、自分もモカを飲みかけて、はたと気付いた。
 ……このストロー、ダレンが吸ったストロー……。
「エブラ?」
 ハッとして、ダレンにぎこちない笑顔をした。
「ああ、うん、気をつけなきゃ」
 ダレンはへへ、と笑う。「そうだね、唇やけどしたら、デビーとキスできなくなっちゃう」
 本人にそう自覚があるはずもない。が、ダレンの言葉に、エブラは思いのほか、かちんと来た。自分でも思ってもいなかったような声が出た。
「もうその話はいいよ」
 エブラの声音に頓着せず、ダレンはなお言い募る。
「なんでさ。いいだろ。嫉妬してるのか?」
「やめろよ」
 エブラは言い放つ。
「そんな話よりも、クレプスリーのことのほうが重要だろう」
 ダレンは、少しつまらなそうな顔になって、「ああ、そうだね」と。
「じゃあ……、飲み終わったら携帯電話買いに行こう。よくわからないけど、……多分、なんだかいろいろ書類書かされるんだと思う。……身分証明もいるのかな。わかんないけど、でも何とかしよう」
 ダレンの言葉に、むっつりと頷いて、エブラは一呼吸おいて、モカを吸った。砂糖を入れたくせに甘くなくって、そのくせ喉にねっとりと絡みつくようだ。ダレンは、なぜエブラが急に不機嫌になったのか、理由が全くわからない。憮然とする友だちに、「変なエブラ」、小さな声で呟いた。

 


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